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『お姉ちゃんだから』と我慢し続けてきた令嬢がブチ切れた日~形見を盗んだ家族を生活魔法(物理)で叩き直して、復縁を迫るクズ王子は粗大ゴミとして掃除しました

作者: 本田 雨
掲載日:2026/04/17


「お姉ちゃんの言うことに、従ってくれるかしら?」


 パチン、と指を弾く。


 次の瞬間、我が家の食堂には貴族の邸宅にあるまじき重低音の衝撃と絶叫が響き渡った。


 ――ドォォォォォンッ!!


「ひぃっ!? 体が、体が浮く……っ!?」

「やめてソフィー! 私はお前の母親代わりなのよ!」

「お姉ちゃん、苦しいよぉ! 離して!」


 十年間、私を便利な小間使いのように扱い、母の形見のワインまで盗み出した家族。

 宙に浮き、壁際にゴミのように掃き出された彼らを見下ろし、私は深淵を覗き込むような、底知れぬ微笑を浮かべた。


「大丈夫よ。これは日頃の掃除〈生活魔法〉の応用。……汚れが落ちるまで、徹底的に叩き直してあげるから」



 そう。これは、ただの生活魔法。


 今まで家族の我がままを叶えるために酷使してきた力を、ほんの少し、正しい用途に切り替えただけ。

 ……この屋敷にとっての「本当のゴミ」が何なのか、ようやく理解したから。


 これは有害な埃を掃き出し、こびり付いた厚顔無恥を削ぎ落とし、不要な粗大ゴミを処分するための――いえ、価値あるものに「リサイクル」するための慈愛に満ちた再教育。



「……大丈夫。お姉ちゃんが全部、上手くやるから」


 そう自分に言い聞かせるように優しく呟き、私は指先に微かな魔力を(まと)わせた。






 ――ブチリ、と。

 私の中で『お姉ちゃん』という名の呪縛が断ち切れたのは、昨夜のことだった。



 深夜の執務室。


「……嘘、でしょ」

 一通の新聞が、私の指先からハラリと床に落ちた。


 〈帝国の第一王子、レオポルド。婚約内定か――!?〉


 あの日、「必ず迎えに来る」と約束した初恋の少年。

 その言葉をお守りにして、あかぎれだらけの手で屋敷を支えてきた私の十年は、無機質な紙屑一枚によって全否定された。



 震える足で、私は執務室の奥にあるセラーへ向かった。


 暗がりのなかに、亡き母が「あなたが当主になる日に」と遺してくれた、私の瞳と同じ黄緑色のリボンで結ばれた特別なワインを探して。



 けれど。


「……ない」


 そこにあるはずの冷たい瓶の感触はない。

 誇り高き母の期待も、私を繋ぎ止めていた唯一の温もりも。


 ……跡形もなく、消えていた。




 「……ふ、ふふ。あはははは!」


 喉の奥から、乾いた笑いが溢れ出す。


 何のために、誰のために。

 私は『お姉ちゃん』という名の、無償で動く便利な使い捨ての道具に成り下がっていたのだろうか。


 ああ、全部わかったわ。

 ここは私の家じゃない。私が守り続けてきたのは、温かな家族などではなく――『お姉ちゃんなら何とかしてくれる』と甘え腐った、寄生虫の飼育箱だったのだ。



 ◇ ◇ ◇



 振り返れば、私の人生はいつもこの言葉の言いなりだった。



『お姉ちゃんだから』


 この言葉は、我が家における万能の『魔法』であり、私を縛り付ける『呪縛』だ。


「お姉ちゃんだから、領地経営はやっておいてくれよ。お父さん、数字を見ると頭が痛いんだ」

「お姉ちゃんだから、お継母さんのために一番素敵なドレスを用意して! 当然でしょ?」

「お姉ちゃんだから、妹のお願いを聞くのは当たり前よね。デザートには甘いイチゴが食べたいわ!」



 伯爵家長女、ソフィー・ウォルジー。

 鏡に映る私は、貴族の令嬢とは程遠い、みすぼらしい姿だ。


 かつて光をたたえていたアイスグレージュの髪は、手入れを奪われ、枯れ草のようにパサついている。侍女のお下がりのようなボロ服。

 その袖口から覗く指先は、日々の重労働で赤く腫れ、あかぎれが痛々しく刻まれていた。


 代々、風魔法の英傑を輩出してきたウォルジー家。

 その強大な魔法を、私は「家事」と「領地経営」を維持するためだけに、汗と泥にまみれて酷使してきた。


 巨大な家具を浮かせる「浮遊魔法」は、掃除を時短するための苦肉の策。

 朝食を用意するために振るう「超高速薄切り(スライス)」も、実は戦場を切り裂く攻撃魔法の転用。

 


 家族が浪費し、散らかし、投げ出した伯爵家の威信を、私はすべて一人で背負い、必死に繋ぎ止めてきた。亡き母の期待と幼い頃の王子様との約束を、希望に変えて。


 けれど、もう、全部どうでもよくなった。



 『お姉ちゃんだから』


 ええ、そうね。 

 だったら、お姉ちゃんとして教えてあげなきゃ。



「まずは泥棒を見つけないとね?」


 鏡の中のみすぼらしい少女が、ふわりと口角を上げる。

 それは、十年の呪縛から解き放たれた、残酷なほどに純粋で、透き通るような笑みだった。





 翌朝。


「何故、朝食が準備されていないんだ!」

 食堂から、父の怒声が響く。続いて継母の金切り声、義妹のわがままな催促。


 いつもなら、その喧騒に急かされるように駆け込んでいた私は――一切の音を立てず、驚くほど静かに、ゆったりと食堂の扉を開けた。


「おい! ソフィー! どうしたというんだ、こんな……」


 騒ぎ立てる父を視界の端に捉えながら、私はただ、この場の主導権がどこにあるかを無言の威圧で示した。



 次に唇から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、逆らうことを許さない絶対的な温度で食堂の空気を塗り替えた。


