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小さな妹がいた。年の離れた、まだ小さな妹。エルデバードが八歳の時に生まれたから、記憶は鮮明だ。
その産声は、屋敷中に響き渡った。父と共に、役に立たない息子ははらはらしながら家族用の居間で待っていたのだ。
生まれて一週間後には、リシュリーも会いに来た。妹は小さくて、二人ともとても抱っこは出来そうもないと思った。ただその手に触れ、頬にキスをして、家族になったことを歓迎した。
サリューナ、と名付けたのは、父だ。この国で、喜びを司る女神の名前で、その名の通り妹はこの家に笑顔をもたらした。無邪気に笑い、泣き、感情のままに振る舞う幼子は、リシュリーと気が合うようだった。彼女がくると、いつもその膝によじ登り、歌をねだる。いつかエルデバードと薔薇園で歌ったように、子供の歌を一緒に歌うのだ。
エルデバードとリシュリーは、十五歳で学舎に入ることが決まっていた。寮暮らしをしない、と決めたのは、妹が泣いたからだ。どうせ家から通える距離なのだから、泣かせてまで強行することではない。そう言うと、リシュリーはあの大きな笑い声をあげたものだ。
エルデバードったら、あなたが離れたくないだけでしょう?
馬鹿を言うなと不機嫌に否定はしたが、図星を指されたという思いは隠しきれず、彼女はますます笑い転げた。
妹も、兄と、そして兄の婚約者が大好きだった。
そのことをもっとよく考えるべきだった。
小さな妹。のびのびと育ち、いたずら好きで、自由で、動き回るのが好きな女の子。
その日、エルデバードとリシュリーは、二人で庭を歩いていた。もうすぐ学舎に入る、という時期で、そうなってしまえばあまり薔薇園へは来られなくなりそうだから、と、咲き初めの花を見に来たのだ。
さすがに、もう大声で歌うようなことはない。子供らしさをどこか残してはいるけれど、その頃のリシュリーは、大人になりかけのしとやかさを身に着け始めていて、エルデバードは覚えのない照れを感じたものだ。公ではまだだったが、二人の間ではもう、将来を考え始めていた。
厩舎に行こう、と言ったのは、エルデバードだった。リシュリーが馬に乗りたがっていることは、口に出さなくとも感じていて、学舎に入ってしまえばさすがにもうその機会はないだろうから、最後に馬上に上げるくらいはしてやろうと思ったからだった。
薔薇園から、屋敷の前を通って、反対側へまわる。そこに、彼女が名付けた馬がいて、二人が現れると、いつものように前足で地面をかいた。おやつをねだっているのだ。
あたたかい春の日。薔薇園を見ていたせいで時間は少し遅く、もう間もなく日が落ちてしまうという時刻。二人きりだった。そう思っていた。
厩舎のすぐ外で、木箱に乗った彼女を抱き上げ、ウィミィの背に座らせた。その後ろに跨って、少し怖いのか目を丸くして固まっているリシュリーの体を支える。いつになく近い距離に、彼女はうっすら頬を染めた。その様子を見て、エルデバードははっきりと自分の気持ちを自覚した。
幸福な子供時代を終えて、自分たちはもうすぐ、大人の入り口に立つ。その行く先にリシュリーがいれば、きっと自分は同じように幸福だろう。愛かと問われればそれはまだ、分からない。けれどこれははっきりと恋だった。
兄ちゃま、みて、ゆうやけ!
突然のことだった。物陰から現れた小さな影は、ウィミィの前に急に飛び出し、大声で叫んだ。
何が悪かったのだろう。
サリューナを見失ってしまった侍女か。いつも侍女を撒いて逃げ出すサリューナを、本気で叱らなかった母か。逃げだしたサリューナが、屋敷前を通り過ぎた兄の後をこっそり追ったと気付かなかった二人か。
妹が、兄とその大事な人を、大好きだったことか。妹を慈しみ可愛がったことか。
後をつけたはいいが、二人はサリューナに気づかず、辺りは少しずつ太陽が沈みはじめ、おそらく妹は寂しくなったのだろう。その気持ちはもう、推察することしか出来ない。
危ない、サリューナ! 駄目よ!
