【10 辺境伯家の人々】
ふたり分の化粧を30分ほどで済ませてしまうのだから、フランの化粧の手際には本当に無駄がない。化粧をほどこす間、鏡の中の手はほとんど止まることがなかったし、一度乗せた色を塗りなおすこともなかった。フランが呼び鈴を鳴らして侍女を呼び、準備が整いましたと伝えると、一度下がった侍女がすぐに呼びに来てくれた。
「ご案内いたします」
侍女について歩いていくと、広間に続く大きな扉の前へ出た。
「御主人様、お二方をご案内いたしました」
ノックに続いて、侍女が扉の向こうへ声をかける。
「お通ししなさい」
低く落ち着いた声が応じる。侍女が扉を開けると、広間に待っていたのは3人。一礼して侍女が下がり、広間に入ったわたしたちの後ろで扉が閉められた。会釈して3人の前に進み出る。
「お目にかかれて嬉しゅうございます、エーレンハルト閣下。ジェスレント伯爵カルノ・アウレーゼの息女、ユーラリアと申します。お招きにより、エリューシアから参りました」
わたしがお辞儀をするのを待って、一歩下がったところからフランが口を開く。
「ユーラリア様付きの侍女、フランツィスカ・メルシュテルンと申します、閣下。ユーラリア様ともどもお見知りおきくださいませ」
「お顔をお上げください、お二方」
扉の向こうから聞こえたのと同じ声がそう告げた。低く深みのある、耳に心地よい声だ。言われるままに顔を上げる。このひとが辺境伯閣下、と思いながら、目の前の人物に視線を向けた。
中背、がっちりとした体格。ウェーブのかかった白髪交じりの褐色の髪、すこし皺の浮いた白い肌、深い紺の瞳。口ひげをたくわえた表情は穏やかだけれど、他人を従わせることに慣れたひとだけが持つ威厳をそなえている。
「私の方から請うたのです。どうか、あまりかしこまられませんよう。――ザールファーレン辺境伯、アレイン・エーレンハルトと申します。よくおいでになられました。アウレーゼ嬢、メルシュテルン嬢、私の家族を紹介させていただいても?」
はい、と頷く。
「こちらが妻のエミーリア」
「エミーリアと申します。遠いところを来てくださり、ありがたく存じます。心細いこともおありでしょうが、わが家と思ってお過ごしください、お二方」
奥方様はほっそりとした長身。辺境伯閣下と背丈はほとんど変わらない。まっすぐで長い金の髪、歳のためか艶こそ失われつつあるものの美しい白の肌。落ち着いた光を湛える青の瞳。優しげな声。
高貴な生まれ育ちの女性はかくあるべし、という理想があるとすれば、この奥方様は、姿かたちといい歳の重ね方といい、理想に限りなく近い女性に違いない。
「ありがとうございます、奥方様。まことにご親切なお言葉、故郷を離れた寂しさも和らぐ思いです」
そう答えてお辞儀をすると、奥方様は優雅に会釈をして応じた。仕草ひとつ取っても、身についた優雅さが伺える。わたしのような付け焼刃の作法とは違うのだ。
「こちらが嫡男のアルフェネル」
閣下を挟んで奥方様の反対側に立つのがアルフェネル様。
歳はたぶん、わたしよりもいくつか上。わたしに魔法理論を教わりたいというのはどんな男の子なのかしら、と思っていたので、少々驚いた。教師役よりも生徒の方が歳上というのはあまり聞かない話ではあるけれど、ない話ではない。
長身に均整の取れた体格。優しげに整った顔立ち。金褐色のゆるくウェーブした髪、深い紺の瞳。目には強い意志と知性の光がある。白い肌には、その下に籠められた活力を表すように、ほんのりと血の色が差していた。
「アルフェネルと申します。遠路お越しいただけたこと、感謝に堪えません。是非、多くを学ばせていただければと思います」
笑顔とともに発せられたのは、耳に心地よいけれどよく通る声。年下のわたしにも丁寧な態度。ごく自然な自信と自負がにじみ出る挙措動作。ご両親を見ていると、ああこのお二人のご子息なのだ、ということがよくわかる。口許を引き締めたときはお父上に似た威厳があり、笑顔はお母上に似た柔らかさがある。
――わたしはこのひとに嫁ぐのか。
たくさんのものを遠い故郷に置いてこなければならなかった痛みは消えないだろう。このひととならば、その痛みを埋め合わせるような何かを作り出せるのかしら。
