1976 霜園と伽倻子 2
「あ、あの!」
「ん?」
「あの……銀座で昼餉を」
「いや、俺その辺の定食屋でいいよ」
「……ていしょく、や?」
長い黒髪を一つにしばり、ブラウスにスカート姿の伽倻子が首を傾げた。
今日は「デイト」なのだそうだ。
日曜なので酒を引っかけて寝ていた所、またしても「澤菱」の屋敷に連れて来られてしまった。
だが、まあ良い。
お嬢様の気まぐれに付き合うだけで、ずいぶんと良い思いが出来ることがわかったから。
帰り際に、タバコやインスタントコーヒー、高い酒、封筒に入った3万円などを貰えるのだ。
これは嬉しい。貧乏工事夫の自分には。
腕を枕に、畳に寝そべった。
別に無礼な態度をとっても、叱られる事は無い。
この変わり者のべっぴんさんと遊んでやるだけ。楽チンなアルバイトだった。
伽倻子お嬢様は、ちまちまと髪を解き、また結び、鏡を見てはまた解き…と、落ち着かない。
「なにしてんの、お嬢様」
「髪の毛がっ……」
べそをかいている。
綺麗な長い髪だ。別に問題は無いのでは……。
「なんだよ。早く行こうぜ」
「だって毛先が跳ねている。直しているのにうまく行かない」
今日はナイター競馬に行くつもりだった。
さっさとお嬢様と出かけて、満足してもらって帰りたい……。
「広田ー!広田ー!」
伽倻子お嬢様が叫び声をあげた。
転がるように、世話焼きのオッサンが走ってくる。
「いかがされました!」
「髪の毛が、髪の毛がはねておるのだ。このような髪では外へ出られぬ」
しくしくと伽倻子が泣き出した。
ほんとうに20歳なのか。ガキとしか思えない。
顔は綺麗で可愛いのに……。
「広田が今からなおしますゆえ、そのようにお泣きになってはなりません」
やさしくオッサンが言い聞かせ、綺麗な黒髪にこてを当ててやっている。
なんなんだろう、こいつらは、と思う。
……。
眠い……。
「それにしても、佐々木さんがお優しい方でようございました」
「はぁ?」
あまりに意外な台詞に、目が覚めてしまい、体を起こした。
このオッサンは何を言っているのだ。
「お嬢様のご無体を怒りもせず、ぐずって泣き喚かれても放っておいて下さる度量。理想の夫君のふるまいでございます」
「……」
金持ちの解釈って、おかしい。と、思う。
「そうおもうか、広田、おまえも」
伽倻子が、泣いていたのもどこへやら、とてつもなく得意げな表情で言った。
「あのー」
「なんだ」
「俺、結婚するなんて言ってないだろ。頭ん中、どうなってんだよ、お前ら」
伽倻子と、広田のオッサンが顔を見合わせた。
「でも、雌の私が選んだのだから、もう決まっておる」
「さようでございます、佐々木さん」
「……俺は選んでねーっつーの!ふざけんな、ばか女」
「雄が雌を選ぶなど、常識では考えられぬぞ、ばかはお前だ、佐々木」
伽倻子が、小さな肩をそびやかし、ふんぞり返った。
威張っている小鳥の雛のようだ。
見た目だけは非の打ち所なく可愛い。歳の割に幼いけれど。
『……だめだ、こいつら』
霜園は目をそらし、天井を見上げた。
楽しい事を考えよう。
『今日は、インスタントコーヒーとか、小遣いとかもらえるのかな……』
広田のオッサンが、伽倻子の髪を整えながら優しく言った。
「他の雄の審査もなさらず選ばれたのですから、よほど気に入っておいでなのですね、佐々木さんを」
「うん、人目でわかった、この者は強き野生のヒメガミだ」
「……」
眠くなって来た。
「とても嬉しい。早く仲良くなりたい、な……」
語尾が消えて行くような、小さな伽倻子の声を聞きながら、目をつぶった。
眠い。だめだ。もう寝よう……。