第三話 軽やかなリンゴ
「課長殿、今日は打ち合わせにご同行頂き、有り難う御座います」
得意先の社屋ビルを出たところで、亜佐美が敬礼して見せた。
「いいえ、私の方こそ同行出来て良かったわ。あの頭の固そうな担当者達をプレゼンの場にまで引っ張り出せたのは、あなたの人柄に依るところが大きいわね。私も勉強になった」
貴子の言葉を聞き、亜佐美はぴたりと足を止めて固まってしまった。
「貴子が他人を褒めるなんてっ。やっぱり、今日の貴子おかしいっ」
「あんたね、私を何だと思っているのっ? 冬のボーナスきちんと評価されていたでしょ! 来年の査定、覚えておきなさいよ」
「きゃ――っ、スミマセン、課長殿ぉっ」
言い返しはしたものの、確かに変なのかも知れない。大きなプレゼンを前にしても動じない自分が、今日は、やけにそわそわしている。そう、貴子自身そんな事には気付いていた。
「じゃ、ここいらでお昼ご飯を食べてから社に戻りませんか? 課長殿のおごりで」
餌をねだる飼い猫の様に、亜佐美が貴子に身を寄せて甘える。
「ごめん。私、お弁当を買って行くつもりだから」
亜佐美の提案を一蹴する貴子。
「じゃ、私もお弁当で良い。私の分も買って」
粘る亜佐美。そして、もうひと押しとばかりに続ける。
「お弁当なら、この近くでおすすめのお弁当屋さんが有るのよ」
「だ、駄目よっ。今日は、買う場所も決めているの」
貴子も必死の応戦。
「ちぇっ、しゃぁないなぁ。良いわよ。貴子の行きたいお弁当屋さんで」
応戦虚しく、墓穴を掘っての決着。まさか、この女がついて来る事になるとは……。
駅前通りの弁当屋は、昼食時特有の賑わいを見せていた。店先から歩道に並ぶ客達は、スーツ姿の人、事務員風の制服にカーディガンを羽織った人、作業着姿の人など、場所柄ビジネスパーソンが多い様だ。
「何だぁ。貴子もここに来たかったのかぁ。美味しいわよねぇ、ここのお弁当――――そして、店のお兄さんも、大変美味しそうで」
いやらしい目つきでつぶやく亜佐美。
「え?」
瞬間、貴子の背筋に悪寒が走った。
まさか……ね。
レジカウンターの役を兼ねたガラスケースの中には急ぎの客向けに作り置きされた弁当も有るが、調理をして、レジを打って、手洗いをして、また調理をしてと、店内の人物は忙しそうにその全てを一人でこなしている。
「いらっしゃいませっ。何になさいますか?」
客の列が貴子達の番になった時、空色のエプロンをした少年が、ガラスケースの向こうから声を掛けた。
「あれっ、亜佐美さん。昼にいらっしゃるのは珍しいですね。じゃぁ、いつもと違うメニューが良いですかね?」
手を拭きながら、いそいそとガラスケースの際まで出て来ると、慣れた声で亜佐美に尋ねた。
「いいえ、良いのよ。私はいつものヤツで。それより、妹さんは元気?」
「ええ、元気にしています。この前も、「頂き物をした」って、とても喜んでいました。いつも気に掛けて頂いて、有り難う御座います」
「ああ、マドンナのベストね。良いの良いの、気にしないで。私が聴かなくなったCDをあげただけだから。中古で悪いけど」
貴子の中で、何かが音を立てて崩れた。亜佐美は常連で、仲良さ気に店の少年と話をしている。しかも、彼には妹が居て、そこの関係もバッチリ。まさにこれは、亜佐美が得意とする、外堀を埋めて行く恋愛戦術だ。
「全部持って行かれた」。そんな言葉が似つかわしい心境である。
「こちらのお客様は何に――あれ? あなたは昨晩の……」
ああ、私はこの声に救われたんだ。
あんな酷い顔を見せた相手だと思うと、何だか気恥ずかしくて顔を見られない。
――――あれ?
