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リシュリーは、幼いころから歌が好きだった。歌を歌うと、体中に声が巡り、その震えが心地よく伸びていく。それが好きだった。
だが、貴族の女子が歌を歌うことは、どちらかと言えばはしたないことだった。そもそも大声を出すこと自体が好ましくなかったし、ましてや未婚で愛を囁く歌などもってのほか。だから、淑女教育の一環で歌を習う、その時がリシュリーにとって最も楽しいひと時だった。
リシュリーの両親は娘にとても甘かったが、その辺は一般並みに厳しい。蝶よ花よと育てられた彼女はそれをよく受け入れ、おおらかで優しい少女に育っていった。
そのおおらかさは時に、夢中になると周囲が見えなくなる子供らしさになって現れる。
それは、とある侯爵の家に家族ごと招かれた日のことだ。その家の長男は、リシュリーと一つ違いで、場が和んでくると二人はそろって庭の探索に出かけることになった。
さすが侯爵家といおうか、庭師がいいのか、その家の薔薇園は実に見事なものだった。季節の薔薇が絶妙に配され、咲く時期や花の大きさ、色、形、あらゆる場所でいつ見ても感嘆の息が漏れるような出来栄えだった。
リシュリーは、薔薇も好きだった。美しく薫り高く、棘を持つ。理想の女性像だ。もっとも、彼女がそうなるには少し、優しすぎたし無邪気すぎた。初めて見る花の園に迷い込み、香りに酔ったような気持ちになったリシュリーは、ついつい、歌いなれた歌を歌い始めてしまった。鼻歌のように、『薔薇よ、その棘よ』という両家の子女に似つかわしくない歌を口ずさみ、歌の通りに薔薇から薔薇へと渡り歩く。
一人で遊んでいるのではなかった、とはっとした時には、すでに気持ちが乗りに乗って歌い上げてしまってさえいた。
おそるおそる後ろを見れば、実に渋い顔で、男の子が着いてきているのだった。
「あのう……」
「君はいくつだ、リシュリー」
「九歳になりますわ、エルデバード様」
「まあ、まだ小さい子供と言っても許される年か」
「ええ、あなた様のほんのひとつ下ですわ」
「……今この流れでそんなこと言うか、普通?」
「え?」
小首を傾げると、エルデバードと言う名の男の子は、屋敷の長男らしく鷹揚に笑って見せた。
「まあいい、歌が好きなのか、君は」
「ええ、好きですわ。お父様とお母様には、理解されない趣味ですの」
「仕方ないな。そういうもんだ。腹が立つかい? 分かってくれない両親にさ」
「あら、いいえ。だってうちは、伯爵家ですもの。身分があるのですわ。それは守らなくっちゃ」
「ふうん。教育が行き届いているんだな、フェルニッツ家は」
途端に、リシュリーははじけるように笑った。
「嫌味ですのね? でも私、本当に家族が大好き、家族も私を愛してくれています、趣味くらいのこと、我慢しなくっちゃ」
「君は本当に、貴族らしい。でも貴族らしくない。そんな大声で笑うか」
「エルデバード様もどうぞ! 一緒に歌いましょう、何がいいかしら。『太陽とこぶた』はいかが?」
「童謡じゃないか!」
その後も、二人は大声で歌いながら園庭を歩き、へとへとになって両親の元に戻った。澄ました顔をしているリシュリーを、エルデバードは呆れたように見ていたが、隙を見て片目を瞑ってみせると、くすりと笑って両親を不審がらせていた。
それが二人の出会い。相性がいいと見て取ったのかもしれない、それから二人は、両親によって何度も引き合わされ、やがてお膳立てを必要としないよう直接手紙をやりとりするようになった。
何年もかけて、手紙と贈り物のやり取りをし、時折会ってはお茶をして、歌を歌い、エルデバードの愛馬に相乗りして庭を歩いた。気持ちが通い合い、一度だけ手をつないだ。すぐに照れて離してしまったけれど、跳ねた心臓が自分の気持ちをはっきりと教えてくれた。それはエルデバードも同じ。
そして――。
王都から、エルデバードから遠く離れたこの海辺の街で、彼との最後の会話を、リシュリーは目を閉じて思い出す。
リシュリー、と彼は呼ぶ。
「俺はもう、お前の前では笑えない。心から笑うことは、ないだろう」
彼が記憶を失う、三日前のことだった。
冷ややかな目と、笑わない口元、抑揚のない平坦な言葉。それが求婚であったなど、誰が信じるだろう。
目の奥が痛い。痛みはじくじくといつまでも癒えず、胸を刺す。棘のように。
今、彼は笑っているだろうか。穏やかに生きているだろうか。
それだけがリシュリーの希望だ。
何もかも忘れてしまった彼は、きっと幸福を取り戻す。誰かと笑いあうエルデバードの顔を思い浮かべれば、それだけで救われる。
窓の外は夏の日差し。社交界もシーズンを迎え、華やかな世界は新しい噂をふりまいて、エルデバードの事故を片隅に追いやってくれるだろう。少しずつ少しずつ、入れ代わり代謝して噂は噂を飲み込んでいく。その大波に飲まれて、リシュリーの不在さえ藻屑と消えてしまう。
この胸の痛みを、私も忘れられたらいいのに、とリシュリーは思う。
「エルデバード、おき……ろ?」
朝起こしに来たジェイルが、面食らったように黙る。それはそうだろう。エルデバードはすでに朝の支度を終え、カーテンも開けられている。
「早いな」
「当たり前だ。さあ、行くぞ、朝食へ。遅れてはならん」
「相当怖かったんだな、料理長」