「食事を用意させました。お二方、もしお疲れでなければ、エリューシアや道中のお話など伺いたく思うのですが」
閣下のお誘いに、わたしはお礼を言ってお辞儀をした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ラネスから聞きました、アウレーゼ嬢。エリューシアでは学術院で魔法学を修めておられたとか」
メインの魚料理を――近くの湖で穫れたという鱒の香草焼きを切り分けながら、アルフェネル様が尋ねる。わたしは手を止めて、はい、と答えた。
「応用魔法学を――魔法をどこで、どのように活用するか、ということを、学んでおりました。学術院に在籍していたのは3年ほど、応用魔法学の研究室にいたのは2年ほどですから、まだまだ若輩ですけれども」
「いやいやご謙遜なさるな、ラネスから聞いておりますぞ。かの学術院で首席を争われるほどであったとか」
手振りをつけて割って入ったのは辺境伯だ。
「研究をなさっている方も教授方も、皆様優秀な方ばかりですので。どうにも自分を引き比べてしまいます。ラネス様――マウザー卿にも伺いましたが、学術院はこちらでも名が通っているのですね」
「様々な分野の教育と研究をエリューシア王室の名のもとに行っている、東方最高級の学問所、と」
わたしの疑問に答えたのはアルフェネル様。
「まさに。その学術院の首席をお迎えできるとは、当家にとってもまたとない名誉」
辺境伯が上機嫌に付け加える。顔がほんのりと赤い。そういえばいいペースでグラスを空けていた。
――もしかして、酔っておられる?
「父上、進みすぎです」
「あなた、過ごしてはお二方に失礼かと」
アルフェネル様と奥方様が小声で窘める。
「いいえ、失礼などとは。あたたかく歓迎していただけること、わたしたちとしてもとても嬉しく存じます、閣下」
お酒の話には触れずに、暖かい雰囲気を作ってくれたことにお礼を言う。
「旦那様は」
ふわりと笑顔を浮かべながら奥方様が閣下に視線を送った。
「お二方とテーブルを囲むことができるのが嬉しいのです。当家にも娘がふたりおりましたが、もう嫁いで長いものですから」
「エミーリア」
「娘や婿殿の前ではけっして口にしませんが、寂しいのですよね?」
「……エミーリア」
御馳走様、としか言いようがない。隣ではフランが俯いて口許を引き攣らせている。テーブルの向こう側では、なんとも言えない表情をしたアルフェネル様が口許に手をやっていた。
「お嬢様方がおられた頃の団欒が目に浮かぶようです、奥方様」
「あら、そんなに堅苦しく呼ばないでくださいな、アウレーゼ嬢。このような席なのですから」
「ではエミーリア様、わたしのこともユーラリアとお呼びください。彼女もフランツィスカ、と」
「ユーラリア嬢にフランツィスカ嬢ね。――あら、旦那様の気持ちがすこしわかるわね。娘が増えたよう」
「母上もあまり――」
娘と呼ぶのはどうか、ということなのだろう、アルフェネル様が居心地悪げに口を挟んだ。わたしは気にしておりませんよ、と首を振る。
「申し訳ありません、アウレーゼ嬢」
「ユーラリアでよろしゅうございます」
「――ユーラリア嬢」
優しい声で名前を呼ばれると、わかっていてもどきりとする。自分で呼ばせておいてそれもどうかと思うけれど、顔も声もいいからやはり嬉しい。
「失礼などと思わないでくださいね、アルフェネル様」
そう言えば、こうやって丁寧に気を遣って話してくれる男のひととテーブルを囲んだことがない。
学術院に関わりのない貴族の子弟とはそもそも話が合わなかったし、学術院に子女を送り込んでいる家の晩餐会にも幾度か招かれたけれど、先方の居心地が良くないようで話が弾まず、そういうことを幾度か繰り返してからは呼ばれること自体がなくなった。だから、母上が心配していたこと――貰い手がない、という話には、相応の理由がありはしたのだ。納得だけは、どうしてもできなかったけれど。
「お気遣いありがとうございます、ユーラリア嬢」
アルフェネル様が困ったような笑顔で言った。
テンションが上がってお酒を飲み過ぎちゃうパパが今回のカワイイポイントです。
娘が嫁に行っちゃって寂しいからね、しかたないですね。




