【3 教授たち】
失礼します、と声をかけて研究室の扉を開ける。応用魔法学研究室の――つまり、魔法をどこにどうやって活用するのか、といったことを研究する部門の、主席教授と次席教授が揃っていた。
「待っていたよ、アウレーゼ君」
大きな机の向こうで口を開いたのは主席のカルディール教授。もう60代も半ばのはずだけれど、研究への熱意は衰えるところを見せない。机の上には何やら畳んだ布と、なぜか小さなブラシが載っている。
「残念だよ。実に、残念だ」
その教授が、悲しげに首を振りながら繰り返した。話はとうに伝わっていたらしい。
「儂もささやかながら抵抗したが、覆らなかった。力が及ばなんだ」
「抵抗、ですか?」
わたしが異国へ嫁ぐ話に、学術院の教授が抵抗する余地などあったかしら、と考えながら尋ねる。
「カルディール先生はね、教授会に、卒業試問の日取りの繰り上げを提案したのさ。必要な教授はここに全員揃っているのだから、今すぐにでもアウレーゼ君を呼べばよい、卒業資格を与えるに相応しいことを自ら証明するだろう、とね」
机のこちら側に立ったまま、わたしに説明してくれたのが、研究室次席のフェレイラ教授。40代半ば、伊達男という評判ではあるけれど――そして事実、伊達男だと思うけれど、研究者としての力量を疑う者はいない。
「そんなことを」
たしかにあとは卒業まで、論文の提出と卒業のための口頭試問を残すのみではあった。でも、繰り上げなど、聞いたことがない。
「私も賛同したよ、卒業どころか恩賜の指輪に相応しいのだから、と。他にも幾人かは。だが、特例を設けるのはいかがなものか、と言う教授の方が多くてね」
まったく頭の固いことだ、とフェレイラ教授が肩をすくめた。
「やむを得ない話かもしれないが、せめて学術院の卒業資格だけでも、と思ったのだがね……」
はあ、とため息をついたカルディール教授の背中が丸まっている。
「カルディール先生、かわりに渡すものがあったのではないですか」
フェレイラ教授が力づけるように声をかけた。ああそうだった、とカルディール教授が頷き、わたしを手招きした。招かれるままに机の前へ進む。
「これをな、持っていきなさい」
畳まれた布を、カルディール教授が開く。中に大ぶりの指輪があった。
「……これは」
王立学術院の紋章が入ったシグネットリング。恩賜の指輪。
「わたしには、いただくことができません。それに、いただいても――」
「今年の優等卒業者に渡すものではないよ。儂のものだ」
「であれば、尚更」
「儂も今年で退任だからの、もう使わん。いささか汚れておったから、さっきまで磨いておった」
布とブラシはそういうことだったのね。
「これの本来の使い方は知っておろう、アウレーゼ君」
学術院は教育機関であると同時に、というよりもそれ以上に、研究機関だ。指輪の持ち主は、今すでに在籍している研究員とともに高度な研究に携わる資格を得たものと見なされ、そのように扱われる。図書館の広大な書庫から始まり、ほぼあらゆる研究室への出入りを許され、資料の請求もほとんど無条件に認められる。様々な便宜が認められるのは王都以外の場所にいても同じことだ――たとえば、指輪の印章で封印した書簡は、開封されることなく宛先に届く。それが資料の要求であれば、要望する宛先に、写本が送られることになる。
「優等者として顕彰することは叶わなかったが、アウレーゼ君、君は研究を続けなさい。理論の研究や調査はできなくなるかもしれないが、実践から何かを見出すこともできるだろう。それとて立派な研究になる。君は研究を続けなさい。これはそのための、儂ができるただひとつの手助けだ。受け取ってくれたまえ、アウレーゼ君」
「私からも受け取ることを勧めるよ。少なくとも名目の上では、魔法学の教師ということだろう。ここにある書物が必要になるときが来るかもしれない。そのときは、私に宛てて要請すればいい。時間はかかるだろうが、写本なり何なりを届けることはできる」
フェレイラ教授の言葉の後半を、わたしはほとんど聞けていなかった。
こらえきれずに両手で顔を覆った。食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。あとからあとから溢れた涙は、指の間から研究室の絨毯に落ちた。
――こんなに心強い味方が、こんなところにいたなんて。
ふたりの教授はしばらくの間、なにも言わなかった。少し時間が経ってようやく落ち着いたわたしに、フェレイラ教授はハンカチを渡してくれた――返すには及ばない、と言いながら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「実際のところ、ええ、なんと言ったかね?」
「ザールファーレン辺境伯領です、教授」
