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君に誓う  作者: 有沢ゆう
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 庭園に、明るい笑い声が響く。リシュリーははっとして自分の口を押えたが、生垣の向こうからやはり、呆れたようなため息を貰ってしまった。


「リシュリー……」

「……立ち聞きなんて紳士のすることじゃないわ、エルデバード」

「屋敷にも届こうかって大声を出しておいて、なにが立ち聞きだ。今日は一体、何がお前を笑わせたんだ?」


 リシュリーは思わず、また笑いかけ、かろうじてくすくす笑いに抑える。


「だって見て、ほら、お宅の番犬はこんなに人懐こいのよ。笑わずにいられて?」

「腹を出してぐねぐね動いているその物体は、うちのか。ジャナ、ニナ、おすわり」


 二匹の真っ黒い番犬は、大きな体を地面に擦り付けていたのを即座にやめて、エルデバードの前に並んで座った。ちょん、と両手をそろえている様子は可愛らしく、ちらりとリシュリーを上目遣いで見てくる様子も、笑いを誘う。


「人懐こいんじゃない、お前に懐いているだけだ。なぁ、お前たちの名誉のために、賢いところを見せてやれ。ほら」


 主人が投げた棒切れを、二匹は勢いよく取りに行く。よく手入れされた庭園に棒切れなどあるはずもなく、あれは、庭師が手慰みに作った犬用の玩具を、わざわざ屋敷から持ってきたのだ。

 エルデバードは、動物が好きだ。この犬たちも、番犬などと称して両親におねだりしたらしい。厩舎には馬もいる。ウィミィという名前は、リシュリーがつけた。ほんの仔馬だった頃、彼女の目は薔薇の花のように淵が赤く見えたからだ。いまや立派な栗毛に成長し、その背にエルデバードを乗せて力強く駆け回っている。

 本当はリシュリーも乗りたかったが、それらを自分の両親が許すとは思えなかったので、端からお願いもしていない。それに、髪をなびかせて馬を走らせるエルデバードをこっそり眺めるのも、悪くはなかったから。


「あっ、こら!」


 焦ったような彼の声にはっとする。気づくと、棒切れを咥えた犬が眼前に迫っていた。


「ふわっ!」


 乙女らしからぬ声を出しながら、飛びついてきた犬もろとも地面に転がる。かろうじて後頭部がぶつからぬよう首を守ったが、かえって背中を打つ羽目になった。一瞬、息ができなくなる。

 犬を激しく叱責するエルデバードに、仰向けのまま、やめてと叫んだ。


「駄目よ叱らないで、その子たちは、私があなたみたいに丈夫じゃないって分からなかっただけよ!」

「動くなリシュリー」

「大丈夫……頭は打ってないの。あーあ、でもドレスが台無し。草のシミがついちゃったら取れないのよね。お母さまに叱られちゃう」

「のんきなことを……」


 ふう、と息をついて体を起こそうとすると、エルデバードが背中を支えてくれる。そしてそのまま、膝裏に差し入れた手とともにリシュリーを抱き上げてしまった。

 とても驚いた。

 ついこの間まで、二人はほとんど身長が変わらなかったはずなのに、気づけばいつもより高い位置に目線があった。ほっそりと子供らしかった肩も、慌てて掴まった首元も、もう子供ではない感触が伝わってくる。

 不意に恥ずかしくなった。大声で笑い、犬に押し倒されて草まみれになっている自分が、いつまでも幼さから抜け切れていないようで。


「まあまあ、どうしたの!」

「母さん、うちの犬がリシュリーを転ばせてしまったんだ。デュラン商会を呼んでくれる? お詫びに、新しいドレスで帰してあげようと思って」

「あらやだもう、躾はあなたの担当だったでしょうに。分かったわ、誂えでなくて申し訳ないけれど、出来るだけ沢山運ばせましょうね」

「あの、私が悪いのですわ、ふざけていたの、だから……」


 申し訳なさと、そして抱き上げられた格好が恥ずかしいのとで、いつになくしどろもどろのリシュリーに、母と息子は笑みをこぼす。


「うちの息子は、贈り物がしたいだけなのよ、リシュリー。お茶を淹れましょうね、ドレスを運び込むから、広間に落ち着きましょう。さあさ」

「母さん……」


 困ったような顔をするエルデバードにますます恥ずかしくなった時、階段を駆け下りてくる小さな足音がした。


「わぁぁ!」


 リシュリーは思わず笑顔になる。小さい子特有の、むちむちした手足の少女が、目を輝かせて踊り場で立ち止まっていた。


「兄ちゃまと姉ちゃま、王子様とお姫様みたい!」


 抱き上げられた格好は、犬と遊び転がった直後でぼろぼろのはずだが、彼女は飛び跳ねて喜んでいる。顔を赤くするリシュリーと、天を仰ぐエルデバード。


「……よしよし、姫のために広間のドアを開けておくれ、妹よ」

「はぁい!」












 がちゃり、とドアが開き、リシュリーはぼんやり眺めていた窓の外から、視線を移した。入り口には、小柄な侍女が立っている。ノックを聞き逃したらしい。返事がないのに入って来たのは、最近、いつもこんな調子だからだろう。


