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第一話 手放されるリンゴ

 貴子たかこは、目の前の男に告げられた言葉の意味が、直ぐには理解出来なかった。

「もう、貴子との関係は終わりにする。専務のお嬢さんとの縁談が持ち上がっているんだ」

 能面の様に表情を強張らせた貴子の様子を見て、男は続けた。

「何だよ?もっと喜んでくれると思ったのに」

 はっとして、表情を繕った。

「え、ええ、嬉しいわ。これで、やっと、あなたも一人前の男になって、私を卒業して行ける訳ね」

 自分でも分かる。目元、口元が引きつっている。直したばかりの化粧が、剥がれ落ちそうな程に、激しく痙攣しているのではないだろうか。深夜とは言え、煌々と自己主張する看板の明かり達が見逃してくれるとは思えない。

「貴子が支えてくれたおかげで、こうして俺にも出世への道が開いたんだ。本当に有り難う。やっぱり、君はあげまんだな。俺にとって女神だった」

 男は満面の笑みで礼を言うと、身を翻して繁華街の雑踏の中へと消えて行った。

 つい、ほんの数十分前まで、あんなにも熱っぽく肌を重ね、甘い声で囁き合った二人に訪れた、突然の別れ。三十路に達してはや三年。よもや、ホテルの前で捨てられるとは。

 一つ年下の彼に散々あねさん風を吹かせて、「私があなたを男にしてあげる」などとのたまって来た貴子には、離れて行く男に泣いてすがる事は出来もしなかった。

 呆然と立ち尽くす身に、冷たいしずくが降り注ぎ始めた。さながら、素直になれない彼女の心情を代弁するかの様である。

 脇道から覗く一本向こうの通りは駅前で、この時間帯でも賑やかだ。布やビニールの大輪が、色とりどりに咲き乱れている。

 ああ、夜半から雨って言っていたっけ……。

 人の幸福感と孤独感と言うのは、こうも簡単に転換するものか。

「駄目だ……死にたい」

 タイトに着こなしたグレーのスーツが、みるみる、黒く、重たくなってゆく。艶やかで長い髪も、ぺたりとすっかりボリュームを無くしている。

 ファッションモデルの様な頭身と抑揚の効いたグラマラスさ、それでいて、容姿に負けないだけの仕事振りを見せる、いわゆる『出来る女』。それが、貴子に対するもっぱらの評価だ。

 最近では、彼女と交際した男――つまり、彼女を抱く男は、出世すると言う風評も付き纏う様になった。これは貴子の本意でないが、どうも、貴子が惹かれるのは出世欲旺盛な男で、結果的に社内恋愛に至る率が高い。得てして、そう言う男達は虚飾性も強く、貴子程の良い女を抱けた事を自慢したがるのである。

 一種、そう言ったはずかしめに耐えて来られたのは、一途に相手を愛するからこそであった。

 慈善事業のつもりで好んで男の踏み台になっている訳ではない。普通に、一人の女として愛し、愛されたいだけ。自分が愛した男だけは、そんな、自分の一途さを理解してくれていると信じて、いや、そう思い込んでは裏切られる。自覚しつつもいかんともし難い悪癖である。

「はぁ……早く行かないと終電無くなっちゃうわね」

 もう、何もかもどうでも良い様な気がするのに、濡れ鼠のままで居るのも耐え難い。臙脂えんじ色のブラウスが肌にまつわり付いてブラジャーの形がくっきりと透けているのも恥ずかしい。咄嗟に上着の襟元を掴んで、胸元を覆う様にして寄せた。

 仕方が無い。ふらりと、生気の無い足取りで駅へと向かい始めた。

「お姉さんっ。大丈夫!?」

 表の通りに出たところで、呼び止める男の声が背後から聞こえた。

「この寒いのに、女の人が雨で身体を冷やすなんて」

 そんなに残念そうな声で言われたくない。益々惨めな気分になる。

 普段なら、街で声を掛けられてもあしらい慣れたものだが、今は雨に濡れて酷い顔をしている。人波は汚い物でも見る様に避けて行くのに、態々(わざわざ)声を掛けて来た男が居るのだ。

 弱みに付け込む腹積もりなら、それも良い。今の自分なら、ゆきずりの男に抱かれる事すらも、一人で居るより幾分ましかも知れない。

 男は貴子の手首を掴み引っ張って行く。

 馬鹿な女はこうして堕ちて行くのだと悟った。

 だが、どこへ連れて行かれるのかと思えば、何の事は無い。脇に在った、シャッターの下りた商店の軒下である。

「ちょっと、待っててっ。ウチすぐそこだから、何か拭く物を――」

 振り向く間にその男は走り去り、そうかと思えば、ほんの一分か二分で今度は走って来た。呆気にとられてしまい、素直に待っていてしまった。

「はいっ、これを使って下さい。お節介だったら、どこか、その辺に置いて行ってくれて良いですから」

 そう言いながら、ふかふかの白いタオルと、空色をした折り畳み傘を手渡して、また、走り去ろうとした。

「ちょっと、待ってっ!」

 思わず掴んだ腕は華奢で、初めて視線を合わせたその人物は、男と言うよりも少年と言う言葉の方がしっくりと来る感じがした。傘と似た色をしたエプロンをして、バンダナで髪を覆っている。

 高校生くらいだろうか。こんな若者を相手に、一瞬でも「いっそ、寂しさを紛らす相手に」と考えた自分は滑稽だ。弱みに付け込まれるどころか、相手にもされないだろう。

「あ、あの、有り難う。必ず返しに来るから……」

 寒さに震える声を搾り出して、ゆっくりとそう告げた。

「えっと、それなら、ウチはそこの角の弁当屋です。本当に、いつでも良いですから」

 貴子は、毒気の無い少年の瞳に、吸い込まれそうになった。無表情でもなく、笑みでもない、ただ、慈しみの眼差しが向けられている。

 ひとしきり見詰め合うと、また、少年は走り去ってしまった。

 雨が、街のすえた臭いと汚れを洗い流して、彼の後姿だけを神聖な宗教画の如く讃えた。

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