第四話 手放されないリンゴ
その日の夜、貴子は寝付かれなかった。
明日は土曜日で休日だし、貴子と亜佐美が行った昼の商談が上手く行った事もあって、営業課の皆は定時で仕事を切り上げて飲みに行った。だが、昨晩雨滴に晒した身体に酒を与える気にはなれなく、適当な言い訳をして自宅に帰って来たのである。
マンションで一人暮らしをする貴子には、時折、この、しいんとした、静けさという騒音に悩まされて眠れない時が有る。
テレビを点けたところで、液晶の向こうだけで盛り上がっているバラエティ番組か、てんで公平性を欠いたニュースの体裁を借りたワイドショーに気分を害されるだけだし、今の心境に合う音楽も無い。
枕に突っ伏したまま、ベッドの中でごろごろとしていると、紙袋の中に畳んだタオルが目に入った。
紙袋の方は、帰りにデパートの地下で買った、焼き菓子の詰め合わせが入って来たもので、タオルの方は、他でもない例のやつだ。
正直、何を遣い物にするか悩んだ。亜佐美のCDの件を話に聞いてしまったからだ。亜佐美はその辺りが上手いと思う。感服した。プレゼントは、彼本人にでなく、その妹へ。しかも、欲しがっていると知ったCDを買って、敢えて開封してから『自分のお古』だと称して渡したのであろう事が分かる。何故なら、亜佐美は洋楽を聴かないからだ。これなら、相手も幾分気兼ね無く受け取れるだろう。
自分は何も気の利いたものが思いつかなかった。彼は、仕事の時にバンダナを巻いていたから、そういったものをとも思ったが、傘とタオルのお礼なのに、いきなり身につけるものでは重たい気がした。
幾ら『出来る女』と吹聴されようが、こういうのがからっきしだと、自分はまだまだ半人前だと思い知らされる。
でも、こうして、昼間の事を思い出していると、一緒に浮かぶのがあの味だ。
「お弁当……美味しかったな。特に、あのポテトサラダ。私、あんな風に作れない」
ぼそりと呟いた。中のチーズがとろけたハンバーグも、味わい深いデミグラスソースも、甘くて軟らかいキャロットグラッセも、歯ごたえの絶妙な茹でブロッコリーも、全て美味しかった。でも、ひときわ印象に残ったのは、付け合わせのポテトサラダであった。非常に細かく刻まれたリンゴの果肉と、粒状にほぐされたレモンの果肉、そしてレモン果汁とが、配合の妙で、爽やかな香りと食感を醸し出していた。
はぁ、男は胃袋を押さえちゃえば逃げないなんて言うけれど、だからかな。
自分の為だけにはなかなか作れない弁当も、恋人が居る間は出来得る限り作っていた。とは言え、自分も仕事を持って忙しい身、そんなに手間隙掛けたものではなかった。だからなのか。だから、自分は捨てられたのか? そんな事で? いや、結局は自分に魅力が無いだけか。
そんな考えが頭を駆け巡り始めると、無性に悲しくなってきた。
「――会いたい」
誰に? 自分は誰に会いたいのか。自分を事も無げに捨てた佐野か。違う、そうではない。ただ、“あの”笑顔が見たい。そうしたら、前向きな気持ちで眠れるかも知れない。
枕元の時計に目を遣ったら、デジタル表示が二十三時前を知らせていた。
ひと目、ひと目あの笑顔が見られたら……。
まぶたを閉じたら、あの笑顔ばかりが浮かんでは消える。
自らの鼓動がベッドを伝って聞こえて来る。
明日まで待てないのか? いや、今、行動を起こすかどうかで、明日を笑顔で居られるかどうかが変わるかも知れない。
ベッドから飛び起きニットのタートルネックにずぼりと首を通すと、簡単な化粧で身支度を済ませ、タオルと焼き菓子の入った紙袋を手に、部屋を飛び出す。
こんな時間にまだ店を開けているだろうか。一日に二度も訪れたら変に思われるだろうか。不安なくせに、足は迷わず駅に向かう。
「お兄ちゃん、私、もう寝るね」
「ああ、今日も有り難う」
サラダなどのサイドメニュー類が売り切れ、空になったガラスケースを、店の外側に出て丁寧に拭き掃除をしていた勇樹は、その手を止め、目を細めて礼を言った。
店の手伝いと宿題を終えて、小気味良い足音を立てながら、珠樹が階段を上って行った。
今夜も、どうにか弁当を完売出来た。忘年会シーズンのせいか、ここ数日は売り切れる時間が遅くなっている気がするが、少し長めに店を開けていれば、夜食に買って行ってくれる客がある。今はそれで十分な筈なのに、どうにも朝から振り払えないフラストレーションが体内に渦巻いている。
勇樹が店のシャッターに手を掛けた時、女の声がした。
「あ、あのっ」
声の主は貴子であった。息を弾ませてこちらを見ている。
「タオル、有り難う御座いました」
貴子は、洗濯したタオルの入った紙袋を勇樹の前に差し出し、それが受け取られると、深々と頭を下げた。
「これをわざわざ?いつでも平気でしたのに――それに、こんな高価そうなお菓子も……」
菓子の包み紙を見ると、しぼみかけの風船の様に俯いた。
「えっと、違うの。お歳暮に頂いたものなんだけれど、私、間食を避ける様に決めているから。だから、高価でも何でもないの」
言い終えたところで、失言に気付いた。亜佐美の真似をしてみようとしたが、完全に裏目に出た。これでは、ダイエットをしているととられる。昼の弁当も義理で買いに来たと思われてしまう。
案の定、勇樹が益々しぼんで行く。
