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見上げる天井が、ようやく、見知らぬものという感覚を失ってきた。よく知る、とは言えないものの、複雑に組み合わされた菱形のレリーフが目に馴染む。
本当は、幼いころから何度となく目にしているはずの光景だ。だが、記憶を失っている今の自分には、居心地の良さもない。
「エルデバード様、おはようございます」
従者が我が物顔で入室し、さっさとカーテンを開けてしまう。まぶしい光が目を刺し、じりじりと痛む。このところずっと床に就いていたせいか、外からの刺激に敏感になっているのかもしれない。
事故、と聞いた。覚えてはいないが、折を見て医術師がそう説明してくれた。この家に入り込んだ賊と格闘し、階段から落ちたのだいう。頭部を打ったため、そのショックで頭の中の道がどこかで途切れた、と術師は言った。分かるようで分からない説明だが、エルデバードは、理解する必要もないと聞き流してある。
途切れた道は、人との関わりに通じる道だけだった。両親の顔も名前も、友人の誰一人として覚えていない。彼ら彼女らと交わした会話も、思い出もなくなった。
エルデバード自身は、そのことを憂いてはいない。もともとないものと思ってもらってもいいくらいだ。だが、相手はそうはいかない。母はひどく嘆いて寝付いてしまったし、父はなぜか激怒している。
友人たちはといえば、入れ代わり立ち代わりここへ現われ、我こそはと名乗る。さも、自分のことだけは覚えているだろう、とばかりに顔を突き出してくるのだが、エルデバードはその中のどれとして見覚えているものはなかった。
「さあ、今日から食堂に降りる許可が出ておりますよ。お着替えとお支度をなさって、急ぎ階下へ」
にこにこと邪気のなさそうな顔で笑うこいつは、ジェイル。人の顔を新たに覚えることが出来る、と判明したのは、彼のおかげだ。何しろ、毎日毎日朝から部屋に来てまどろむ自分を叩き起こしてくれる。もう少し寝たいのだと告げても、
「そうですか」
の一言で、結局カーテンを全て開け放つのだ。
ここはどうやら、貴族の家だ。そしてエルデバードは、この家の長男だ。彼は従者。つまりそこには本来、主従関係があるはずなのだが、この男はそれをさっぱり理解しない。
「本日は午前中、お見舞いに、ヨーデル家の次男カロル様、フェルニッツ家の三女リシュリー様がいらっしゃいます。
午後は、この館のご案内をいたしたいと存じますので」
エルデバードはうんざりとして、
「どこのどいつか知らんが、見舞いなんかいらん。断れないのか」
「はっはっは、エルデバード様はそこそこ偉い身分である旦那様のご長男ですからね、お見舞いの一つもしておかないと、他家の方々も礼儀を欠くと陰口叩かれますからね」
「お前……俺自身ではなく父へのごますりだと、よくまあ言えたもんだな」
「そんな風に聞こえました? やだなぁ、気のせいですって。それより早く起きて、顔を洗ってきて下さい。それとも洗って差し上げましょうか?」
どうも馴れ馴れしいが、それもそのはず、エルデバードとこの従者とは、乳兄弟なのだ。体の弱かった母の代わりに、子爵家から迎え入れた侍女がちょうど同時期に出産だったため、赤子だったエルデバードは彼女に預けられた。らしい。なにもかも伝聞なためもどかしいが、この無理やりとってつけたように敬語を話す従者が元々はどんな口調だったのか、知りたくもないのでそれ以上は聞かないでいる。
支度を整えて食堂へ降りると、誰もいなかった。つまり食事は一人でとるのだろう。だったらなぜ急がせたのか、ジェイルを問い詰めたいところだが、あたたかな笑顔と共に食事を並べてくれる侍女のために、今は文句を封じておく。
ジェイルの予告通り、客人が二組、現れた。いずれも従者か侍女を従えていて、それなりの家なのだと分かる。最初に訪れたのは、カロルという男だ。彼は、エルデバードと同じ学舎に通っているらしい。季節が一つ過ぎるくらいには休学している自分を、友人たちが皆心配している、と伝えてくれた。たれ目の柔和な笑顔は、悪い人間ではなさそうだが、優柔不断さが見て取れる。次男特有の、優男ぶりというところだ。
彼が帰ってすぐ、今度はリシュリー嬢が入って来た。彼女もカロルと同じ、初めて見る顔ではあったが、学友だった。澄ました顔、というよりはどこか表情を失った、かわいげのない女だ。
「初めまして、エルデバード様。リシュリー・フェルニッツでございます。このたびは大変なことでございました。お加減はいかがですの?」
声も硬質で、義理まるだしだ。
「もうすっかり良い。近いうちに、元の生活に戻るつもりだ。わざわざ見舞い、痛み入る」
紋切り型の返答をすれば、彼女はそれにただ頷き、その横から侍女がなにやらを差し出し、ジェイルがそれを受け取った。
「エルデバード様は甘いものがお好きと伺ったので、評判の菓子をお持ちしましたわ」
「……感謝する」
「ありがたいですね、午後のお茶で頂きましょうか!」
この上ない笑顔で、ジェイルがそう提案した。エルデバードは顔が引きつらないように十分に気を付けながら、そうだな、と返す。エルデバードが甘いものを嫌っている、と知った上での一言に腹も立つが、さすがにそれを持って来てくれた人間の前でそうは言えない。
訪ね先の好みも知らない上に、あいまいな情報で見舞いの品を決めるなど、抜けたところのある女の様だ。とはいえ、顔は悪くない。笑えば人好きのする顔だろうと思うが、にこりともしない性格がそれを邪魔している。
彼女が帰ってすぐ、エルデバードは、
「明日から学舎へ戻るぞ。私は家から通っているのか? 学舎はどこにある?」
「明日からだと!? 無茶言うな!」
驚きの余りか、よろしくない言葉遣いを始めたジェイルだったが、それも気にならない。もう、家には飽きた。寝ていることにも、本を読まされることにも飽きた。
そろそろ、外に出る時期がきたのだ、とエルデバードは思う。
翌日は、自分の馬に引き合わされた。学舎へは通えなかった。昨日の今日ではさすがに手続きも許可も取れなかった。ジェイルにちくちくと嫌味を言ってみたところ、気晴らしにと厩舎に連れ出されたのだ。
ここ王都の中は、一般的に馬に騎乗しての移動は禁じられている。よく躾けられた馬をつけた馬車だけが、移動手段だ。それでも、貴族のほとんどは馬に乗ることが出来る。シーズン中には、郊外の別荘にかわるがわる招待され、狩りに出るからだ。
エルデバードの愛馬は、最初はやや警戒気味だったが、手から餌を食べ匂いをかぐと、すぐに落ち着いた。厩舎は敷地のやや外れにあり、それというのも、馬場があるからだ。少し広めの、馬が駆けるのに十分な馬場は、独特の臭いを放つ。そのせいで、本邸から離れているのだろう。エルデバードは人目を気にせず、存分に乗馬を楽しんだ。すっかり機嫌も直り、三日後には学舎へ戻れることも分かったため、その間を、おとなしく部屋で本を読んで過ごした。
「単純で良かった!」
ジェイルの暴言も、大きな広い心で許すことが出来た。
失ったものは、少しの記憶。
ただそれだけ。
あまり長くならない予定です。
よろしくお願いします。