「全部持って行かれた」、「気恥ずかしい」。そんな感情が湧く事に、ふと、違和感を覚えた。それはまるで……。
何も言わず、動きが固まっている貴子の脇を、亜佐美が肘で小突いた。
「ちょっと、貴子はお弁当何にするの?」
「へ? あ、あの……」
正直、会えるとは思っていなかったと言う部分も有る。
昨晩の印象通り、彼が高校生くらいなら、夜はアルバイトなり家業を手伝っているなりにしろ、昼間は学校に行っているだろうと考えていたからだ。
でも、早く来てみたかった。もしも、その理由が“そういう事”なのであれば、自分はあまりにも大人げ無い。
「あ、あの、これっ、有り難う御座いました。タオルは昨日直ぐに洗ったんだけれど、まだ乾いていなくて、また、持って来ますから……」
貴子は、かばんから取り出した折り畳み傘を慌てて少年の手の上に乗せると、くるりと背を向けて、そのまま弁当を注文した。
「わ、わたしにはそのチーズハンバーグのお弁当を一つ……下さい」
やけに落ち着きの無い、貴子らしからぬ様子に、亜佐美は事情を察した。
はぁ、そう言う事か。この見栄っ張りがっ。まったく、こいつは乙女かっての。……ん?でも、これはチャンスかも。どういういきさつでかは知らないけれど、昨夜の雨で、貴子はこの店の少年から傘を借りた。それを返すんで、一人で来たかった訳だ。
「悪いっ、貴子! ちょっと、アレが始まっちゃったみたいっ。食欲無くなったから昼要らないわ」
貴子が、突然、先に社に帰ると言い出した。
「ごめん、勇樹君! また買いに来るわね。それから、いつかお姉さんとデートに行きましょうねぇ――――」
まるで、ドップラー効果が生じているのではないかと思える余韻を語尾に残して、亜佐美はそそくさと走って行ってしまった。
「あの、タカコさんとおっしゃるんですね。まさか、亜佐美さんと同じご職場の方だとは」
貴子の弁当を用意しながら、はにかんだ笑顔を見せる。
「え? あ、ええ。亜佐美とは同期でね、同じ部署で働いているの。えっと、あなたは……」
「僕は、勇樹って言います――あ、いけない。名札を忘れていました」
こんなところにも調子の悪さの影響が出ていた。滅多に付け忘れない名札がエプロンのポケットに入りっぱなしであった。
「はい、デミチーズバーグ弁当です。お代は結構ですから。傘を届けて頂いたお礼です」
ガサガサとビニールの手提げ袋に入った弁当を、両手を添えて優しく貴子の前に差し出した。
「えっ? ちょっ、そんなの困ります。それじゃ、話があべこべに……」
むしろ、タオルを返しに来る時に何か礼になる遣い物を持参しようと思っていたのに、これではばつが悪い。
「くすっ……律儀なんですね。では、お口に合う様でしたら、またいらして下さい。それが作り手の喜びですから」
勇樹の笑顔に押し切られて、貴子は弁当を受け取る。袋に添えられた互いの指が軽く触れた時、自身も驚く様な問いが、口を飛び出した。
「ねえ、行く事有るの?」
貴子の問いに、勇樹は一瞬不思議そうな顔をしたが、直ぐに、先程の亜佐美の言葉の事だと分かったらしい。
「デートの事ですか? 無いですよ。彼女はウチの妹を凄く気に掛けて下さるんですけれど、それだけで。よく、あんな風におっしゃるんで、きっと、御冗談か口癖ですよ。僕みたいなのが相手にされる訳有りませんから」
まるで気に留めていない風に笑って答える勇樹に、貴子は言い知れない安堵感を感じた。
結局、勇樹に貰った弁当を片手に、社に戻る貴子。決まりの悪い思いはしたが、反して、ヒールを運ぶ音が軽やかになっている自分が、何だか可笑しかった。