「っと、そうでなくて――そう、あなたのお弁当がとても美味しかったから、また美味しく食べたいから、間食をしないことにしたの。また、明日も絶対買いに来るから」
勇樹が、くすりと吹き出した。
「やっぱり、律儀なんだ」
口にこぶしを当てて隠すが、笑みが漏れる。
貴子は、ほっと胸を撫で下ろした。今の事もそうだし、日に二度も店を訪れた事で呆れられるのではないかと思っていたが、勇樹の微笑みが「そんな事は無い」と、彼の心の内を教えてくれている。
勇樹の笑顔にほっとしたら、今度は下腹の辺りに地震を感じた。都会の喧騒に掻き消されて、勇樹には聞こえなかっただろうが、これは、まごう事無き腹の虫だ。
「あの……その、もう、お弁当は無いですよね?」
「え?」
顔を真っ赤にしてはいるが、勇樹になら、何でも格好をつけずに言えそうな気がした。
「晩御飯がまだなのを思い出してしまって――お腹が空きました」
でも、言い終えてみるとやはり恥ずかしく、下を向いてしまった。
「お兄ちゃんも今からなんだから、お姉さんが嫌じゃなかったら、部屋に上がって貰ったら良いじゃない」
ガラスケースのカウンター越しに、珠樹がひょいと顔を出した。
「うわっ、珠樹!お前、上で寝ていたんじゃっ?」
突然妹の声がして、背筋が伸び上がった。
「さっき、ここで宿題してたからさ、ノート置き忘れてて。取りに来たら、何か良い感じだったんだもん」
勇樹にしてみれば、出逢ったばかりの女性を部屋に連れ込むと言うのは紳士的でない気がして抵抗が有ったし、貴子にしても無節操な女だと思われそうで遠慮したが、二人の手を引く珠樹の勢いに圧倒され、結局、貴子は二階の居間に通された。
珠樹は、残りの店の片付けを手早くこなし、その間に勇樹に準備させておいた夕飯をこたつの上に運び、文字通り、“お膳立て”を済ませてから自室に戻って行った。
「済みませんでした。妹が突然無理を言って」
とても静かな食事の光景。築年は随分経過しているらしいが、掃除の行き届いた畳みの部屋で、普段ならくつろぎの空間であろうに、二人とも、緊張で言葉少なだ。
「いえ、私こそ図々しく上がり込んで――――それより、妹さんとお二人で暮らしてらしたんですね」
気まずさからどうにか逃れようと、話題を変えた。
「ええ。母が出て行って以来、兄妹二人なんです。気ままで、なかなか楽しいですよ。もちろん、妹の珠樹には、色々と我慢させている事も多いと思いますが……」
余計に、空気が重たくなった。自分の家だと言うのに、勇樹まで所在無さげだ。けれども、他にどんな話題を持ち出せば良いかも分からなかった。
「あ、このポテトサラダ、やっぱり凄く美味しい」
昼の弁当に付け合わせてあったのと同じサラダが小鉢に盛られていた。
「良かった」
勇樹は、嬉しそうに頷いた。
「それだけは、もう、改良の余地が無いんです。割と単純な料理ですから」
料理の事となった途端、勇樹の瞳が輝きを取り戻した様だった。
「だから、ウチのレシピで、唯一、僕が手を加えていない、母の味そのものなんですよね」
貴子は、ここまでの会話で、この家の大体の事情を察した。今、食卓の向こうで微笑む少年は、両親健在で裕福な家庭に生まれ育った自分では、到底想像の出来ない様な、あらゆる苦労を経験して来た筈だ。だから、こんなにも温かく他人に笑顔を向けられるのだ。そう思うと、男に振られたくらいで暗い顔をしていた自分が、とても幼く感じられた。
「でも、単純な料理だからこそ、レシピ通りに作っても、素材の具合で簡単に味が変わってしまう。だから、いつも同じ味を出す為に厳選するんです。特に、リンゴは。甘みも酸味も、リンゴがサラダ全体の味を大きく左右しますから」
「あなたにとっては、ポテトサラダは単なる付け合わせじゃない。大切なお料理の一つなのね」
「ええ。あ、済みません。僕ばかり話を……」
「良いの。素敵な話だと思う。でも、リンゴを厳選するなら、残りのリンゴはどうなるの?」
ふと、選に漏れたリンゴの行方が気になった。出来損ないのリンゴは、捨てられてしまうのだろうか。
「大丈夫。捨てたりなんて勿体無い事はしません。たまたま、ウチのポテトサラダの味に適さないと言うだけで、そのまま食べて美味しいリンゴ、デミソースやカレーに使えるリンゴ、お菓子に使えるリンゴだって有ります」
楽しそうに語る彼の姿は、大人びて見えたり、無邪気に見えたり、見ていて、自然と頬が緩む。
「それに、形が悪かったり、仮に、どこか一部が傷んでいるリンゴだって、林檎酢にしたり、ジャムにしたりすれば、自分達で食べられます」
ああ、リンゴの行方が気になった訳が解った。リンゴは私なんだ。男と言う料理の味を引き立てる為にと手に取られ、少しばかり身を削られたかと思うと、結局使い切られずに捨てられるリンゴ。
それに気付いた時、貴子の目からは涙が溢れていた。とめど無く、ぼろぼろと。
「あ、済みません!僕、何か変な事を言いましたか!?」
「いいえ、違うの。そうじゃないの」
辺り構わずおいおいと、堰を切った様に、自分の歳も憚らず泣き続けた。
まったく、もう、“ドーテー”の男は鈍いんだから。
廊下の外で二人の話に聞き耳を立てていた珠樹は、呆れた様に呟きつつもどこか満足げな顔で、布団に戻る事にした。
「でも、成功……だよね、ふふっ」