幸福な日々だった
頭部への強い衝撃とともに前世の記憶が戻り、私はこの男に報復することを誓った。
殴られる直前まで、謝ろうとしていたのに。
この世界は男尊女卑で、女性の人権は限りなく制限されている。
当主は男で、ほとんどの場合に長男だ。血統主義が蔓延っている。
身分高く教育を受けた私も、幼少期から耐え難い辛苦と共に生きてきた。
生まれることは苦であり、老いることは苦であり、死ぬことは苦である。
教養を学び、礼儀を学び、体裁を整えたら婚姻だ。そこに私の意思はない。
政治的なつながりと利益、ほんの少しの希望をもって出荷されるのだ。
式を挙げたら、その日のうちに純潔を散らされる。今まで男性と手を触れることさえ気を付けなければならなかった私が、だ。
親身になってくれる人もおらず、孤立無援。実家に助けを求めても、あまり力にならないだろう。なぜならば私は、既に他家のものだからだ。
毎晩のように乱暴に抱かれ、それでいて屋敷の実権は姑に握られ、小突かれながら小間使いのように扱われる日々。
ストレスなのか、半年ほど子供はできず、ついに殴られたのが今だ。
半年たっても身ごもれない私が悪い。夫を怒らせた私が悪い。そう思っていた。
ただ、女とはそういうものだと教えられてきた。母も、嫁いだ姉も、耐えている。私も耐えるのだと思っていた。
けれど今、私は知っている。
夫であろうと、私を殴っていいはずがない。
激しい怒りが湧いてくる。だが、力で敵わないことはよくわかっている。
この世界では、夫が私を殴ることは許されても、私が殴り返すことを正当と認める者はいない。
どのように報復するのか……。
それから妊娠するまでの一年間こそが、地獄であった。
前世の記憶を取り戻した今、以前のように、女とはそういうものだと思うこともできなかった。
殴られながら抱かれ、顔を腫らせて苦い薬を飲み、好きでもない男に抱かれ、それでも望んだ子を孕まねばならぬ。
自分で決めたことだと、何度も言い聞かせた。
しかし、長男が生まれて、私の生活は一変した。
まず食事が、温かくなった。
乳の出が悪くなっては困ると、姑が料理人に言いつけたようだ。何をするにも、口を出されるのは相変わらずだったが。
私の腕の中をのぞくときだけは、笑顔を向けていた。
よく泣く騒がしい子だった。
乳を飲ませても、おしめを替えても、泣きやまない夜には私まで、泣きたくなった。
ようやく眠ったと思って寝台へ下ろすと、すぐに顔をくしゃくしゃにした。
仕方なく、抱いたまま窓の外が明るくなるのを眺めた。
夫も息子をよくかまった。
抱き方が悪いと泣かれ、私に返せばすぐ泣きやんだ。それが不服らしく、何度も抱き直した。
夫に何かを教える日が来るとは。
息子が歩き始めると、屋敷は急に危ない場所になった。
敷物の端も、卓の角も、庭へ続く段差も、昨日まで気に留めたことさえなかったのに。
私も息子に教えられているのだ。
転んでは泣き、抱き上げると、降ろせと身をよじった。
そのくせ眠くなると、私の膝へ戻ってきた。
望んだ子なのだからと、言い聞かせて抱き直した。
やがて教師がついた。
夫はずいぶん先のことまで考えていたが、私はその日の手習いで息子が書いた字を、眺めていた。線のゆがんだひどい文字だった。
教師に直されると、頬を膨らませて書き直した。私は最初の一枚を捨てられず、引き出しにしまった。
翌月には、どの文字も整ってきて読みやすくなった。
上達を喜びながら、少し惜しいと思った。あの不揃いな字を、もうこの子は書かないのだ。
息子の教育には、私も口を出した。
文字や計算は教師に任せた。ただ、食事を運んでくれた者には礼を言うこと。誰かにしてもらって当然のことばかりではないと、その都度教えた。