「全員、そこに並べ」


 困惑と苛立ちを浮かべる家族三人を見据え、私は緩慢に、けれど迷いなく右手をかざす。


「ひぃ……っ!?」

「な、なんだ、体が……っ!!」


 風魔法の応用。日々の掃除で巨大な家具を浮かせてきた精密な出力が、三人の肉体を捉える。肘を上げ、右手を顔の高さまで持ち上げると、手の動きにあわせて家族の体がふわりと宙に浮いた。


「……思ったより、人間というものは軽いのね」


 大理石のチェストを運ぶ手応えに比べれば、人間など道に転がる石ころも同然。

 加減を誤り、少し浮かせすぎてしまったらしい。一番軽い義妹のフルールが天井まで吸い上げられ、ゴツリと鈍い音を立てて頭を打ち付けた。


 私は散らばった埃を掃き出すように、ふいと右手を横に振った。三人の体は壁際へと掃き出され、横一列に叩きつけられる。


 今度は父が勢い余って、ドスンと壁を鳴らした。

 重量があるものほど遠心力で加速がついてしまうのは、でっぷりと肥えた父を継母たちと同じ出力で扱ってしまったことによる――私の、初歩的なミスだ。



「こ、こんなことをして許されると思っているの……!?」


 錯乱した継母が、震える声で吠える。


「うるさいなぁ」


 私は耳の横で、パチンと指を弾いた。日々の調理で数千回、数万回と繰り返した零点一ミリを刻む超高速薄切り(スライス)の術式が飛び出す。


 ――パンッ!

 乾いた破裂音と共に、父と継母の間の壁が鋭く切り裂かれた。制御を誤り、父の頬を掠め、継母の髪を数房ほど削いでしまったようだ。


「やっぱり初めての動作は、どうにも力加減が難しいわね」

「ひ、ひぃぃ……っ!」


 継母がガチガチと歯を鳴らし、己の身を抱くようにして父の隣にうずくまった。だが、これでもまだ状況を理解していない愚か者が一人いた。



「お、お母さまになんてことをするの……!!」


 勇ましく一歩前に出たフルールに向け、私は手の甲を天井へと向けた。そして、そのまま、静かに真下へと押し下げる。


 首の骨が折れない程度の、絶妙な風圧。

 屋敷の隅々まで、雑巾を自在に滑らせて床の汚れを磨き上げていた私からすれば、この程度の出力調整は造作もない。


「あ、あ……ぐっ……!」


 見えない重圧に耐えかね、フルールが床に這いつくばる。継母はもはや表情を失い、ただ壊れた人形のように、無様に伏した娘を見つめることしかできない。


 数秒の沈黙をおいてから手を離すと、ようやく心地よい静寂が訪れた。


「……ふう。やっと話ができそうね」




「さて」


 獲物を追い詰めた獣のように、私は口元に薄い笑みを浮かべながら、硬く冷え切った声で問いかけた。


「お姉ちゃんのワインを飲んだのは、誰……?」

「え……?」


「お姉ちゃんのために、お母さまが遺してくれたワインを盗んだ泥棒は、誰かと聞いているのよ!」


 ――ドンッ!

 私が拳で食卓を叩くと、その衝撃が波紋を描く鋭利な突風となって吹き広がった。三人の体は抗う術もなく壁へと押し付けられ、ゴツリと鈍い音が重なる。


 そこから一呼吸遅れて、風によって舞い上がった私のアイスグレージュの髪が、重力に従いパサリと肩へ降りた。


「わ、ワイン……?」

「な、なんのことかしら……?」


「私の瞳と同じ、緑のリボンがかかったワインですよ」


 その言葉に、彼らが私の顔を凝視した。

 亡き母から受け継いだ、風魔法の使い手を示す薄緑色の瞳。それが今、逃げ場のない切っ先となって三人を射抜いている。



「きみどりの、リボン」


 ぽつりと漏らしたフルールが、ハッとして口を両手で覆った。父と継母が、弾かれたように首を捻り、娘を凝視する。


「フルール?」


 私は手元に小さな竜巻を生み出し、彼女の髪をそっと撫でた。

 優しく触れたつもりだったが、怒りで研ぎ澄まされた風は、私の制御を容易に振り切る。ブチリ、と生々しい音を立てて、彼女の赤髪が千切れ飛んだ。


「ひぃぃ!」


「フルール? 言いなさい」


「お、お父様がお出かけの手土産が必要だって仰ってて……! こないだ執務室を探検していたら、綺麗なワインがあったから、それを渡しただけよ!」


「……なっ、あれのことか! お前、そんな所から持ち出したなどと言わなかっただろう!」


「なによ! お父さまだって何も聞かずに助かったって持っていったじゃない!」


「そもそも、イザベルが見栄を張って侯爵夫人に手土産を約束するから……!」


「なっ、私はそんなの知らないわよ! あなたが勝手にやったんでしょう!」


「そもそもフルールが勝手に執務室に入ったのが悪いんだ!」




 ――ドンッ! ビシンッ!!


 醜い責任の擦り付け合いを、私は空間そのものを押し潰すような魔力で圧殺した。


 食堂全体がミシリと軋み、空気さえもがメリメリと悲鳴を上げる。立ち上がりかけていた家族は、不可視の壁に叩きつけられるようにして各々が尻餅をついた。



「……もう、黙って」


 その一言で、食堂に再び刺すような静寂が訪れる。



 わかったことは、たった一つ。

 母が遺してくれたあのワインは、もうこの世のどこにもないということだ。


 あらためて突き付けられたその現実は、乾ききった私の心にぽっかりと穴を開けた。




 私はぼんやりとした思考のまま、胸の底から湧き上がる衝動を目の前の虚無へ向けて放った。



 ……ヒュッ。


 空気を切り裂く、鋭く無機質な音。刹那の空白を挟んで、分厚い無垢材の巨大なテーブルが、バキッと芯の折れるような音を立てて、中心から真っ二つに裂ける。



「お、お姉ちゃん……」


 震える声で最後にそう呟いたのは、誰だったのか。



「『お姉ちゃん』だからって。何で私がこんな目に遭わなきゃいけないの……」


 家族たちが息を呑む気配を背に、私はふらふらと頼りない足取りで、振り返ることなくその場を後にした。




 ◇ ◇ ◇




 それから私は、母が亡くなって以来初めて、全ての仕事を放り出して自室の扉に鍵をかけた。


 気が済むまで泣き、泥のように眠り、覚醒すればまた、勝手に涙が溢れる。



 今朝、食堂へ向かう前に全侍女を解雇し、古参の老執事夫婦にも長期の休暇を命じておいた。

 私が手を止めただけで、屋敷にかかっていた魔法が解けたかのように、広大な空間はしんとその営みを止めた。それは、私が支えてきたこの家が、いかに血の通わない虚飾の城であったかを証明していた。


