【28 過去形】
アルフェネル様にもうお相手がいるのだとすれば、わたしがどうこうという話ですらない。これまでの言動を思い返す限り、いなさそう、とは思うのだけれど、わたしの感覚などあてになるものではない。今しがた、自分の常識を覆されたばかりなのだから。
「――いたわ」
「『いた』?」
過去形?
「……長くなるわよ」
ひとつ息をついたルーチェが、ばさりと髪をかき上げた。
「婚約者ね、いたのよ。2年半とすこし前まで。歳は……いくつ離れてたかな、亡くなったとき、たしか9歳だったから――」
いた、ってそういう。
「いまアルフェネル様が21だから当時18、だいたい9歳差ね。婚約そのものはもうずっと前からで、決まったのがもう8年とか9年とかそのくらい前。婚約したときアルフェネル様が12か13、アデルフィア嬢――お相手は3歳」
有力な貴族であれば珍しい話ではない。
生まれる前から結婚する相手が決まっている、ということさえある。
「まあ、そういう歳だから、異性としてどうこうというお話ではなかった、と思う。年の離れた妹のような形でお付き合いをされていたみたいでね。アデルフィア嬢も、利発で可愛らしいひとだったから」
どこまで結婚を意識されていたのかはわからない。でも、そう長くない日数を同じお屋敷で過ごしただけのわたしに対してさえ誠実に接してくださった。だから、年の離れた婚約者には、丁寧に丁寧に接されていたのであろうことは想像がつく。
「ただ、アデルフィア嬢が成長するにつれて、病気がちでひどく身体が弱いということも解ったのよね。婚約を解消するかどうか、みたいな話もあったとは聞いたわ。噂だけだったけれど」
「結局、最後まで、婚約はしたままだった?」
「ええ。アルフェネル様ご本人のご意向だったそうよ。成人するまで生き延びる見込みがなくなったあとも、そうであればこそ婚約解消などできるはずがない、と」
アデルフィア嬢がどんな方であったのか、わたしには知るすべもない。けれど、アルフェネル様の性格ならばそうもあるだろう、と確信はできた。
アデルフィア嬢の人生のひとつの目標として、間違いなく、アルフェネル様の伴侶になる、ということがあったはずだ。それがもう叶わない望みになったとき、だからこそ歳の離れた幼い婚約者を突き放すことなどできなかったに違いない。
「まあ、当時のアルフェネル様のお立場だからこそ、許された我侭だったんだけどね」
「――それは、どういう……?」
ルーチェがもうひとつ息をついた。
「お兄様がいらっしゃったのよ。だから当時、アルフェネル様は、辺境伯の後継者ではなかった」
これも過去形。ということは。
「お兄様も?」
「ええ、1年とすこし前にね。事故――落馬で」
次男の婚約者と長男とを立て続けに喪った辺境伯夫妻の悲しみは、どれほどのものだったか。自らの婚約者と兄君を相次いで亡くしたアルフェネル様も、平静でいられたはずはない。
「アデルフィア嬢が亡くなってしばらくは、アルフェネル様も塞ぎ込まれて、新しい婚約者探しは1年――喪に服している間は沙汰止み。ようやく前を向けるようになったところで、今度はお兄様を亡くされた」
魔法薬があれば。あるいは、魔法でもって傷を癒すことができていれば。
実際にどうだったのかはわからない。でも、そういう可能性をこそ、人は見つめてしまう。
「お兄様ご夫婦にお世継ぎは生まれていなくて、仲が良かったと評判の若奥様は、喪が明けないうちに修道院へ入られた」
淡々としたルーチェの言葉が、かえって寒々としたものを胸の中に呼び起こす。立て続けの不幸に揺さぶられた辺境伯家にあって、それでもその家を引っ張らねばならなかった辺境伯閣下は、どれほどの苦労をなさったのだろう。
「本当ならすぐにでもお相手を見つけなければいけないところだけれど、まあ無理よね。服喪している最中でもあったし」
