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第二話 噂のリンゴ

 翌朝。

 見上げると、寒空にそびえる十階建ての自社屋は、マジックミラー状の窓ガラスが陽光を反射して、きらきらと輝いていた。都内ではいざ知らず、この首都圏の県庁所在地に在っては、割と目を引く大きさだ。こんな会社で働ける事を、入社以来誇りとしてきたが、今朝ばかりは気が重い。社内恋愛と言うものは、時としてこういう心境にさせるからいけない。

「仕方ない。頑張るか」

 ぱしぱしと、自分の両の頬を軽く叩いて奮起すると、社屋に入って行った。

 とは言え、少し鼻がぐずる気はするものの、どうにか無事出社出来た。有り難い事だ。あのタオルのおかげで、辛うじて風邪をひかないで済んだのではないかと思う。どんなに周囲が自分を『鉄人』と評しようとも、冬の夜空の下、あれだけ雨に打たれていれば、体調を崩して然りだ。

「ちょっと、貴子っ。佐野さんと別れたんだって!?」

 開口一番、「おはよう」でもなく、癪に障る発言を浴びせて来たのは、同期で部下の亜佐美であった。

「まったく……どこから聞き付けたの?」

 自分の職場が在る階のエレベーターホール。長椅子脇の自動販売機で、温かいココアの缶を取り上げながら、質問に質問で答えた。

「どこからも何も、佐野さんが高山専務のお嬢さんとの結婚が決まったって自慢してまわっているもの。もう、このフロアじゃ知らない人は居ないって感じ」

 あんにゃろっ、どれだけ私に恥をかかせれば気が済むのよ。貴子は、さっさと朝礼を済ませて、一秒でも早く外回りに出たい衝動に駆られた。

「次こそはあんたのあげまんの恩恵に預かろうって男性社員の皆様が、鼻息を荒くしていらっしゃるわよぉん」

 亜佐美は、貴子の肩を引いて長椅子に座る様促すと、特等席とばかりに、自分もその横へ腰を下ろした。

「でさ、今度は誰にするの? フリーになった貴子なら、今いるオンナと別れてでも付き合いたいってなもんで、将来有望なオトコが選り取り見取りよね」

 茶色いボブカットの髪を揺らしながら指でピストルの形を作って、おどけて見せる亜佐美。

 よせと言うのに度々着て来る辛子色のスーツ。シルエットこそビジネススーツの体裁を持っているが、派手な色で営業には不向きだ。

 そんな姿とあいまって、神経を逆撫でされる事この上無い。

「知らないわよ。あげまんの『まん』を女性器の事だと勘違いしている様な下品な男達は、こっちから願い下げよ」

「おやおや、樋口貴子営業課長殿は、大変ご機嫌斜めでいらっしゃる」

「うるさいっ。ほら、朝礼始めるわよっ」

 貴子は、ぐいとココアを飲み干すと、分別箱に空き缶を投げ込み、身なりを整えながらソファーを立った。

「……ん?ねえ、その青い傘、珍しくない? 赤好きの貴子にしては」

 貴子の赤いバッグには似つかわしくない、浮いた雰囲気の折り畳み傘を目ざとく指摘する亜佐美。

「え?あ、これね……そう、これ、と――っても『イイオトコ』が貸してくれたものなの。今日返しに行くのよ」

 また、こうして意地とも見栄とも言える垣根を作ってしまう。

「ふうん、イイオトコねぇ。早くも次が決まってる訳だ」

 何と無く気まずい感じがして、傘を胸元に抱え込んで背を向ける。

 途端、あの少年の顔が脳裏に浮かんだ。イイオトコ……確かに整った顔立ちで、俗っぽい言い方をすれば『美少年』であった。加えてあの優しげな表情。

 そんな事が一瞬の内に思い起こされると、急に顔が火照って来た。言うに事欠いて「イイオトコ」とは。まるで、一言二言、言葉を交わしただけの、しかも、あんなに若い男子を、性愛の対象として見ている様な言い方だ。

 あからさまにいぶかしがる亜佐美。彼女もまた、思索を巡らせた。

 その『イイオトコ』が貸してくれたのが、そこいらのスーパーマーケットで買えそうな安っぽい傘か? いつもレベル高めの男とばかり付き合って来た貴子が?しかも、『とてもイイオトコ』とは……。

 貴子は、これ以上は追及されたくない。否定も肯定もせず、伏し目がちにオフィスへ歩みを進めた。

 亜佐美の異性関係についての目ざとさは、日頃から疎ましく感じていたが、或る意味、今朝ばかりは少し感謝した。この傘の事を思い返すと、ひとしきり嫌な事を忘れられ、ココアよりも余程に温かな心持ちになれたのだから。


 同じ頃。

 勇樹ゆうきは、朝から仕事に集中出来ず我ながら辟易していた。別に、手を抜いている訳ではなない。ただ、普段の自分に比べて手際が悪い。リズムに乗れないとも表現出来るかも知れない。作業自体は進行しているのに、得体の知れないフラストレーションを抱え続けているのだ。

「じゃ、お兄ちゃん、ちょっと遅くなっちゃったけれど、私、学校に行くから」

 スリッパの音をパタパタと立てながら階段を下りて来たランドセル姿の少女が、調理場の勇樹に声を掛けた。六つ年下の妹、珠樹たまきだ。

「うん、こんな時間まで手伝わせて悪かった。気を付けて行っておいで」

 珠樹は、ぱっと電灯を灯した様な笑顔を見せると、ポニーテールと首に巻いたマフラーを翻して、外へ飛び出して行った。ところが、次の瞬間再び調理場の方へ戻って来た。

「ん、何か忘れ物かい?」

 芯を除きかけたリンゴと包丁をまな板の上に置いて、妹の方へと向き直った。

「ううん。お兄ちゃん、今日、ちょっと元気無いからさ、置いて行って平気かなって」

「生意気言ってないで、早く学校行けっ」

 けらけらと笑いながら、改めて学校へ出かけて行った妹を見送ると、自然と溜め息がこぼれる。

 本当に、今日はどうも調子が出ないな。何でだろう?

 ハンバーグやら魚やらフライやら、後は焼くだけ揚げるだけに、取り敢えず、昼の営業に間に合うだけの弁当の具材を支度し終えると、頭上で手を組んで身体を伸ばしてみるが、やはりすっきりしない。食用油の香ばしさを肺いっぱいに吸い込んだだけだ。

 勇樹は、通信制の高校に籍を置きながら、妹の珠樹と二人で弁当屋を営んでいる。元々は、シングルマザーの母が総菜屋を兼ねて経営していた弁当屋だが、その母が常連客の男と突然逃げたのは一年程前の事。勇樹の十七歳の誕生日を祝った翌日であった。

 幸い、食品衛生責任者の資格を取得出来る年齢に達していたので、こうして、子供達だけで店を続ける事が出来た。いや、それを見計らって出て行ったのなら、随分と計画的に子供を捨てたものだ。はたまた、最後の親心か。

 どちらにしても、それ以来、勇樹が珠樹の父となり母となり、他人に甘える事無くこうして暮らして来たのである。

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