「これ、どうやって火を消すんだい!?」

「お姉ちゃん、お腹すいたよぉ!」

「ちょっとあなた、何とかしなさいよ!」


 ……ときどき扉の向こうで、何かが砕ける音や耳障りな悲鳴が響く。だが私は、それらすべてを拒絶するように、布団の海へと深く潜り込んだ。





 その頃。

 屋敷では、文字通りの地獄が顕現していた。



 父は、執務室に入った瞬間に激しく()せた。


「……なぜだ、たった一日でこんなに埃が積もるものなのか?」


 ソフィーは毎日、風を薄く床に滑らせて、埃を部屋の隅へ、そしてときに窓の外へと自動的に「掃き出す」流れを作っていた。

 それが止まった途端、屋敷は一気に人の住処とは思えない、澱んだ廃屋のような空気を帯び始める。


 自分が吸っていた清浄な空気さえもが、娘のたゆまぬ魔力調整という名の献身だったのだ。その答えにたどり着いたとき、父はその場に膝をついた。


 せめて水で洗い流そうと出した彼の『水魔法』は、精密さを欠いたせいで濁った泥水を噴水のように撒き散らすことしかできず、高級な絨毯を無惨に汚した。


 


 継母は、洗濯板で洗って干したはずのドレスを見て悲鳴を上げた。


「嫌だわ、ちっとも乾いていないし、皴だらけ。その上……なんだか雑巾みたいな臭いがするわ……!」


 今まで高価なドレスは、ソフィーが風魔法で絶妙な『乾燥の風』を当てていた。湿気を飛ばし、繊維の奥の汚れを風圧で叩きだしていたのだ。


 ソフィーがいなければ、布一枚乾かすこともできず、高級な絹も台無しになる事実に、彼女は愕然とした。


 フルールに強請られて台所に立ったが、火の(おこ)し方すら知らない彼女は、台所で(すす)まみれになっていた。

 手入れを欠かさなかった髪は、制御不能な炎に焼かれて焦げ臭さを漂わせ、宝石のように磨いていた指先は、黒い煤と剥げた爪紅で無惨に汚れ果てている。



 フルールは、冷めきったスープを前に泣きそうになっていた。


「お姉ちゃんなら、風をぐるぐるかき混ぜて、すぐに熱々にしてくれたのに……」


 空気の摩擦で「コップ一杯分だけ」を効率よく温めるソフィーの職人技。それが失われた食卓は、あまりに寒々しい。


 空腹に耐えかねた彼女は、庭の果実を『緑魔法』で無理やり育てようとした。だが、制御を失い巨大化した蔓草(つるくさ)は蛇のように屋敷に絡みつき、もはや窓を開けることすら叶わない異様な密林を作り出していた。



 私が毎日、風魔法で埃を飛ばし、洗濯物を乾かし、絶妙な火力で食事を調えていた「日常」。


 それがどれほど多岐にわたる魔力運用と、私の献身によって守られていた「奇跡」であったか、彼らは自分たちが泥と(すす)(つる)にまみれるまで、想像したことさえなかったのだ。




 そんな家族の悲鳴を他人事のように聞きながら、私は、心のどこかでずっと、祈るように待っていた。



 ――明日が来れば。

 あの日の約束どおり、初恋の王子様(レオ)が迎えに来てくれるのではないかと。




 だけど。


 私の十八歳の誕生日は、救いの便り一つ届かぬまま、あまりにもあっけなく、無慈悲に過ぎ去っていった。





 三日目には、屋敷が完全に機能停止した。


 無意識に巡らせていた風の結界が消えたことで、室内には湿気と嫌な臭いが立ち込め、豪華な調度品はみるみる埃に埋もれていく。


「お姉ちゃん! 汚いよ、お腹すいたよぉ!」

 フルールが泣き叫びながら扉を叩いたが、私は動かなかった。



 皆が「お姉ちゃんならやって当然」と信じて疑わなかった清潔な空間も、温かい食事も。


 そのすべてが、私の『風魔法』を極限まで転用した、私にしかできない「仕事」の産物であったことに、彼らはようやく気づき始めていた。


 廊下からは、空腹と不潔さに耐えかねた父と継母の、醜い罵り合いが聞こえてくる。



「……馬鹿みたい」

 私はすべてを拒絶するように、再び底のない暗闇へと、意識を沈めた。





 泣きすぎて腫れあがった目とは裏腹に、長年居座っていた重たい隈が消えた四日目の朝。

 私は、いつもの朝食の時間から数時間ほど遅れて食堂に向かった。


 食堂の前の廊下では、休みを言い渡したはずの老執事セドリックが疲れ切った顔で控えていた。


「ソフィアお嬢さま、お目覚めですか」


「セドリック、どうしてここに……」


「ご命令に背き、申し訳ございません。ですが、パンの焼き方すら知らぬ皆さまが、お部屋を伺う勇気も、私共へ声をかける余裕も持てぬまま、ただ力なく廊下を彷徨(さまよ)っていらしたので……」


