【2 学術院】
学術院の門をくぐり、綺麗に敷石が敷き詰められた歩道を通って、わたしは教授たちのいる研究室へ向かった。手回しのいいことに、母上は、昨夜のうちに学術院へ使いを出している。フランがそう教えてくれた。これも気が変わらないうちに、あるいは状況が変わらないうちに既成事実を、ということだったのだろう。
もともと母上はわたしが学術院で学問を修めることを良く思っていなかった。殿方に話を合わせることさえできればよく、そのための教養が身に付けられればそれでいい――母上の学問への向き合い方というのはそういうところで、研究で身を立てようなどということは想像の埒外だったのだろう。
母様であれば――身体が弱く、わたしを生んで数年後に若いまま亡くなった母様であれば、たぶんそうではなかった、と思う。
『ユーラは賢い子ね』
『たくさん本を読みなさい、あなたの知らないことが、世の中にはたくさんあるのだから』
そう言いながら小さなわたしの頭を撫でてくれた母様であれば。父様の書斎に並ぶ書物の半ばは母様の望みで手に入れたものだ、と父様から聞いたことがある。学術院へ行って魔法学を学びたい、とわたしが言ったとき、母上も妹もいないふたりだけの書斎で、血なのだな、と父様は嬉しそうだった。それでも父様はアウレーゼの家を守らなければならないし、そのためであれば、わたしの夢など切り捨てざるを得ないもののひとつに過ぎない。椅子に座って頭を抱えた父様の姿が思い出される。
――と、わたしは無遠慮な視線を感じた。
道ゆく学生たちがこちらを見ている。振り返って眺めるひともいる。
考えられる可能性はひとつしかなかった。使いを出したついでに噂までばら撒いた、ということなのだろう。血が繋がっていないとはいえ、母が娘へする仕打ちとは思えないやりようだった。
アウレーゼ家には男子がいない。母上も歳から考えて、これからもう1人というのは少々厳しい。となれば、娘の――わたしか、妹のコーネリアのどちらかの婿のかたちで養子を取り、家を継がせることになる。わたしが異国へ嫁ぐのならば、その役目はコーネリアに――母上の血を分けた娘にゆく。
ここまでやっておけばわたしは後戻りできなくなるし、万が一あちらでうまくいかなかったときにも、戻ってくることさえできなくなる。つまり、それだけコーネリアの立場も盤石になる、ということだ。
話としては理解できる。でも、本当にそれを、その日のうちに行動に移してしまえるところが、わたしは苦手だった。
――頭のいいひとには違いないのだろうけれど。
ため息をひとつついて、わたしは周りの視線を振り払うように足を速めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ユーラ!」
ばたばたと駆ける足音と、聞きなれた声がした。
「ノル、どうしたの慌てて」
愛称で呼び合う数少ない学友、ノルベルト・クラーセンだ。表向き、学友はあくまでも学友であって、そこに位階の差はない。従者の類も学術院内へは入れない。馬車も馬も門のすぐ外の車寄せまでだ。そんな場所だから基本的に敬称は付かないし、貴族に対する礼も必要ない――ことになっている。実際のところはそうでもなく、生まれ持った地位にこだわる貴族の子女は少なくない。わたしは正直なところ、一介の学生として扱われる方が気が楽で、だから表向きのとおりで、と周囲に告げていた。
「どうしたじゃないだろう、君のことだ」
「あなたにも、もう知られているのね」
小さなため息とともに吐き出す。ノルベルトは貴族社会の住人ではない。裕福ではあるが平民の家の出で、学術院のあれこれをいち早く知れるような繋がりもない。その彼が知っているということはつまり、学生の大多数がもう知っていると考えていい、ということだった。
「正直、どう言っていいかわからん。恩賜の指輪どころか、首席だって確実だったってのに」
沈痛な表情で肩を落とし、彼は首を振った。学術院の成績優秀者に、王陛下の名でもって与えられる指輪は、それ自体が大きな名誉だ。加えてそれは、中央官衙や宮廷への奉職を望む者にとって、ある種の通行証として働く。そして魔法科の首席と目されるのはわたし、次席はノルベルトだった。つい昨日までは。
「貴族の娘だもの、こういうことだってある。あなたが平民ゆえの苦労をしたように、貴族には貴族の不便があるの。たまたまそれが今来ただけ。そう思うことにする」
ノルベルトは眉間に皺を寄せてわたしを見返した。君はそれで納得できるのか、とでも言うように。納得するしないの問題ではない。すべてわたしの手の届かないところで決まってしまった。納得できずとも、呑み込むしかない現実だ。
「……俺はこんな形で、首席になりたくなどなかった」
「そうでしょうね。でも、仕方ないのよ」
はあ、と大きくため息をついて、ノルベルトがもう一度首を振る。
「……君が仕方ないと言うんじゃ仕方ない。ああ、何かあるかと思って、少し調べたんだが、アルトフェルツ王国について」
「図書館で? ありがとう、何かあった?」
「何もありゃしない」
ノルベルトが肩をすくめる。
「あるならセラートあたりだと思ったんだが」
彼が挙げたのは、著名な旅行記の作者の名だ。
「アスプリスは?」
「『西方聞略』なら駄目そうだった。目次の時点で『更に西方の諸国』でひとくくりだし、それも数ページだったからちょっと期待できない」
もうひとり、こちらも著名な地誌の編纂者の名を挙げてみたけれど、そちらも有用な資料はなさそうだ。
「力になれなくて済まない、ユーラ」
「十分よ、ノル。ありがとう」
自分のことを考えてくれる友人がいるという事実がそこにあるだけで、ずいぶんと救われるものだ。こういうときには特に。
「学術院にはいつまで? すぐ発つってわけでもないんだろ?」
「すぐではないけれど、準備でいろいろあるだろうし、たぶん今日が最後だと思う。私物は誰かに取りに来てもらうしかないかな。残ったものは良かったら使って」
わたしの言葉に、ノルベルトがまた首を振った。
「そろそろ行かないと。教授に挨拶しなきゃいけないから」
「――引き留めて悪かった、ユーラ。どうか、元気で」
「ありがとう、ノル、あなたも」
また会おう、とは言わなかった。軽々に再会を約束できるような場所でも立場でもないことは、ふたりともよく知っていた。
「母上」と「母様」は別人です。念のため。(「母上」が再婚した継母、「母様」が物故した生母です)