「そういうことではない! 人として、当然のことだ!」
学舎はすでに夏の休暇に入っている。それでも早起きをしたのは、予定があったからだ。今日は、遠乗りに行くことになっている。
王都の中は馬の乗り入れが禁止だ。だから、馬で思い切り駆け回ろうと思えば、郊外に出るしかない。エルデバードが知る限り、そのような環境はそれぞれの遠い領地か、同様に遠い別荘にしかないものだ。ところが、同じ学舎にいる学友が、王都の森に馬場を持っているというのだ。
三方を森に囲まれているこの地は、防衛という点で大変に優れている。しかし、そのほとんどは国の直轄地だ。勝手に開発されては防壁代わりの意味がないからだろう。貴重な森を私有地として持っているのは、古い貴族の証だ。その一人が、たまたま近くの席にいて、存分に馬に乗りたい、というエルデバードの切実なつぶやきを聞いていたものらしい。では当家の森で、と気軽に誘ってくれたのだ。
今日は、愛馬を連れていく。きちんと許可をとり、馬丁三人が安全に森まで運ぶのだ。予定より人数が増えたのは、もちろん、ジェイルの馬も運ぶからだった。
「遠慮がないな!」
「お前ばっかりずるいだろう!」
乗馬服に身を包み、馬の後をしずしずと着いていく馬車に乗って、さほどの時間をかけずに森に到着する。こんなに近くに馬場を持っているとは、本当に羨ましい、とエルデバードはため息をついた。
森の入り口から少し入ったところに、レンガ積みの小屋がある。小屋と言っても、庶民ならば普通に暮らすことができるくらいはあるだろう。休憩用の小屋のようだ。
ジェイルが先触れに行く前に、馬のいななきを聞き取ったのか、中から学友が飛び出してきた。同じように乗馬服を着ているので、最初は気づかなかったが、その声を聞いて顔がほころぶ。
「エルデバード様! お待ちしておりましたわ」
「やあ、シャルロッテ嬢。今日はお招きありがとう」
「お役に立てて何よりですわ。まあ、こちらがエルデバード様の馬ですの? こんにちは、お馬さん、綺麗な毛並みね」
止める間もなく、彼女は馬に手を伸ばした。牝馬は同性に厳しいものだ。だが、最初こそ鼻を鳴らしたものの、エルデバードの愛馬は大人しくたてがみを撫でられている。
「馬に慣れているんだな」
「ええ、女らしくないとはおっしゃらないでくださいな。子供の頃から、馬に魅せられていますの」
シャルロッテの家は、歴史ある伯爵家だ。その家の娘が、自前の乗馬服で馬を撫でているなど、なかなか珍しい。見た目通り、はつらつとした娘のようだ。
いや、そのことは、学舎にいた時からなんとなく分かっていた。明るく、笑顔の絶えない彼女は、教室の雰囲気を心地よいものにしてくれている。
「お名前は?」
「ウィミィという」
「まあ……可愛らしい名前!」
シャルロッテは声をあげて笑った。良家の子女らしくない、大きな笑い声。だが決して不快ではなかった。むしろ、心地よいほどだ。
ふ、と。めまいのように。自分は以前も、こんな風に誰かと笑いあったような――。
「薔薇の名前ですわね。ウィミィ。素敵な名前ね、お前」
「薔薇……?」
馬に角砂糖を食べさせているシャルロッテの言葉が、深いところに届く。薔薇の名前。何かが浮かびかけ、しかし、それは掴む前に消えてしまった。
「さあ行きましょう、エルデバード様。私の馬にも会ってやって下さいませ!」
嬉しそうに笑うシャルロッテに連れられて、厩舎に向かう。
その後、馬場というよりはほとんど、森の獣道と言ったほうが似合う自然の中を、存分に駆け回った。シャルロッテはエルデバードとジェイルに遅れず着いてきて、時に、先に立って道行を示しさえした。彼女の従者などは、着いてくるのがやっとのようだった。生まれた頃から遊び場だったというのは、本当らしい。
開けた野原で昼食をとり、午後にまた少し走って、満足したエルデバードはシャルロッテの手を取って本気で感謝を示した。
「本当に馬がお好きですのね。実は、別荘にはもっといい森がありますの。ここは少し、起伏が多く、本気で駆けることのできる距離が短いのですわ。それに比べて、レバの街にある馬場は平地がちの造りをしています。
確か、エルデバード様のおうちも、そちらに別荘があったのでは?
もし向こうで時期が合いましたら、ぜひお訪ねくださいな!」
「なに、ほんとか、シャルロッテ嬢。おいジェイル、別荘があるというのは?」
「はいエルデバード様、確かにございます。ただ距離がございますので、お体に障るやも……」
「ああ……そうでしたわ、私が浅慮でした。万全ではございませんのね……」
残念そうなシャルロッテの顔を見て、思わずジェイルを睨む。
「馬鹿を言え、俺はもう問題ない。行くぞ、ジェイル。その、海辺の別荘とやら!」
「は、しかし、侯爵様に許可をとらねばなりませぬ」
「否とは言うまい。向こうではよろしく頼む、シャルロット嬢」
「ええ、私たちは家族で6日後に出立ですわ。社交シーズンでもありますから、滞在はせいぜい十日ほどのこのですけれど、お時間が合いましたらぜひ。お待ちしておりますわ」
なぜかジェイルは困ったような顔をしていたが、馬に乗れるチャンスと、頬を染めて笑うシャルロッテの前に、それは些細なことだった。
こうして、エルデバードは海辺の街へ旅立つ。そこが、リシュリーの療養地だとは、まだ気づかない。