「ごめんなさい……あなたたちにも休んでもらおうと思ったのに、結局家族が迷惑をかけてしまったわね」


「いいえ。年老いた夫婦で、普段からお嬢さまのお役にたてることも少なく……前伯爵がお亡くなりになられてから、一度も立ち止まることなく走り続けてこられたお嬢さまの、初めての我がままです。少しでもお力になれればよかったのですが……」


 そう言うと、セドリックは心底申し訳なさそうに俯き、惨状を報告した。


「屋敷の中は、旦那さまが金策のために奥さまの宝石に手を伸ばしては、奥さまがそれに激昂し、台所から居間に至るまで物であふれかえっております。フルールお嬢さまは空腹のあまり、庭の雑草を魔法で無理やり肥大化させ、庭園を毒々しい樹海に変えてしまわれました」


「……家族は今、どこに?」


「今は恐らくどうにか朝食を調えられて、食堂で召し上がっているかと」


「わかったわ。セドリック。しばらく屋敷の後始末をするから、あなたたちは今度こそ休んでちょうだい」


「は、はい。お嬢さまがそう仰るのでしたら」


 私は彼の背を見送った後、重い食堂の扉に手をかけた。




 食堂の隅には、私が半分に叩き割ったテーブルの残骸が追いやられ、代わりにどこかの部屋から運ばれた小さな木の机が、ぽつんと中央に鎮座していた。


 その粗末な机には不釣り合いな、豪奢な椅子が四脚。

 三つの椅子には、父と継母、それに義妹のフルールが身を寄せ合うようにして座り、何かを口にしていた。


「お、お姉ちゃん……」


 そう呟いたフルールの手には、ほとんど膨らまず、表面に艶もない、ただ火に炙られただけの小麦粉の塊が握られている。


「ど、どうぞ……っ」


 私の姿を見るなり、父と継母が弾かれたように立ち上がった。


 父が私の椅子を(うやうや)しく引き、継母が震える手で皿とカトラリーを並べる。そして大鍋から、顔色を窺うようにしてスープをよそった。



 私は、それら全てが酷く億劫になり、能面を貼りつけた人形のように大人しく彼らに従った。


 目の前の皿に置かれたパンを千切ろうとしたが、石のように硬くて指が沈まない。仕方なくそのまま齧ると、ガリリ、と嫌な音が鼓膜に響いた。

 表面は焼いた粘土のように強固なのに、中は生焼けでねっとりしていて、不快な塊が舌に絡みつく。


「……まずいわね」


 ハァと零れたため息と同時に、溢れ出した魔力がテーブルのスプーンを弾き飛ばした。金属が床を叩く無機質な音に、家族は何かを思い出したのか、戦慄して顔を引きつらせた。


「ごめんなさい……っ」


 継母とフルールが、僅かに目尻を濡らして小さな声で謝罪した。


 私は二人を一瞥してパンを皿に戻すと、次にスープを口に運んだ。野菜の切り方は不揃いだが、こちらは時間をかけて煮込まれており、最低限、食べ物としての体をなしている。


「これは最低限飲める代物になっているわね。誰が作ったの?」


「あ、ありがとうございます! 私が作りました!」


 父がまるで厳しい教官を前にした新兵のように背筋を正し、ひっくり返った声で応えながら勢いよく頭を下げた。



 その後、私たちは四人で、不格好な食卓を囲んだ。


 誰一人として口を開かない。カトラリーが皿を擦る神経質な音と、硬いパンを削り取るような咀嚼音。それだけが、壊れた食堂に皮肉なほど厳かに響いていた。




 質素な食事を終えても、彼らは席を立たない。


 よほど私の不在(あの四日間)が堪えたのだろう。

 見捨てられたら敵わないと、主人の機嫌を窺う忠犬のように私の次の一言を待っている。




 この数日。

 私は久しぶりに、自分のためだけに未来を考えた。


 家族を切り捨ててしまおうか。

 全てを放り出して、どこか遠くへ逃げてしまおうか。



 でも、私は――。


 結局、この領地や家族を見捨ててまで、行きたい場所もやりたいことも何一つ持ち合わせていないのだ。


 私に残っているのは、ウォルジー伯爵家の長女という空虚な存在意義だけ。

 私はどこまでいっても、『お姉ちゃん』という役割を演じることでしか、この世界に立っていられない。




 だから、私は決めた。



「私は、この家の長女ですから。……この屋敷に残りたいのであれば、今からあなたたちの『役割』を言い渡します」


「や、役割……?」


「ええ。ウォルジー伯爵家に役立たずは要りません」


 冷静な通告に、継母がヒュッと息を呑む。まるで何度もそう言われたことがあるかのように。

 その瞳にこれまでの傲慢さは微塵もなく、ただ明確な怯えの色が浮かんでいた。


「お姉ちゃんはもう、あなたたちの便利な道具(いいなり)にはなりません」




「お父さまは、その水魔法を活かして、新しいワインの開発担当になってもらいましょう」


「え、私にそんな……そもそも魔法を仕事に使うなど聞いたことは……」


 私はフォークを持った指先で、テーブルの上のコップから音もなく一筋の水を吸い上げた。


 水は空中で風魔法と混ざり合い、瞬時に冷却されて氷の針へと姿を変える。フォークの先をわずかに動かせば、氷の針は父の喉元を、獲物を弄ぶ肉食獣の牙のようにじりじりと追い詰めた。


「できないの? ……おかしいわね。家事のついでに独学しただけの私ですら、これくらいは造作もないのだけれど」


「ひぃ、……はい! できます、できるようになります!」



「お継母さまは、お持ちのドレスを使って、家格の低い令嬢たちのためのレンタル店を開きましょうか。新聞で読んだのだけど、隣国で大成功したらしいの。この国では先駆者になれるわ」


「な、何を勝手な……! 私のドレスは宝物なのよ!」


 私は、継母の皿に残ったパンに視線を走らせた。

 顎をわずかに引いた瞬間――パシュッ、と小気味よい音が食堂に響く。


 鉄のように硬かったパンは、即座に均等なサイコロ状に分解され、皿の上でバラバラと散らばった。


「……野菜のみじん切りは得意なの。それこそ、繊維一本分まで正確にね」

「あ……」


「大好きなドレスに囲まれて過ごせるという私の気遣いを、無碍(むげ)にするのですか? ……ふぅん。なら、あのお洋服は後で全部切り刻んで雑巾にしておくわ。それからお継母さまは、ご実家にお帰りくださ……」


