【33 土台】
その日の夜、夕食のあと。わたしはいつものように、談話室で、アルフェネル様と向き合っている。
「ユーラリア嬢、お加減は?」
「はい、おかげさまで。昨夜は、しっかり休ませていただきましたので」
「どうか、ご無理なさらず。わざわざお越しいただいたのに、倒れたりなどしていただくわけには」
「あの、アルフェネル様、わたしは、本当に、大丈夫です。無理なときは、無理と申し上げますので」
アルフェネル様のお気遣いが痛い。昨日少々不調に陥っていたのは事実で、でもそれは「アルフェネル様との婚約話だと思っていたら、それは自分の思い込みだった」ということが原因なのだ。口に出せようはずがない。
思い出すとまた体調が悪くなりそうだったので、わたしはすこし強引に、授業を始めることにした。
「――魔法を使って辺境伯領を富ませるためには、まず魔法を領内に根付かせなければなりません」
そう切り出したわたしに、アルフェネル様が頷く。
「そのためには、条件があります。まずは教育。魔法の行使にせよ魔法具の作製にせよ、読み書きができなければ、概要を伝えるにもすべて、口伝えや絵に頼ることになってしまいますので」
エリューシアでは当初、魔法そのものを学ぶことはもちろん、魔法を活用する場にあっても、そこに関われるのは、限られた人――読み書きのできる、数少ない人々だけだった。エリューシアの教育は、上流階級の家庭教師や篤志家の私塾から始まり、先見の明のある領主や大商人が私設の学校を建て、そして王室が直轄領に学校を作った。
学術院はずっと前から存在していたし、魔法の原理の解明に当たって果たした役割はとてつもなく大きい。でもそれは「学術院に入ることのできるひとをより高く伸ばしてゆく」というものであって、「そこに住む皆を底上げする」という種類のものではない。魔法の研究の最先端を目指すのならば前者、魔法をひろく領全体で活用してゆくのならば後者が必要なのだ。
「ですから、まずは現状を伺いたいのです。辺境伯領では、どのような教育が行われているのでしょうか?」
「先日もお伝えしましたが、父が進めてきた領の改革の中に、教育制度の整備、というのがあります。初等教育と、それから職業教育を組み合わせたもの、と言えばよいでしょうか」
たしかに、そういった話はあった。魔石の取引で生まれた経済的余裕を注ぎ込んだ先に、学校の設立、というのもあったはずだ。
「在野からでも優秀な役人や官僚、それに領軍の指揮官を拾い上げたい父と、徒弟制度に行き詰まりを見ていた一部ギルドの思惑が合致した、と聞いています。きっかけは、そのようなことであった、と」
「今は、どのように?」
「その後、職業教育の成功を見たギルドが次々に賛同し、大商人たちもこれに加わりました。職業教育の前段階、基礎教育においても。今は、辺境伯家の名で、最低5年、長ければ10年以上の教育の機会が保証される、ということに」
「……すべての領民に対して、ということですか?」
「はい、ユーラリア嬢、まさしく。最低限として設定された5年の修学は、領民に課せられた義務です」
「……それは……いつ頃から?」
「最初に学校を設立してから、もう20年ほどに」
よい方向に予測を裏切る、ある意味で衝撃的な話だった。義務としての5年の修学。最低限の読み書きと計算は、その5年で身についているはずだ。20年経っているならば、いま30歳手前くらいの人たちは、ほぼ読み書きと簡単な計算ができるようになっているはずだ。領民の底上げとしては、まさに、申し分ない。
それだけの裾野の広がりがあるのならば、さらに高等な教育や研究のための機関――たとえば学術院のような――が立ち上がる機運も、作り出されているかもしれない。
「詳しくお聞かせください、アルフェネル様」
身を乗り出すようにして尋ねる。
そのあと、その日の授業のための時間は、ほとんど教師と生徒の立場を逆転させたような形で過ごすことになった。手許に用意していた紙とペンを使って、アルフェネル様が教えてくれる、辺境伯領の教育制度についてのあれこれを、書き留めてゆく。
7歳から5年間、領民がすべての子女を通わせる「初等学校」。
通う子供たちの進路は、卒業の時点で大きくふたつに分かれる。役人を養成することを主たる目的とした「継続教育学校」と、職業教育のための「実科学校」。年限はどちらも3年間。
継続教育学校の先では、更に3年間の「中等学校」と「中等実科学校」。ここまでで11年、7歳で学校に入った子供たちも18歳――立派な大人になっている。
初等学校を終えた先の教育にはお金がかかるけれど、奨学金や、あるいは特定の職業に就いた場合は返済を免除する、という条件のついた学資の貸与制度もあるという。
もう教育制度がある。初等教育として、すべての子供を対象にしたものが。その先の職業教育までが用意されている。
――何年分になるのだろう?
話を聞き、メモを取りながら、わたしはずっと、それを考えていた。
20年間の実績を持つ教育制度。
自分で立ち上げなければいけない、と思っていたものが、もうそこにあるのだ。わたしにとって、そしてザールファーレンにとって、これは何年分の時間の短縮になるのだろうか。20年では利かない。ひと世代分、あるいはそれ以上。
「辺境伯領の規模を考えると、教職に就かれる方の数も、相当なものになるのでは……?」
「はい。当初は、良家の女性を中心に、個別に依頼をしていたと聞きます。しばらくして、教職者を育成するための制度が組まれ、以後はその制度に従って育成をしております」
わたしは頷いて聞くしかない。教職者の育成制度? エリューシアでも、それが出来上がり、動き始めたのは最近の話だ。
「――魔法を広く活用する、ということであれば、それを扱える者が多くいなければなりません。現状、辺境伯領で魔法の行使のしかたを誰かに教えられるのは、わたしだけです」
「たしかに、仰るとおりですね」
「わたしが教えられる範囲は限られています。一度に教えられるのは、せいぜい、わたし自身の声が届く範囲でしかありませんから。つまり、最初にしなければならないのは――」
「魔法を扱うための教師を、ということなのですね?」
「はい。失礼ながら、最初は『魔法を行使するための方法や理論』と『それを他人に教えるための方法』を、同時にお教えしなければならない、と考えておりました。でも、辺境伯領には、既にたくさんの教師がいる。制度に沿って育成された、職業教師が。そうですね?」
ええ、と頷いてわたしを見るアルフェネル様の目が、ほんのわずかな間、何かを考えるように細くなり、次いで大きく見開かれた。
「――魔法を扱える者の割合。20人にひとり。そういうことなのですね?」
基礎工事は済んでる、みたいな状態です。もちろん、魔法を扱うための土台というのはこれから作らないといけないわけですけれども。