妹はまだ小さく、馬に近づいたことがなかった。だから、この優しくも力強い生き物が、とても繊細なことを知らなかった。
唐突に飛び出した影と、その大声に、ウィミィは悲鳴のようないななきをあげて、前足を振り上げた。振り落とされまいとしがみついた手綱を伝わって、鈍い、手ごたえがあった。
いやぁぁぁぁぁぁ!
狂ったようなリシュリーの泣き声と、ウィミィを必死でなだめるために手綱を操る自分を、沈む太陽が真っ赤に染め上げた。辺りは全てが――サリューナの――赤い。小さな。その亡き骸の色に。
全ては隠蔽された。ジェイルをはじめとした少数の従者と執事、家令、エルデバードとリシュリーの家族と、父に抱き込まれた医師だけが事実を知っている。
サリューナの病が静かに貴族たちの間で噂され、ひと月の間を置いて、医師がその死を診断した。ひっそりと葬儀が営まれ、参列者はその顔を見ることもなくサリューナを見送った。
なぜ、と激昂したのは、エルデバードだけだった。父は王宮で法に携わる仕事をしていた。こんなことが許されるはずはなかった。父からの答えはなかった。だが、それがおそらくエルデバードとリシュリーのためだったのだろうということは、今ならなんとなく理解している。
事故ではあった。だが、その馬上にいたことは、心無い憶測と噂を呼ぶだろう。大人たちはそれを恐れたのだ。
以来、エルデバードは笑顔を失った。何をしていても、忘れられない。幸福だった頃の妹の歌声がいつも耳の奥で鳴っている。何を聞いても何を食べても、ふと、あの手ごたえが蘇る。掌に。伝わってくる。
直後に入った学舎では、それが自分の本質だととらえられていたようだが、どうでもいいことだった。この先、忘れることはない。笑うことも、誰かと親しむこともないだろう。だから、ある意味でそれは事実なのだ。
リシュリーが、まるで昔のように振る舞い始めたのは、いつのことだっただろう。サリューナの葬儀から入学まで、全く会わなかったのに、同じ教室で彼女は笑っていた。そしてエルデバードの隣に立ち、無表情で無口で冷ややかな自分の代わりに、学友たちとうまく橋渡しをするようになった。子供みたいな彼女の笑い声と無邪気な対応に、周囲の空気はエルデバードに対して随分と和らいだものになる。
けれど、知っていた。彼女は必ず、日没より前に家へと帰る。料理長がうるさいの。そう大げさに嘆いて、夕食に遅れた時の話を面白おかしく話すのだ。
真実をエルデバードだけが分かち合っている。
夕焼けが怖い。あの色が、全てをいっぺんにあの瞬間に引き戻す。悲鳴。赤。鈍い手ごたえ。悲鳴。歌声。歌声。赤。
もう、子供だったリシュリーはいない。そこにいるのは、子供の仮面をつけて、エルデバードと共に生きると決めた、強い女性だった。
一緒にいると、苦しい。思い出すから。
一緒にいないと、苦しい。恋しいから。
このジレンマを抱えて生きる。自分たちは、何ものからも逃げられない。過去からも、そしてお互いからも。
卒業したら、式を挙げよう。
そう伝えた日、リシュリーは初めてエルデバードの前で泣いた。エルデバードは泣けなかったが、迷いは捨てたのだ。
「私はもう、君の前で笑うことは二度とないだろう。それでも一緒にいて欲しい。いままそうだったように、これからもずっと」
お互いが思い描いた、夢のような結婚とはかけ離れた申し込みだった。もしかしたら、離れた方が幸せなのではと思ったこともあった。それらを全て含んで、エルデバードはリシュリーと共に生きたいと願った。
「ええ。誓うわ。ずっと一緒にいるわ」
三日後に、エルデバードは階段を踏み外して大けがを負うことになる。
そして全てを忘れた。忘れられないと思った、何もかもを。
失ったものは少しの記憶。
ただ、それだけ。