「……や、やります! 喜んでやらせていただきますわ!」



「フルール。……貴女の『緑魔法』は、今のままでは一銭の価値もないわ。まずは教会で一般教育を受けつつ、空いた時間で領内の果物の品種改良を担当しなさい」


「何ですって! お花を咲かせられる魔法の素晴らしさがお姉さまにはわからないのね!」


「一番可能性を感じているのは洋梨かしら。川沿いの開拓が進まないの。どうやら私がいない間にお庭を随分と素敵な魔境にしてくれたようだけど、あれだけの力があるなら、果実を実らせ、美味しく育てることくらい容易でしょう。……やりなさい」


「な、……なんで、お姉ちゃんに指図されなきゃいけないのよ……!!」


 フルールが椅子を蹴飛ばし、拳を握りしめて立ちあがる。両親がはらはらと見守るのを横目に、私は彼女を一瞥して、小さくため息を吐いた。



「それは、私がウォルジー伯爵家の当主だからです」


「当主? 当主はお父さまでしょう……?」


「お父様が当主であったことなど、ただの一度もありません。私は昨日、十八歳の成人を迎えました。父が投げ出した職務を埋めるための『代行』という仮初めの立場を終え、名実ともにこの家の当主となったのです」


 その言葉に、父と継母はひどく動揺した様子で顔を上げた。私の誕生日と年齢を、ようやく思い出したのだろう。


「そんな……嘘よ……」


 混乱したように目を泳がせるフルール。

 彼女だけは、この家の真実を初めから何一つ知らなかったのだ。


 両手を口元に寄せ、ぶつぶつと呟く彼女は憐れだった。

 両親はフルールを慰めるでも諭すでもなく、自分たちの身の振り方に手一杯で、ただ狼狽える娘を茫然と見つめることしかできない。



 私は三者三様の家族を見渡した後、一度目を閉じて、深く息を吐いた。



 


「……文句があるのなら、出て行けばいい」


 私は、一切の感情を剥ぎ落とした声で、逃げ場を塞ぐように言葉を置いた。



「でもね。もし、これからも我が家の一員でいたいのでしたら」


 私は四日前に真っ二つにしたテーブルの残骸へ、優雅に指先を向けた。

 パチンと指を弾く音と共に、シュッと鋭い裂断音が幾重にも重なる。


 かつて机だったものは、四方八方から交差した不可視の刃によって一瞬でその形を崩され、跡形もない塵へと変貌した。四日間の休息によって、今の私は十分すぎるほど魔力がみなぎっている。


 パラパラと、雪のように降り積もる木屑の音を聞きながら。

 私は貴族らしく、完璧で温度の宿らない微笑を浮かべ、しなやかに小首を傾げた。



「お姉ちゃんの言うことに、従ってくれるかしら?」




 ◇ ◇ ◇




 『便利なお姉ちゃん』という呪縛は解け、私の手元には『最強のお姉ちゃん』という魔法だけが残った。


 それからの数ヶ月、我が家には「泣き言」を言う者は一人もいなくなった。

 正確には、魔法(物理)の恐怖を骨の髄まで叩き込まれた彼らに、不満を漏らす余裕などなかったのだ。



 かつて贅沢三昧だった継母は、没収されたドレスの山を前に絶望していたが、私が「レンタル業」という逃げ道を示すと、生き残るために必死で帳簿と格闘し始めた。


 父は、毎日泥水を飲むような苦行――水魔法による精製作業に没頭し、かつての肥満体型は見る影もなく引き締まった。


 そして義妹のフルール。彼女は私が強制した教会通いと土弄りの中で、初めて「自分の力で何かを育てる喜び」に目覚めていった。


 私がすべてを肩代わりしていた「偽りの平和」は、彼らが自らの手で汗を流す「泥臭い現実」へと塗り替えられたのだ。




 最初は恐怖から始まった変化だった。


 けれど、あれほど傲慢だった彼らが、今や私の一挙手一投足に怯え、そして私の言葉一つで救われたような顔をする。



「お姉ちゃん、今日の報告書です」

「ソフィー、フルールの品種改良した果物を使って新作ができたよ!洋梨の果実酒(ポワレ)というんだ」


 もはや私を便利屋扱いしていた頃の彼らはいない。

 目の前にいるのは、私の厳しい「再教育」を経て、ようやく自分の足で立ち上がったウォルジー伯爵家の構成員たちだった。




 私は彼らを許したわけではない。

 心の支えだった母の形見が戻るわけでもない。


 けれど、無様なまでの努力の痕跡を隠そうともしない、父の無骨に荒れた指先や、不慣れな事務作業でインクの染みた継母の指、土だらけになったフルールの爪先を見ていると。

 ――――復讐心とは別の、奇妙に冷めた「納得」が胸に落ちていくのを感じた。




 ◇ ◇ ◇




 そして、伯爵家に荒れ狂う嵐のごとき変革をもたらした当主就任から、一年。

 十九歳の誕生日の夜、家族は私のために、ささやかな祝いの席を用意してくれた。



「お姉ちゃん! 村のパン屋の女将(おかみ)に教わって、私がパンを焼いたのよ! デザートには、とろけるように甘い洋梨もあるわ。まだ開発中だけど!」


「あら……こないだの実験十二号が上手くいったのね?」


「ええ! ちゃんと味見したから、安心して食べて!」


 当の私が一番困惑しているのだが、フルールはこの一年ですっかり私に懐いてしまった。


 以前は何かと突っかかっては、理不尽な要求を繰り返していたのも、今なら寂しさの裏返しだったのだとわかる。


 私自身、十歳も年の離れた妹に対して大人気なかったと自省し始めていた。父や継母への遠慮から、当主として彼女の教育を放置していた自らの不手際を、認めざるを得なかったのだ。


