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「初めまして、かな。エルデバード君」
ようやく許可が下りたものの、初日に指定されたのは、学室ではなく教員室だった。王立の学舎は貴族の子女だけが通えるもので、その運営にはかなりの注意が払われている。エルデバードを労わるようなことを言うが、その真意は、行動や言動に不安なものがないかを確かめるためだろう。
「そう言ってくださったのは、先生で二人目ですね。今の私にとっては、誰もが初めましての方ですが、そうお思いにならない方が多い」
「まあ仕方がないでしょう。見た目だけなら、君は以前と――ほとんど変わらない」
妙な間があったが、深い意味はなかったのか、ロゼールと名乗った教師は体調や生活についていくつかの質問をしてきた。
エルデバードの生活は、うまく回っている。人についての記憶や思い出はなくなってしまったが、食事の仕方や計算の仕方、歩き方や馬の乗り方は覚えている。不思議なものだ。だが、逆でなくて良かった、と考えている。
「大体分かった。勉学に支障はないようだね。では明日から授業に参加を許可しよう。今日は、ぐるりと回ってみる程度にしておきなさい」
「はい」
「あ、そうそう」
立ち上がり、退出しようとしたエルデバードを、ロゼールが呼び止めた。振り向くと、やけにきらきらしい笑顔で、
「おかえり、どうぞいい学生時代を」
と言った。金の巻き毛に青い目、絵に描いたような青年教師だ。
なるほど、責務のない時代を楽しめということだろう。エルデバードは、にこりと笑って一礼をし、退室した。
その後ろで、ロゼールが微かに驚いたような顔をしていることに、気づかないまま。
ロゼールの助言通り、学舎内を少し見て回る。内情は分からないものの、少なくとも、設備やその他、かなり質の高いものだ。時に王族が通うこともあるのだから、当然かもしれない。
正門から大分奥に来た頃、ふとあの独特の臭いがした。馬がいるのだ。病み上がりに愛馬に乗って以来、エルデバードは乗馬に魅せられていた。以前はそれほど楽しみにしていたようではなかった、と従者が言っていたが、その当の従者が、
「おいエルデバード、馬がいるぞ。見に行こう」
と嬉々として厩舎に向かったうのだ。最早、敬意どころか敬語まで忘れたらしい。怒るべきか受け入れるべきか悩んでいるエルデバードを置いて、ジェイルは勝手に小道に入っていく。
あまり人も来ないのだろう、道はけもの道に近く、茂みをかき分けるようにして厩舎に近づいた。が、どうやらこちらは裏道だったらしい。道理で、と思いながら表に回ろうとした時――ふと声が聞こえて、思わず足を止めた。ジェイルもつられたように止まった。
「……痩せたな」
男の声だ。同年代だろう。心配するようでありながら、そこには何か苦々しいものが含まれているようにも思う。
「ありがとう、うれしいわ」
「馬鹿、そういう意味じゃないことぐらい、分かってんだろうが」
「……いいえ、分かりませんわ。でも、そう、少し瘦せたかもしれません。もしかしたら体調が悪いのかも。ですので私、明日からしばらく、お休みをいただきます」
応えた声に、聞き覚えがある。つい先日見舞いに来た女だ。リシュリー・フェルニッツ。冷ややかな顔をした女。
学舎には、制服、と言ったものはない。学生たちは皆、装飾を極めて減らした服装、という規則だけを守っている。もちろん、極めて、というその程度には、個人の裁量が大いに織り込まれている。女子達はそれをいいことに、どうやらかなりその意を自由に解釈しているようだ。
しかし、リシュリーは実に簡素な服装をしていた。先日訪ねて来た際には、それなりに高貴な装いをしていたようなので、根が真面目なのだろう。
「休み? 学舎を?」
「ええ。しばらく」
「しかし、もうすぐ夏の休暇じゃないか。夏中ずっと?」
「ディーヴィ」
「……分かってるさ、まったく」
「心配してくれて本当にありがとう。大丈夫。私を信じて。大丈夫」
いまいち状況はつかめないが、かなり親密な雰囲気だ。身分さえ釣り合えば、恋人くらい許される家なのかもしれない。
耳を大きくして興味津々さを隠さないジェイルを突いて、そこからそっと撤退する。馬は諦めよう。男女の密会を邪魔するほど、自分は野暮ではない。
「おいジェイル、俺に恋人はいなかったのか?」