「リシュリー様、リャナザンド家より使いが来ております」


 そう言って封筒を差し出してくる。確かに、封蝋はリャナザンド家の刻印だ。もともとあまり付き合いはないが、内容は察しが付く。

 予想通り、それはシャルロッテからのものだった。都合が良ければ、午後にでもお茶に来ませんか、と。或いはこちらからお伺いします。付け足された文言で、それが単なる世間話の一環ではないと知れる。


 少し、迷った。多分会わないほうがいい。だが、ここで断ったところで、彼女は諦めないだろう。学舎で同じ教室にいた頃から、彼女は物事をはっきりさせたい気質だった。何とはなしに空気で察する貴族の女子達にはあまりなじみのない性質だ。かくいうリシュリーも、はっきりさせないほうがいいこともある、という考えもあって、苦手な部類の人だった。

 嫌いではない。装飾過多になりがちな服装も節度を守り、そういう点では似ている部分もある。けれど、どこか子供っぽかった自分にとって、彼女はなんとかく敬遠しがちな学友だった。

 だからこそ、会わねばならないだろう。


 は、とため息が出る。

 厄介なことだ。王都から遠く、わざわざやってきたこの地で鉢合わせしてしまうなんて、運が悪い。


 けれど――彼は笑っていた。エルデバード。興味深そうにこの地特有の白磁色の壁が連なる通りを眺め、口元に穏やかな笑みを浮かべていた。それは、なんの屈託もない人生を思わせた。


 私は間違っていなかったのだ、と、その時はっきりとリシュリーは確信した。正しかった。エルデバードから離れたことは、苦しくも辛くもあり痛みを伴うものだったが、それを超えてなお、喜びを覚えた。

 良かった。彼が普通の人生を送っているようで、安心した。

 どうかそれが長く続きますように。


 リシュリーは、お待ちしております、と返事をしたため使者に託した。













 もともと、子供らしさを残した愛くるしい顔をしていたが、その丸かった頬はこけ、柔らかく笑んでいた目元は落ちくぼんでいる。目に光はなく、すっかり細くなった指には、茶器すら重そうだ。


「魔術で冷やしてありますわ。暑い中いらしてくださってありがとうございます、シャルロッテ様」

「こちらこそ、お誘いしておいてお茶をいただきにあがってしまいましたわ。……美味しい、花の香りがつけてあるのね」

「ええ、朝摘みの薔薇で」


 リシュリー・フェルニッツ。シャルロッテは、この学友のことを知っていた。おそらく、彼女が思うよりもずっと。それは、彼女がエルデバードの実質上の婚約者であったからだ。


シャルロッテは、エルデバードを高く評価していた。怜悧な頭脳と判断力、勉学にも魔術にも優れ、将来性があった。我が家にふさわしい、とは父の言だ。


 彼が学友になると知った時の父は、珍しく悪い顔をした。普段はとてものんびりしていて、寝坊をして執事に叱られるような人だ。ただ、家のことをよく考えている。だから、子供がシャルロッテ一人しか生まれなかったことをとても気にしていた。いずれ婿をとるか実弟の次男を養子にとるか、後者のほうが将来的にもシャルロッテのためにも良策だと考えていて、だからこそその嫁ぎ先には本当に良いところを、と心を砕いている。デビュタント以前から、あらゆる可能性に網を張り巡らせている。そこにひっかかっていたのが、エルデバードだ。


 ただ彼は、実質上の婚約者がいた。父も、実に惜しい、と言っていたものだ。つまり、諦めていた。それは――シャルロッテも同じ。望みは父と同じだが、理由は違った。シャルロッテは彼に、恋をしていたのだ。


 事態が変わったのは、エルデバードの長期欠席が明けてからだ。彼が記憶を失ったことは周知され、そして学舎内では徹底的に、過去のエルデバードの様子と比べる発言を禁じられた。彼の父親である侯爵の直々の要請があったらしい。表向きは、それが彼の心を守るためだ、と伝えられた。過去との違いを突き付けられ続けることで、現在の自分との乖離が深まり、心が弱るのだ、と。


 シャルロッテは最初、それがバカバカしい気づかいだと思った。エルデバードはそんな弱い人間ではない。いつでも冷静で、客観的で、自分に厳しい。早く昔の自分を取り戻すべきだ、と思った。

 だが――療養明け、初めて教室に顔を出した彼は――。


 あれは、誰だ。


 穏やかに笑い、時に大声をあげ、人の親切に感謝をし、自らも人を助ける。まるで、普通の人間だ。

 誰もが驚き、戸惑った。しかし、その人懐こい様子や、これは衰えない頭脳と才能を惜しみなく人のために使う彼に、次第に皆、親しみを感じるようになった。あの、触れれば火花の散りそうな張りつめた緊張感がなくなった彼は、本当に魅力的だった。