 フルールは、教会での真面目な学習態度や、緑魔法を用いた品種改良への積極的な取り組み姿勢を褒めると、丹精込めて育てた花が綻ぶような、眩い笑顔を私に向けた。

 そして、もっとお姉ちゃんに褒められたいと、誰よりも意欲的に新しいことへ挑戦する姿に、私もいつしか彼女を、心から愛しい妹として慈しむようになっていた。



 次に、継母がおずおずと一着のドレスを差し出した。

 私の瞳の色に合わせた、清楚なパステルグリーンのドレスだ。


「あのね、秋のお茶会用の装いの売上が、記録的な黒字だったの。お姉ちゃん、利益が出たら好きなドレスを買っていいって言ったでしょう? だから……その。私が選ばせてもらったのだけど、着てくださるかしら」


 ドレス店は私の描いた筋書きを上回る勢いで軌道に乗り、継母は今や流行を牽引する実業家として、社交界で不動の地位を築いている。


 自尊心を正しく満たされた彼女は、憑き物が落ちたように実家の子爵家に固執するのをやめた。それがかえってあちらの姉を苛立たせ、嫉妬で醜く評判を落とさせたというのだから、運命とは皮肉なものだ。


「あら、夏の夜会シーズンでも記録的な売上を出したばかりでしたのに」


「小物の使い方や髪のアレンジ講座が、思いのほか好評だったのよ。……それで、ね。お姉ちゃんの髪を飾るときは、これからも私に任せてくださる?」


 期待と不安の混じった表情で私を見つめる彼女。私は思わず、小さく吹き出してしまった。


「……今だって、ほとんどお継母さまのなすがままではありませんか。これからも、よろしく頼みますよ」




「……ソフィー」

「お父さま?」


 最後に声をかけてきた父は、どこか申し訳なさそうに視線を落とした。


「……ワインの方は、まだこれといった成果が出せていなくてすまない」


「ワインは一本を完成させるまでに時間がかかるものです。一年で結果が出るとは思っていませんよ」


「だから、うちのワインではないのだけれど……」


 父が差し出したボトルを見て、私は息を呑んだ。


 ラベルに記された数字は、私が生まれた年のヴィンテージ。かつて絶望の淵で何度も眺めた、あの思い出のワインと同じ年(ミレジム)だった。

 瓶の首には、あの日、母が用意してくれたものとそっくりな黄緑色のリボンが、不器用に、けれど固く結ばれていた。



 私は言葉を失い、抗いがたい引力に惹き寄せられるように、その紅い瓶へと一歩を踏み出した。


「……産地は違うけれど。私のお客さまの伝手を借りて、何とか取り寄せたのよ」


「あのね、お姉ちゃん……そのリボン。素敵だったから、私がこっそり隠し持っていたの」


 フルールが消え入るような声で「ごめんなさい」と呟いた。

 父も継母も、自分たちには謝罪する資格さえないのだと言いたげに、唇を震わせて俯いている。




 ……ああ。

 お腹の底には、まだ過去を許しきれぬ私が、息を潜めるように潜んでいるけれど。


 それでも、母を失ってから過ごしてきたどの瞬間よりも、今の私は満たされている。



 私は一度、熱くなった目元を落ち着かせるようにまぶたを閉じ、それから精一杯優しく微笑んだ。


「……フルールはジュースだけれど。皆でこの一年の頑張りを労って、乾杯しましょう」





 この国では十八歳から飲酒が許される。

 去年はそれどころではなかったから、私にとってこれが人生初めてのアルコールだった。


 ――そう。

 私がお酒に強いのか、酔えばどうなるのか。


 それを知る者は、この場に一人もいなかったのだ。




「だって! 私にはお姉ちゃんでいることしか、残ってなかったんだもん……っ!」


 突然、私が上げた絶叫に呼応するように、無数の風刃がひゅんひゅんと無差別に荒れ狂った。食堂の壁が鋭く削られ、漆喰が吹雪のように舞う。


 家族たちは、飛んできたクッションを盾にしたり、必死に机にしがみついたりしながら、暴風のただ中で私をなだめるしかなかった。



「レオの嘘つき! 迎えに来るって言ったのに! 今日だって私の誕生日なのに……っ。もしかしたらって、少し遅れただけかもって、ちょっとだけ期待した私が馬鹿みたいじゃないのよおぉ!!」


「そ、そんなことがあったのね。お姉ちゃん、とりあえず魔法を解いて! 落ち着いて!」


「レオって誰なの!? 初耳なんだけど。ねぇ、お父さん!」


「十八になったら迎えに来るって言った、大嘘つきの甘ったれ王子様よ!!」


 叫んだ瞬間、バキン! と鈍い音が響き、隅に置かれた飾り棚が真っ二つに砕け散った。飛び散った破片を継母が近くにあった鍋の蓋で弾き、代わりにそれが鈍い音を立てて父の頭に当たる。


 食卓だけは傷つけまいとする無意識の自制心はあるようだが、それ以外の場所はまるで大型の台風が通り過ぎた後のように、見るも無惨な惨状へと化していった。



 私は一気に葡萄酒を煽ると、無言で父にグラスを突きつけた。


 「もうやめて」という継母の制止も耳に入らない。怯えきった父は「はいっ!」と上ずった声で、言われるがままに酒を注ぎ足した。


「ねぇ、お継母さまぁ?」

「は、はいぃ!」

「私はね、お継母さまには才能があるって信じてたんですよぉ……」


 私は立ち上がり、父からボトルを強奪すると、継母のグラスになみなみと注いだ。

 「飲みなさいな」と彼女の顎を指先でくいっと持ち上げる。


 恐る恐る両手でグラスを掴み、葡萄酒をちびちびと舐める彼女を見て、私は満足げに頷いた。


「自信を持って。お継母さまのセンスは王国髄一よ。……私にはお洒落なんてわからないけれど。視察のたびに目にするの。最初は自信なさげに俯いていた令嬢たちが、顔を輝かせてお店から出て行く姿を。あんな魔法みたいなこと、誰にでもできるわけじゃないわ」