「歳を取ると物覚えが悪くなっていかんな」
ぼやきながら、カルディール教授が頷く。落ち着いたわたしに、教授たちは椅子を勧め、お茶を振舞ってくれていた。
「その、辺境――ザールファーレン辺境伯領がどういった場所なのか、詳しく知る者がおらんのよ。いちばん知っていそうなのはアウレーゼ君、君と君の御家族なのだが」
「父上やわたしも含めて、詳しく知るものは家中におりません。当家に財政的な安定と中央政界での影響力、そういったものをもたらしてはいますが、あくまでも取引先、ということです。アウレーゼ家としては、エリューシアでの相場よりかなりの安値で魔石を卸してくれるのであれば、細かいことは気にならない、といったところですから」
フランが施してくれた化粧は、涙で落ちて酷い有様になってしまった。ひとまず水桶を借りて顔を洗うことができたのは良かったけれど、自分でできる簡単な化粧だけで帰らなければいけない。化粧道具は嗜みとして持ち歩いてはいても、それだけでどうにかできるような状態ではなくなっていた。この上泣き腫らした顔で外を歩けば何を噂されるか知れたものではなく、たぶん教授たちもそのあたりを考えてくれたのだと思う。
「うちの図書館になにか資料はないのかね、地誌なり旅行記なり」
尋ねたのはフェレイラ教授。
「学友のクラーセンが調べてくれました。セラートはどうやら、あちら関係の著述がなく、アスプリスの『西方聞略』では、アルトフェルツ王国自体が周辺の国とひとくくりの記述らしい、と」
ふうむ、とフェレイラ教授が唸った。
「クラーセン君の話なら、そうなのだろうね。もうこれはアウレーゼ君、君がなにか書くしかないだろうなあ」
「それは、少し考えました。書けるようであれば、書こうと思っています」
わたしはティーカップを両手で包むように持ち、ぼんやりと座っている。作法もなにもあったものではないが、この教授たちにそういう気遣いは必要ない。今は甘えてしまおう、と思っている。
「続く者のためにも書くとよかろう。まずは日記でもなんでも、あとでまとめるためのものを」
これはカルディール教授。
「はい、そうします」
なにもなければ自分で作るしかない。遠い将来のことになるだろうけれど、それが誰かに読まれることもあるかもしれない。そうやって続いてきた結果が、学術院の大図書館なのだろうと思う。教授たちは言わないけれど、異国にある寂しさや辛さも、誰かに読ませると思って吐き出せば少しは軽くなるのかもしれないのだから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
しばらく事務的なやり取りをして、少しだけ化粧を直したあと、教授たちにお礼とお別れの挨拶をして、わたしは研究室を出た。もう昼近い。昼には戻る、と御者やフランに伝えてしまっていた。車寄せに出ると、もうアウレーゼ家の馬車が待っていた。わたしに気付いた御者が、慣れた所作で扉を開ける。
中で待っていたフランは、わたしの顔をちらりと見たけれど、なにも言わなかった。すぐに馬車が走りだす。
小さく揺れる馬車が学術院を離れてしばらく経った頃、フランが口を開いた。
「ユーラお嬢様、旦那様にお許しをいただきました」
言葉の意味に気付いて、わたしはぼんやりと外を眺めていた視線をフランに向けなおす。
「あなたまさか」
「フランも、お嬢様と一緒に参ります」
もう決まったことだ、という表情と態度だった。
「どんな場所かもわからないのに」
「言われるほど悪い場所ではないでしょう」
「戻ってこられないかもしれないのよ」
「こちらに縁者がいるわけでもありませんし」
どうしようもなく嬉しいし心強いけれど、わたしの人生に彼女まで巻き込むのは気が引ける。
「フランは、ユーラお嬢様付きですから」
わたしの引け目を見透かしたように、彼女は言った。淡々と、それが当たり前だから、というように。
「それにしたって」
「残ったところで、奥様によい紹介状を書いていただけるとも思えません」
わたし付きの侍女だから、わたしが家を出れば彼女の仕事はなくなる。コーネリア付きの侍女はもういるし、コーネリアとフランの反りが合うとも思えない。そしてどこか別のお屋敷に仕事を探すにしても、そのための紹介状を書くのは母上だ。わたしを徹底して疎んだ母上が、常にわたしの支えになってくれたフランをどう扱うか。体面を気にする母上だから、あからさまな形ではないだろうけれど、フランのためになるようにと気を遣ってくれるとは思えなかった。
「それに、お嬢様」
笑みを含んだ声でフランが付け加える。
「フランは、少し楽しみでもあるのです。海の向こうに何があるのか、見てみたくはありませんか?」
おぢさまたちがJDを泣かせるの図(誤解を招く表現




