【32 覚悟(下)】
最悪の場合の想定。未知のところへ踏み出すならば、それは確かに必要なものだ。
「最悪って……たとえば、アルフェネル様のお相手になれなくて、魔石の取引にまで影響が出ちゃう、みたいな?」
でも、わたしは今ひとつ、フランが言う『最悪の場合』というのが想像できない。お相手云々はともかくとして、ルーチェから聞いた閣下のお人柄を考えれば、アウレーゼ家やアウレーゼ家が絡む取引に対して、理不尽な扱いはされないはずだ。
「どちらかというと、お嬢様の専門と、アルフェネル様のご所望のお話ですね」
ひたひたと化粧水を肌に馴染ませてくれるフランの手の感触が心地よい。
わたしは黙ったまま、フランの言葉を聞いている。
「お嬢様の授業がうまくいって、魔法がザールファーレンに根付くとしましょう。そこで何が起きるか、お嬢様はご存じのはずです」
アルフェネル様への授業がうまくいったとして、それがもたらすものは。
大きな富と、そして社会の構造の変化。それについていくことのできなかったひとたちは。
富める者とそうでない者の差は大きく拡がり、そこに分断が起きる。自分が置かれた立場に不満を持つひとが増え、治安が悪化する。今はまだ、それだけだ。でも、この先はわからない。人々の不満が高まれば、政情と、そして社会そのものが不安定化する。エリューシアの衛士たちも、過激思想を喧伝して回る者たちの摘発と鎮静化に苦労していた。
そういうことへの覚悟が、この先で求められている。
「覚悟、ね」
恨まれる覚悟。
疎まれる覚悟。
社会のあり方を、変えてしまう覚悟。
深呼吸をしながら、わたしは考える。
「お嬢様には、後ろ盾がありません。そんな状態で、多くのひとから恨まれるようなことになれば」
辺境伯閣下も奥方様もアルフェネル様も、わたしたちにはとてもよくしてくださる。でもそれは、後ろ盾とまで自信を持って言えるようなものではない。ルーチェとオルランディ家にしても、それは同じ。
「フラン」
「はい」
「深入りしない方がいい、って言ってる?」
「いいえ」
わたしの肌をマッサージする手を止めずに、フランが短く答える。
「深入りするのならば、覚悟が必要、と申し上げています」
「……そうね」
わたしは、エリューシアで、学んだことを活かせなかった。ここでならば、という思いがある。そして、あの方のためならば、という思いも。
「深入り、したいのよ。わたしのためにも、アルフェネル様のためにも」
「はい」
「だからね、いちばん深いところまで入らないといけない、って思うの。アルフェネル様にも、閣下にも、奥方様にも、信頼していただいて。後ろ盾になっていただけるように」
目を閉じたままのわたしの耳に、フランがかすかに笑う息遣いが伝わってくる。
「それでこそです、お嬢様」
※ ※ ※ ※ ※
結局のところ、わたしにできることややるべきことが変わるわけではない。そう踏ん切ってしまうと、気持ちは案外楽になった。
一晩ゆっくりと休んで、その翌朝。いろいろなことを知ってしまったから、知る前とまったく同じとはいかないけれど、それでもわたしは、少なからずすっきりとした気分でいる。
「お嬢様」
朝食を終えて身支度を整えたわたしに、フランが声をかけてくれる。
「お気持ちは?」
「変わらないわ。やれることを、やれるだけ」
「魔術行使の理論は、お伝えできたのですよね?」
「基礎の基礎だけね。きちんと全部やろうとすると、それだけで何週間もかかっちゃうから」
わたしの返答に、フランが、そうですね、と頷く。
「この先は……というか、どう使うべきか、というお話は、わたしの専門ではあるけど」
「ええ」
「考えないといけないことが、たくさんあるのよね」
魔法とその使い方を根付かせてゆくとして、そこで生じうる影の部分の影響は、できるだけ小さくしたい。そのためには、何が起きうるか、エリューシアで何が起きたのかを、アルフェネル様に知っていただかなければいけない。
ザールファーレンで同じことをするときに、何が起きるのかを考えなければいけない。その上で、先回りして対策を打っておかなければいけない――少なくとも、いつでも対策を打てる状態にしておかなければいけない。
起きることはひとつではないから、対策もひとつだけでは済まない。起きうることのひとつひとつを仔細に検討して、対策を見つけておかなければいけない。ひとつの対策が、別の影響を引き起こすこともあり得る。一手だけでなく、二手先、三手先を読み解かなければいけない。
そもそも、魔法とその使い方を、どうやって根付かせるかを考えなければいけない。そこがきちんとできなければ、魔法を使って辺境伯領を豊かにする、というアルフェネル様の目的そのものが、成り立たなくなってしまう。
頭の中だけで考えていてもまとまりそうにないとき、わたしはやるべきことや疑問を紙に書き出す。ペンとインクを取り出して書き、できあがったリストを見て、わたしはひとつ息をついた。
「ひとりで考えてても、駄目ねこれは」
「そうなのですか?」
「うん、駄目。わたしの知らない前提が多すぎるもの。アルフェネル様としっかりお話をしないと駄目」
「まずは何から?」
話の順番として、何から始めるべきか。わたしは少し考えて、書き出した項目をひとつ選び、その下に線を引いた。
「まずはこれ。結局、ここからしか始められないもの」
わたしの手許を見たフランは、にこりと笑って頷いてくれた。
社会を変革したあとのワーストケースを考えると、まあ、ええ。