「お、お姉ちゃん……でも、全部、お姉ちゃんのおかげなのに……」


 張り詰めていた心の糸が切れたのか、雰囲気につられて酔いが回ったのか。彼女が初めてボロッと大粒の涙を零した。


「謝って許されたいわけじゃないの。でも、ずっと役に立たない駄目な母で……ごめんなさい……」


「お継母さまは、経済面でも社交界の地盤としても、本当にありがたいほど伯爵家に貢献しているわ。私の経営手腕だけでは、ワイン産業を守るのが精一杯で、新しい風なんて吹かせられなかった。……当主として、心から感謝しているのよ」


「お、お姉ちゃん!!」



「――お父さまの百倍、心強いわ!」


「ひぇ!」


 突然火の粉が飛んできた父が、情けない悲鳴を上げて飛び跳ねる。


 指示されるがまま、私の、そして継母の空いたグラスへ、父はまた必死にワインを注ぎ足した。私はそれを、吸い込むように飲み干す。



「次はフルール!」

「はいぃっ!」


 私は千鳥足でふらふらと、継母の正面で固まっているフルールに詰め寄った。


「……ずっと、まともに教育も受けさせられなくて、ごめんねぇ」


 継母譲りの赤灰色の小さな頭を、ぎゅっと抱きしめる。毎日太陽の光をいっぱいに浴びて走り回っているからか、彼女からはひどく懐かしい陽だまりの匂いがした。


「当主として……姉として、もっと早くにあなたに目をかけてやるべきだったわ。自分のことで精一杯で、幼いあなたを突き放してしまった。……ずっと、寂しかったわよね」


 周囲でひゅんひゅんと風刃が空を切り、食器がガタガタと震える中。フルールは恐れる様子もなく、私の胸に飛び込んできた。


「うわーん! お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの苦労も知らないで……。ずっと、ずっと、ごめんなさい……!」


「あなたのおかげで、南部の開発が進みそうよ。これからは伯爵家の一員として貴族教育も頑張っていきましょうね」


「うん!領のみんなが笑って過ごせるように、私はいっぱい勉強したい!」


 カーテンがびりびりと切り裂け、窓ガラスにも亀裂が走るが、暴風の勢いは止まらない。

 アルコールを一切飲んでいないというのに、フルールは姉の魔力に中てられたのか、それとも大好きな魔法に興奮したのか、目を輝かせて元気いっぱいに答える。




「お父さまは……」


「は、はい!」


 私はダンッと力強く床を踏み鳴らすと、空になったワインボトルを突きつけるように父へ向けた。


「その無駄に肥えた舌だけは本物なんだから、もっと自分に自信を持ちなさい。……死ぬ気で私の期待に応えなさいな!」


「はいっ!」






 翌朝、私には一片の記憶も残っていなかった。


 視界に飛び込んできたのは、床に転がる大量の空瓶。

 そして、どんな窃盗団が襲ったとしてもここまではやるまいというほどに――千の刃で滅多打ちにされたかのごとく、無残に切り裂かれた食堂の壁紙と調度品だった。


 一体、ここで何が起きたのか。


 恐る恐る足を踏み入れた朝食の席には、なぜか晴れやかな表情のフルールと、目元が赤いが少しばかりすっきりした面持ちの継母。

 そして、見たこともないほど悲壮な形相で私に頭を下げる父がいた。


「お、お姉ちゃん……。恐れながら、切なるお願いがございます……」


 震える声で切り出したのは父だった。


「……聞きましょう」


「お酒は。……どうか、お酒だけは、当分の間お控えいただきたく……っ!」


 隣で継母も、祈るような手つきで深く、深く頷いている。


 ズキズキと痛む頭を押さえ、目の前の惨状から静かに目を逸らす。私は深酒でしゃがれた声を絞り出し、短く答えた。


「……わかったわ」






 あれから、さらに一年。


 父が手がけた洋梨の果実酒(ポワレ)は、今や王都の夜会で欠かせぬ逸品となり、我がウォルジー伯爵領はかつてない繁栄を遂げていた。


 その目覚ましい成長は王家の耳にも届き、視察に訪れた第二王子からは、何故か異様に熱のこもった視線を向けられている。




 そんな折、帝国の第一王子――あのレオポルドが、前触れもなく伯爵家を訪ねてきた。


 後継者争いに敗れた彼は、魔力の秀でた弟に王位を譲り、婚約者のご令嬢には見限られ、今や「ただの男」として私の前に立っている。


「ソフィー! 君が立派に領地を立て直した噂は聞いているよ。僕が王位を捨ててまで、婿に入ってあげるのにふさわしい。流石、僕の尊敬する女性だ!」


 キラキラと太陽の光を吸い込んで輝く金髪に、透きとおるシトリンをはめ込んだような瞳。膝をつき愛を乞うレオポルドの姿は、まるで絵画のように美しい。



 だが、戸惑い固まる私を除き、背後に控えるウォルジー伯爵家の面々は、目の前の男を冷ややかな視線で見下ろしていた。


「帝国では、何もできない僕を担いで王位を狙おうとする輩を振り切るのに時間がかかってしまったよ。でも、もう安心だ。君の隣にいれば、僕はまた何も考えず、ただ笑っていられる気がする。君の豊かな財力があれば、僕を侮辱した連中も、こちらの正しさを認めざるを得ないだろう。さあ、一緒に見返してやろうじゃないか! だからソフィー、僕と結婚してほしい!!」



