1976 霜園と伽倻子 4
「私は……清い身ではなくなった」
伽倻子がぼろぼろと涙を流しながら言った。
ぐしゃぐしゃになった髪が気になるのか、細い白い指で、何度も何度も撫で付けている。
「おい」
霜園は、身を起こす。
この娘、起きて早々、なんと言う物騒なことを言うのだろうか。
「お前、とんでもねえ事いってんじゃねぇよ」
一方的に自分にしがみついて寝てしまったくせに……。
脱がせていないし、やってない。
これは大事な事だからもう一度言うが、これっぽっちも何もしていない。
「……」
うんざりして、ぼさぼさになった頭を撫で付けた。
地味で目立たない、友達も少ない自分が、こんなお嬢と何を出来ると言うのか。
日雇いの工事の仕事で小銭を稼いで、薄汚いアパートで暮らしている、孤児院出の男なのに。
もちろん22年の人生において、女にもてたことなど1度も無い。
溜めた金で立ちんぼを買うくらいが関の山の、地味で目立たない、背ばかり高い男だと解っている。
そんな男に、これほどの美人の富豪令嬢が言い寄るなど、有り得ない。
この状況はおかしい。
絶対におかしいので、流されてはだめだ。
据え膳を食ったが最後、マグロ船に乗せられて、ミンチにされ撒き餌にされるに決まっている。
こんなガリガリの、栄養の悪い男をマグロの餌にして良い事があるのか解らないが……。
とにかく、自分はお嬢様に誘われるがままに、ついふらふらと抱いたりしないのだ。
そんなに阿呆ではない。
まあもっと胸がデカくて色っぽかったら、3回くらいやってたと思うが、とにかくそんな事はしない。
伽倻子はまだ泣いている。
ぐしゃぐしゃになった、豪華な着物の襟元を直しているが、どうにも不器用な手つきだった。
泣きながら作業をしているからだろうか……。
「お嬢さん」
「何……」
暗ーい声で、伽倻子が答えた。
「泣くなよ……」
「だって……清い体で、なくなってしまった……」
小さい拳で、顔をぐしぐしと擦っている。
だんだん腹が立って来た。
何をしにきたのだろう……。
男の家に上がり込んで、抱きついて来てぐうぐう寝てしまって。
挙げ句に汚された、汚されたと泣いたりして……。
「世間知らず」
考えていた事が、おもいっきり口から出てしまった。
「!」
伽倻子が、怒った小さい猫のように顔を上げた。
「なんだと!」
「だって世間知らずじゃねえかよ、ばかお嬢」
腹が立って、薄汚れた布団にもう一度転がった。
「もう帰れよ、ばーか。俺は何にもしてねーだろーが!」
伽倻子が拳を握りしめたまま、じーっと自分を睨んでいる。
「帰れ」
「……」
「帰れよ、もう来んなよ。そんな派手な着物でうろうろすんじゃねえぞ」
「……」
何で帰らないのだろう。
伽倻子はうつむいて、ぎゅっと胸の辺りを抑えている。
様子がおかしい……。
慌てて起き上がり、細い肩をかるく掴んだ。
「おい、どうした」
「な、ないた、から、苦しくて……」
細い肩を上下させ、ぎゅうっと身を縮め、伽倻子が細い声で呻いた。
「苦しい……痛い、痛い……」
「おい!」
慌てて、ガリガリの綿のように軽い体を抱え上げた。
屋敷を飛び出す。
「大丈夫か!」
「だいじょうぶ……ない……」
駄目なようだ。
顔色がどんどん悪くなって行くのがわかる。
医者はどこだ。
……普段医者にかからないから、解らない。
「お嬢、お前普段、どこの医者に行ってるのよ」
「聖……エリザベス……」
脂汗を浮かべ、伽倻子が微かな声で答えた。
「は?」
なんだ、それは。
「助けて……ひ…………」
「誰だよ!それ!広田のおっさんか?!」
「……」
胸を押さえ、伽倻子は歯を食いしばっている。
小さな顔に脂汗が大量に流れている。
もう話す力も無いらしい。
止まっているタクシーの窓を叩き、怒鳴るように叫んだ。
「おい!聖エリザベスとやらに行ってくれ!病人だ!」