前を行く従者に聞いてみた。多くの友人知人が会いに来たのだ、そういう相手がいれば今まで訪れないはずがない。だから自分には恋人はいなかったのだろう。そうは思いつつも、なんだか軽口が叩きたくなってそう聞いた。
ジェイルは振り向かなかった。反応の早い彼にしては、珍しいことだ。不安になるほどの間があってから、ジェイルは肩越しに少し、振り返って言った。
「エルデバード様、実は……」
「な、なんだ」
「俺、昨日振られた。今後、愛だ恋だ騒いだらぶっ殺す」
「いろんな意味で聞いたことのない宣言だ」
肩を怒らせて歩くジェイルの後をそっと着いていきながら、明日からの学生生活にまた楽しみを見出した気持ちになった。記憶を失う前の好みは忘れてしまったが、新たに出会う人々の中に未来の恋人もいるかもしれない。
エルデバードの世界は、新しいもので出来ている。古いものをそぎ落とし、生まれ変わった自分は、もしかしたら幸せなのかもしれない、と思った。
エルデバードが感じた通り、新しい生活は刺激に満ちていた。
記憶を失ったことはすでに通達されているのだろう、会話や議論の端々に、学友たちがたびたび驚いたような戸惑ったような顔をするのは、エルデバードにそんなハンディを感じないからかもしれない。実際のところ、困ったことは一つもない。欠席している間に授業は進んでいたが、家庭教師をつけることで難なく追いついた。それ以前の内容はしっかり覚えていたし、また使うことも出来た。
そう、魔術もまた然り。エルデバードには、多少の魔力があった。国に認められるほどではないが、日常生活でちょっとした不便を解消する程度には十分だ。
満たされた生活の中で、唯一気がかりがあるとすれば、両親のことだ。いまだに記憶を取り戻さないことが腹立たしいのか、父はエルデバードに会おうとはしない。面会の申し入れに対して、忙しいとそっけない返事を寄こすばかり。
ジェイルに聞いたが、父と言うのは、完璧主義のようだ。欠損の出来たエルデバードに失望したのかもしれない。
母はと言えば、こちらも朝食と夕食に顔を合わせるだけだ。やつれた顔をして、あきらかに無理をした笑顔を浮かべている。終わればそそくさと消えてしまう母の背中は、拒絶がはりついていた。
だからなに、という訳ではない。エルデバードの生活は、父母なしでも日常が成り立つ。きっともともとそうだったのだろう。今問題が現れていないのなら、ひとまず横に置いておこう、と決めた。
だから――毎日が穏やかに過ぎていく。
「急げよエルデバード、のろのろすんな」
「最近ちょっとひどくないか、お前、さすがに」
「時間は守れとさんざん言ってあんだろうが、ちゃっちゃと歩け」
「厩舎がもう少し、家に近ければなぁ」
一人で馬の手入れをしているうちに、時間を忘れてしまった。厩舎には下働きの男たちはいたが、ジェイルは屋敷で仕事をしていて、日暮れ近くに血相を変えて迎えに来た。まだ日没まで少しある。そんなに急ぐことはないと思うのだが、夕食の時間に遅れることを何より嫌うらしい母のために、時間は守るようにしていた。しかも今日は馬の臭いを落とさなければならないからだろうか、ジェイルは形相を変えてエルデバードを追い立てている。
もうすぐ屋敷が見える、という位置で、太陽がゆっくりと山にかかった。辺りが真っ赤に染まる。夕焼けの柔らかくも強い光が辺りに満ちる。透かし見る山の稜線はくっきりと浮かび、よく手入れされた屋敷の芝生がまるで橙色の絨毯のようだ。エルデバードはしばし、それに見とれた。
はっとする。時間のことを忘れていた。ジェイルがよく黙っていたものだ、と彼を見やる。次第に暮れていく景色の中で、彼は奇妙に――まるで泣き出す一歩手前のような顔をしていた。
「ジェイル?」
「……ああ」
「どうした」
「もう間に合わん。料理長にはお前が怒鳴られてこい。な?」
主の長男を怒鳴る料理長がいるもんか。エルデバードはそう鼻で笑いながら、屋敷へと急いだ。
その背中を見ながら、ジェイルは両手に顔を埋めた。
「リシュリー……お前は正しかった。きっと今お前は泣いている。それでも……エルデバードが笑うなら、これは、正しかったんだ」
主であり、兄であり弟であり、忠誠を誓ったエルデバードのために、そして一人遠く海辺の別荘でひっそり暮らすリシュリーのために、ジェイルは少しだけ泣いた。