「お姉ちゃん、待って。あれが本当にお姉ちゃんの理想の王子様なの……?」


 久しぶりに聞いたフルールの心底嫌そうな声に、ハッと我に返る。


「今の言葉、聞いた? お姉ちゃんに依存する気満々だよ」

「……あなたが私に言い寄ってきたときと同じ台詞だわ」


 継母の容赦ない言葉に、父が「うっ……」と古傷を抉られたように悶え、それでも絞り出すように声を重ねる。


「ソフィー……あの男はやめた方がいい。僕が言うんだから間違いない。彼は、君にすべての責任を押し付けて逃げる気満々だ!」



 そういえば、レオはお父さまによく似ていた。

 自分では何も決められず、いつも私に指示を仰ぐ。先へ進んでしまう私を追いかけては転んで泣き、私が魔法で立たせてあげるのを、情けない顔で、でも嬉しそうに眺めていた……。


 あの頃の私は、まだお母さまも健在で、守るべき妹もいなかった。


 レオに「さすがソフィーだね」と頼られることで、伯爵家の跡取りとして生まれた自分に、無理やり自信を持たせようとしていたのだと思う。


 ――誰かに必要とされることでしか、自らの価値を証明できなかった幼い私。

 それは愛ではなく、自分の存在意義を確認するための、ただの執着だったのかもしれない。



 私は一度目を閉じ、深く深呼吸をした。


 次に目を開けたとき、わずかに胸のあたりに漂っていた霧のような恋心は、跡形もなく消え去っていた。



「……お帰りいただきましょうか」



 私の言葉をきっかけに、家族が待ってましたとばかりにレオポルドに詰め寄る。


「お姉ちゃんは私たちの宝物なの! お父さまみたいな『寄生虫二号』に渡すわけないでしょ!」


「帝国の情報は私も仕入れてますけれど、あなた、王位を自ら捨てたのではなく、王の器に非ずと切り捨てられただけでしょう!……というか、幽閉先から脱走してくるなんて、あまりに非常識ですわね」


「自分を棚に上げて言うが、おまえはダメだ! 帰れ! ソフィーは僕たちが守るんだ!」



 父が指先を向けると、再教育で鍛え上げた水魔法が放たれた。かつての濁った泥水は、今や狙い違わぬ高圧洗浄の域に達している。


「ひっ、冷たっ! な、なんだこの水は!?」


 白く輝いていたはずの騎士服は、一瞬にして汚れきった泥水で塗り潰され、見るも無惨な斑模様へと成り果てた。そこへ、継母が扇で口元を隠しながら、これ以上ないほど冷ややかな蔑みを投げかける。


「あら、酷い臭いですこと。……そんな薄汚れた『粗大ゴミ』、我が家の玄関先に置くことすら不愉快ですわ」


 あまりの屈辱に顔を真っ赤にし、逃げ出そうとしたレオポルドだったが、フルールがそれを許さなかった。


「帰る前に、お姉ちゃんに謝りなさいよ!」


 彼女が愛でていた庭の植物たちが、主人の意志に応えるように一斉にその蔦を伸ばす。蛇のようにうねる蔓は、レオポルドの豪華な革靴を冷酷に捕らえ、その体を派手に引き倒した。


「あがっ……!?」


 見事なまでに顔面から石畳へ突っ伏した元王子の姿に、求婚してきたときの麗しさは欠片もない。



 かつては私を冷遇していたはずの家族が、今は私の盾になろうと必死に牙を剥いている。

 そのあまりの剣幕と、勝手すぎる「王子様」の情けない顔がおかしくて。


 やいのやいのと騒がしい家族を背に、私は視線を上げ、遠く広がる豊かな領地を眺めた。




 自分が泥を被ればいいのだと、ただ独りで全てを背負い込もうとしていた少女の面影は、もうどこにもない。


 この目の前の元王子様(粗大ゴミ)を片付けたら、今夜はみんなで義妹と父が共同開発した洋梨の果実酒(ポワレ)で乾杯しましょうか。

 家族からお酒禁止令を出されてしまった身だけれど、酒精の弱い新商品なら、一杯くらいであれば問題ないはずだ。


 私が手を差し伸べると疑いもしない、あまりに幼く、傲慢な目。そんな瞳で見つめてくる滑稽な男に、私は貴族らしい笑みを浮かべ、指先に魔力を纏わせた。



「レオ。あなたは私を『支えてくれる便利な道具』だと思っていたようだけれど……今の私は、あなたを『支える価値のないゴミ』だと判断したの」


「そ、ソフィー?」


 ああ、皆の言うとおり。

 よく見たら、レオポルドは無能だったあの頃のお父さまと同じ顔をしていた。



「私の魔法は、家族と領民を守るためにあるの。役立たずの貴方の入る余地なんて、この屋敷には風の一吹きが入る隙間もなくてよ」


 私が指先をパチンと鳴らすと、それを合図に広間で逆巻く烈風が吹き荒れた。


「うわ、あわわわっ!?」


 情けない悲鳴と共に、膝をついていた元王子は文字通りゴミのように舞い上がり、開け放たれた窓の向こう――遥か帝国の方角へと、一筋の流れ星となって消えていった。


 家族たちが拳を突き上げて、それを見送る。



「さすが、お姉ちゃんの魔法だわ!」





『お姉ちゃんだから』


 ――それはもう私を縛る鎖ではない。

 この愛すべき家族と領地を導く、最強の当主の呼び名なのだから。



最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

これでもかなりの文章を削ったのですが、短編にしては少し長くなってしまいました。


短編では書ききれなかった部分や、振られたレオポルドのその後、ソフィーの婚約者の地位を狙う王国の第二王子の登場などを加筆して中編としての投稿も目指しています。


もし少しでも面白いと思っていただけたら、下にある高評価【☆☆☆☆☆】やブックマーク、感想コメントなど、ぜひぜひ応援いただけると嬉しいです!また次の作品を書きたいなと、大変励みになっております!


そして、この場を借りて。

前作たちを読んでくださった皆さま、ブックマークや評価、コメントなどで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございます!皆さまの応援にも支えられ、こうしてまた新しいお話を書き上げることができました!

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― 新着の感想 ―
第二王子の熱い視線が気になりますので加筆楽しみです。
初恋がパパ似の男ってパパには微笑ましいシチュのはずなのに、パパ要らぬゴミが増える危機感ましましってひどい(笑)自覚あるだけ王子よりマシか。
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