姑には妙な顔をされた。夫は、私の好きにさせておけばよいと思っているらしかった。
何度教えても忘れることがあるかと思えば、私が忘れたことまで覚えていた。
明日の食事では、自分から礼を言えるだろうか。
言えたらあとで、褒めてやろう。
幸福な日々だった。
その下で、根だけが残っていた。
いつの間にか、息子の服を私が選ぶことはなくなっていた。
食事の席で作法を直すことも、勉強の進み具合を教師に尋ねることもなくなった。私の知らない相手と会い、知らない場所へ出かけていく。
話を聞けば充実しているようだ。私にはわからないことも増えた。誇らしくも寂しい気持ちだ。
息子が成人すると、姑はそれを待っていたように死んだ。
家の仕事を任されるようになると、息子はますます忙しくなった。
嫁いできた娘に、息子はよく気を配った。
食事の好みを尋ね、疲れている様子なら休ませた。娘とよく話し合い、時には衝突していたが、暴力はない。
教えたことは、無駄ではなかったようだ。
二人が並んで庭を歩く姿を、窓から眺めることがあった。
息子は気遣いながら歩幅を合わせていた。
これほど誇らしいことがあるだろうか。
折々に私を訪ね、何か困ってはいないかと気遣ってくれた。
何も困ってはいないのに、息子が帰ったあとは、しばらく椅子から立てなかった。
息子に不満はなく、完璧ではないかもしれないが、良い夫になれたようだった。
息子について、私が案じることは少なくなった。
そうして空いた時間をどう過ごせばよいのか、わからなかった。
何をして過ごしていたのだったか。
息子が生まれる前のことを思い出そうとして、やめた。
私は納得してしまったのだろうか……。
そして、私たちは老いた。
縫い物を始めても、目が疲れて長くは続かなかった。
新しい本を読むことができず、慣れた本を読み返した。
庭を歩けば、いつか息子が転んだ段差は直されて平らになっていた。
引き出しには、あの手習いの紙が残っていた。
広げてみると、覚えていたよりもひどい字だった。
笑ってしまった。
誰かに見せようと顔を上げてから、丁寧に畳み直した。
私の望んだ可愛い息子。
夫と二人で食事をする日が増えた。
息子が幼い頃には、食卓が静かになることなどなかった。こぼしたものを拭き、話の続きを聞き、食べ終える前に立とうとするのを座らせた。
賑やかで楽しい食卓だった。
今は、向かいに座る夫のカトラリーの音が聞こえた。
老いた夫は、爵位も息子に譲り、悠々自適に隠居していた。
家の行く末に満足していた。
よい跡継ぎに恵まれた。孫の顔も見られるだろう。妻にも子にも不自由をさせず、務めを果たした。そんな話を、穏やかな顔で繰り返した。
私は笑顔でうなずいた。話が終わっても、私は穏やかな笑顔だった。
ある晩、その手に目が留まった。
皮膚が薄くなり、骨ばった、老人の手だった。
大きかった体も、今では小さく感じる。
やがて私の体も動かしづらくなり、夫はもう、自分で寝台を降りることさえできなくなった。
息子に支えられて身を起こし、お茶を飲む。それだけで疲れるようだった。
私はとっくに、私の命が長くないのを知っていた。しかし、もう少しだけ……。
私は寝台のそばに椅子を置いてもらった。
目を覚ますと、窓の外は夕暮れだった。
夫はまだ眠っていた。薄い掛布の上に、片手が出ていた。
優しい夕暮れだった。
ふと目を覚ました夫が、私に笑みを向けた。
もう命が長くないのだろう。これまでの人生がどうだったか、そして私への謝罪と感謝を語った。
涙ぐみながら語る夫の手を握り、私も同じく感謝と謝罪を語る。感謝に嘘はなかった。
夫は満足そうだった。
このままでよかった。このままがよかった。
「あの子は、あなたの子ではありません」