 だから、入れ代わるようにして学舎に来なくなったリシュリーのことは、あまり話題に上らなかったように思う。そのほうが、都合が良かったからだ。彼のそばにいつもくっついていた、幼馴染の婚約者は、新たに彼と関係を築く上では邪魔でしかない。あえて触れず、エルデバードがその存在を思い出さないようにしていたふしさえある。

 事実、彼女がいない間に、シャルロッテは彼と親しい関係を作りつつある。


 なぜリシュリーは欠席を続けているのだろう、と考えたこともあった。おそらく、あの子供っぽい婚約者は、エルデバードに忘れられていたのだろう。人は全て忘れてしまったという話だから、当たり前と言えば当たり前だが、きっとショックを受けたのだろう、と。忘れられたことが受け入れられず、拗ねてしまったに違いない、と思った。そんなふうな甘い雰囲気をもった少女だったのだ、リシュリーという人は。



 それが、この王都から遠く離れた街に来ていた。それ自体は、予想から外れてはいない。いかにも逃げて来そうな療養地だ。

 しかしその姿は、シャルロッテのそんな想像を全て覆すだけのインパクトがあった。

 肉のそげた顔は無表情で、彼女の持ち味だった優しい笑みは欠片もない。ゆっくり柔らかく話す声も、硬質で抑揚を失っていた。

 そう、まるで――かつてのエルデバードのように。


 何かが違う。その時初めて、記憶を失ったという事実を正面から捉えた。自分にとって、学友たちにとって都合の良い人格をした彼は、一体、このままで良いのだろうか。多分ずっと無意識に考えないようにしていたそのことに、初めて向き合ったのだ。


 記憶を失っただけで、人格は変わるのだろうか。忘れたことで変わったのなら、その記憶の一部が彼をかつての彼たらしめていたとは考えられないだろうか。

 つまり、彼はもともと、温かく人懐こい人格をしていた。何かがあって、感情を失った。もしもそうなら――今の彼が幸せに笑うのは――。





「体調がお悪くていらっしゃると聞きましたわ。押しかけておいてなんですけれど、お加減はいかがですの?」

「お気遣いありがとうございます。もうすっかり良いのです。けれどせっかく久しぶりにこちらへ参りましたので、しばらく滞在しようかと」

「エルデバード様がいらっしゃるから?」


 率直にぶつけたが、リシュリーの顔はぴくりとも変わらなかった。


「そのような理由ではありません。それにすぐお帰りになられると聞きましたわ」

「ええ……明後日には。お会いになりませんの?」

「予定はありません」

「それはどなたの意向ですの?」


 質問を重ねると、初めて彼女は不思議そうな表情を微かに見せた。首を傾げる仕草だけは、昔の彼女の様だ。


「私自身ですが。どういう意味です?」

「いえ、エルデバード様のおうちのほうから、記憶を刺激しないよう通達があったと聞きましたから……その一環かと」


 すると彼女は、うっすらと笑った。シャルロッテは指先が冷たくなる感覚を覚えた。その笑い方は、まったく、かつてのエルデバードと同じだった。


「ある意味では……そうかもしれませんね。ですがそうした事実はありません。私はここが好きなのです。だからここにいるだけです」

「ある意味、とは」

「私は彼と親しかったんですもの、記憶を刺激するという意味では、そうでしょう」

「それはエルデバード様のご両親や従者もそうなのでは?」


 とうとう、リシュリーはくすりと声を出した。


「ええ、そうかも知れませんわね」


 言葉を、態度が裏切っている。シャルロッテの言葉を、返す言葉では肯定しながら、表情と仕草が全くそれを否定していた。


 幼い印象しかなかったリシュリーを言いくるめて、事情を洗いざらい吐き出させようと考えて訪ねて来た自分が、甘かったと思い知らされた。確かに自分は今、彼女よりずっとエルデバードに近いはずなのに、そんな感覚は少しも持てない。二人の間には、他人の入り込めない何かがある。


 諦めたくはないけれど――これはちょっと、無理かもしれない。


 シャルロッテの冷静な部分がそう囁く。恋心はシャルロッテを積極的にさせたが、本来の自分はもっと慎重だった。そのことを、思い出してしまった。

 エルデバードの中の最も深いところにいる、と態度で示すリシュリーを、改めて眺めてみる。痩せてしまった彼女。笑顔をなくしてしまった。

 拗ねているんじゃない。悲しんでいるわけでもない。



 苦しくて苦しくて、死んでしまいそう。



 シャルロッテは静かに立ち上がり、暇を申し出た。そして、見送りのために同じように立ち上がったリシュリーに近づき、その手を握る。ちょっと驚く彼女の表情に、少しだけかつての面影を見た。


「また、お話しにきてもいいかしら?」


 思わず微笑みながらそう言うと、彼女は戸惑いながらも、儀礼的に頷いてくれた。社交辞令と思われたのだろう。けれどこれで言質を取ったようなものだ。


 屋敷を辞して、自分の別荘に戻ると、シャルロッテは母に、もう少しこちらに滞在したいと我儘を言った。そして父にも、手紙を出そうと思う。

 シャルロッテの結婚相手には、他の方を探してください、と。











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