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エッセイ

私は長編が読めないし書けない

掲載日:2026/07/19

 要約:私は長いのが読めないし書けない


 ただの妄想のたぐいです。特に紙の一次作に対しての私念です。


 私は長編が読めないし書けない。


 紙の本なら栞を入れつつなんとかなる。

 縦読み。日本語。読みやすいはず。


 それでも私は途中を忘れる。


 なぜか?


 それは、私が重度うつ病だからだ!

 すっぽぬけて前後不覚になりがちなのだ。


 いや、うつ病になるまえ、二十代前半までも、私は主に古い日本の短編と掌編をばっかり好んで読んできた。


 読めない、というのは完全に不可能、という事でもない。授業で長編を読めと言われればちゃんと読んできた。

 けれど、研究するのでもない場面ではそりゃあもう短編掌編ばっかりだった。


 だって、短ければ何処まで読んだか直ぐに判るし。忘れても全文を読み切るのは容易い。

 

 あと、凝縮してあると主要ではない場面がちゃんと削がれていて、真ん中だけを深く読みこめるのだ。


 私は物語を要約したい人だった。それが結局脳内でやらされる仕事でもあったし、手間だから元から物語にはギュッとしていて欲しかった。


 そして、うつ病の人でも読めるような短さが今では大事になったのだ。精神や脳に障害を抱えていても読み下せるようなやや硬質な短さは、私にはとても大切なのだ。

 

 一般的に共感されるような導入部分や、読者が脳内で景色を密に想像し作に没入するために書かれるような部分、そういうものが私の脳では雑文として読み流されてしまう(詳細な服装とか、容姿とか、建造物の様子とか……人物名とか)。


 主題に差し障らない部分は読み流してしまうのだ(そして、この癖により、長編であると主題に差し掛かるようなことも時に一緒に読み流してしまうという凹)。


 まあ、だから、一次作から映像を取り出してしげしげと眺める事は私には難しいのだ。

 

 そりゃあ、大事な場面の雰囲気こそはピタリと肌に付けて感じていたいが、私には詳細な映像がその場面に映し出されていなくとも、良いのだった。

 

 むしろ、作が提示しない場面がどんなありようであるのかを、好きに想像できる幅が広いのも、一次作の良さであるとも考えている。

 

 仔細に『視る』事を重視するのであれば、別の媒体に移り表現をした方が上手く描ける……、という時代に、私もすっかり浸されている。


 浸されていて、更にそこでプカプカ存分に游ばせてもらってもいる。とても楽しい。有り難いことである。


 漫画もアニメもゲームも映画も大好きなのである。

 

 映像文化や音の素晴らしさには、沢山、魅せられてきている。

 そして今の一次作では、それとは違うものを書き、用意しておかなければ惜しいのでは……等とも思わせられる。この試されている感じがとても愉しい。


 映像や絵が描かないことを。

 それを先出ししてしまっては、巧くいかなくなるような、そんなストーリーを……、と意欲をわかせられるのは誠に面白い心地がする。


 また、そう考えてしまうから、仔細さを凝らす視点の部分を書き表す事が、私には更に難しくなるものなのである。

 

 どうしてもの部分はイラストにしてしまった方が早いし分かり良い。


 一次作に残念な脳みその私が主に求めるものは、ストーリーの中核と素地、山場、結末などのシーンたちなのだ。


 つまり、端から要約がいらない短編ばっかりを私は好みがちなのである。


 有名な昔の作家の掌編の中には、一作たったの数行しかないものもある。


 こちらの脳内で逆に文字数を膨らませてやらなければならないような、読み手の憶測ぬきでは完成さえもされないような。そんな切れ方で光り、仕舞われた掌編が……、たくさん。ある。あるのだ。


 読み手の考えの広さと深さを問うてくるような、そんな短い昔の作品に、私は特に煌めきを感じてしまいがちなのだった。


 短いものを読むとき、常に私は作にこたえを問われている。これは和歌で言う相聞歌に近い。


 歌を詠みかけられる。私もその歌に即興でその時の知識をフルに使い詠み返さなければならない。


――打たれれば。

 鳴りたい。


 一を聞かれて十を演じ応えてみせたい――


 解らない時は素直に折れて謝り、意味をしりたい。そして調べ物をして、私は作の言うところのものにどう答えたらよいか、について考え始めるのだ。

 

 また、浮船のように、この作の完成度には敵わぬからと頭を垂れて応えぬままでも好い。

 

 教えを与えてくれるかどうかは相手の度量と腕しだいでもある。莫迦にするだけ莫迦にして、教えもなくただ嘲笑うような、押し付けるだけの作なら、そんな手合いからは学ぶべきではないとケリを付けて良い。

 

 次にこちらが巧く返せるようにしてくれているような姿勢を、相手に少しでも感じられたら、厳しい言葉でも一度は受けたい。


 これが。わたしなのだ。

 私の読み書きの感覚はこうなのだ。

 このやり方が、私の読書の楽しみ方、創作の仕方の基礎となっている。


 作から何も読み出せなければ、ただ踊らされるだけならば、それは口惜しい体験である。書く側にせよ、読む側にせよ。私はなにかがほしいと思って頁を開くのだ。


 読むとき、書くとき。私は作と対話する。己自身とも対話をしながら、私は自作他作を読んでいる。一次作はこれがいちばん深く近く出来るから面白い。


 



――そして、そんなやり方の欠点として、私は私にタイトルを付けた。





『私は長編が読めないし書けない』


 


 ながいの、捌けない……!

 すっぽぬける……!!

 どうやってやるんですか(泣)

 長年の苦手意識がーー凹

 




 宮部みゆき様の時代物の長編などはだいすきです。

でもそれも近年よめていなーい!

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