実際問題として、辺境伯家唯一の跡継ぎ候補、ということなのだから、お相手がいないままでよし、とするわけにはいかない。貴族の義務は様々なものがあるし、国や時代によっても少々違ってくる部分はあるけれど、どこでも共通するところはある。その最たるものが、次代に家を引き渡す、ということだ。
「不幸中の幸いというか、当代の辺境伯閣下――アレイン閣下はまだまだご壮健だから、今すぐにどうこう、という話ではないし」
確かに、あの辺境伯閣下のご様子であれば、すぐに、という話ではない。同意を示すために、わたしは頷く。
「それで、お兄様の喪が明けたのが最近のことだから、領内では注目されているのよね。アルフェネル様は、辺境伯家の推定後継者。お相手は、今はいない。その婚約者になるということはつまり、いずれ妻に、そして次代の辺境伯夫人になるということだから」
それは、たしかにそうなる。ほぼ間違いのないところだろう。
「積極的に狙っている家もあれば、ちょっと引いて見ている家もあって、オルランディ家はどちらかというと後者。まあ、引いて見ている、というか腰が引けているのは、私自身もそうなんだけれども」
どういうことかしら、とわたしは首を傾げた。
「だいたい共同統治者というか共同経営者というか、そういうものになるわけじゃない? 辺境伯の領地と権限の大きさを考えると、そこを切り回すって大変なものよ。辺境伯領の領民がだいたい120万人くらいだから」
「――120万?」
「ええ、120万。私のところみたいな陪臣の領民も含めてだけど」
聞き間違いかと思ったけれどもそうではない。エリューシアならば臣下として最高位の侯爵で、領民がだいたい30万くらい。その4倍。
「話の腰を折ってごめんなさい、そのあたりはちょっとまた今度詳しく教えて」
「――どこまで話したかしら? そう、120万の領民の上にふたりで立つことになるわけじゃない? 領政のあれこれを相談して、まあ最終的に決めるのはアルフェネル様ご自身としてもよ。実際に領地を経営するとなると、いろいろなことが起きうるわけでしょう」
うまくことが運んでいる間はいいかもしれないけれど、人生がそうであるように、領地経営もうまく行くときだけとは限らない。
「旱魃や洪水、冷害や暑熱、病害、疫病、隣国との小競り合い、ひょっとすると戦争」
ルーチェが形のいい指を折りながら、辺境伯領の経営に降りかかりうる災厄を並べ上げる。
「ま、うちもそのあたりは同じだけれど、やっぱり規模が大きくなりすぎるとね」
そう言ってルーチェが肩をすくめる。
「その類の災厄がなくとも、普通に内政でやることだけだって相当なものよ。陛下――王室との関係を良好に保ちながら、領内の貴族たちをまとめる、っていうのは」
「辺境伯領の中も一枚岩、というわけじゃない?」
「表立っての反目、というのはなくてもね。たとえば旱魃ひとつ取っても、灌漑がしやすい場所とそうでない場所では危機感が違うわけでしょ? 洪水ならそれが逆になるし、そうすると『堤防と用水路のどちらを優先して作るか』みたいなお話になるわけよね」
なるほど、と頷く。領地が広く、領民が多ければそれだけの様々な利害がある、ということだ――当然と言えば当然のことではあるけれど。そういう利害を調整することが辺境伯のお役目の、重要なひとつ。皆が満足できないこともある……というよりも、その方が圧倒的に多いだろう。全員が満足できる解決策など、なかなかあるものではない。
ルーチェがいま口にした堤防と用水路の喩えで言うのなら、辺境伯の名で命じてどちらを作るにせよ、その反対の側からの恨みは買ってしまう、ということになる。当然それは、その辺境伯の隣に立つ辺境伯夫人も、そしてその夫人を出した家も、みな含めてのことだ。
わたしはため息のような大きな息とともに、言葉を吐き出した。
「――国の中にもうひとつ、別の国があるようなものね」
略奪愛みたいな話にはならない模様です。
そして辺境伯領は大きな領地で、それゆえに利害調整もなかなか大変なものです。感覚的には「ちょっとした国」。




