25 アドリアの王子様
「アドリア様、お気を確かに!」
「……大丈夫よ……」
退場中のアドリアは自分の足で立ってはいたがメイドに支えられなければ真っ直ぐ歩けそうになかった。
体中傷つき、特に右腕は折れている。
(痛い……)
腕は挙げることもできなかった。
折れた腕で技を使ったせいで、骨が肉を傷つけて大量に内出血していた。
心が乱れる。
アドリアは公爵家の令嬢として感情をコントロールする技術を教え込まれていたが、負傷の苦痛と失血のために普段は心の底にしまい込んでいる様々な感情が溢れ出してくるのを抑えきれずにいた。
不安、悲しみ、孤独、恐怖、罪悪感、そして怒り──。
そう、アドリアはずっと怒っていた。
王国のくだらないしきたりに怒っていた。
この大会に怒っていた。
出場者たちにも怒っていた。
金のため、地位のため、名誉のため、自分のため。
あるいは、家族のため、主人のため、家のため、誰かのため。
そこにあるのは自分と自分を取り巻く人々の都合ばかりで──
(アルス様の気持ちを考えている人はいないじゃない!)
「殿下、こちらが私の娘、アドリアでございます」
五歳のアドリアはその日父に連れられて王城にいた。
アドリアは年が近いからということでアルス王子と引き合わされたのだ。
「アドリア、殿下にご挨拶を」
「は、初めてお目にかかります。カルミール公爵家の一子、アドリアでございます……」
「ルース王太子の長子、アルスだよ。よろしくね」
その五月の朝の薔薇園で半年だけ年長の王子はキラキラ輝いて、眩しさのあまりアドリアは彼をまっすぐ見つめることができなかった。
後になってからちゃんとレディらしく振舞えたかしら、変わった子だと思われなかったかしらなどと心配になったものだ。
初めて出会ったときからずっと、王子はアドリアの特別だった。
それからのアドリアは城に上がるたびに王子と二人きりの友人として過ごした。
二人の周りに年の近い子供は大勢いても身分の近しい子供はいなかったからだ。
歴史学や経営学については同じ教師について学んだくらいだ。
王子様はいつだって素敵で彼女だけに優しくて、アドリアは登城する日を楽しみに待つようになった。
五歳のアドリアには知る由もなかったが、八歳の時に王子は大会優勝者と結婚する決まりだと教えてもらった。
生まれて来た意味を知ったと思った。
(きっとあの方の妃になってみせる)
元々努力家だったアドリアはそう決意した日から人の二倍も努力するようになった。
成長するにつれて王子は人から侮られることが多くなった。
武力が伸びなかったためだ。
顔が良すぎることへの嫉妬もあっただろう。
「アルス王子は何とも弱くていらっしゃる」
「顔はいいけど、それだけが取り柄ではねえ」
噂を耳に挟むたび義憤に駆られた。
(殿下のことなんて何もしらないくせに、勝手なことを……!)
王子は弱さからも努力からも逃げたことはない。
ただ結果が追い付かないだけだ。
努力と結果とは必ず結びつくわけではない。
実際、学問の方は逆にアドリアがどんなに努力しても全然ついていけなくなっているのだから。
ならば強さの方は私がアルス様を支えて見せる、そう決意したアドリアは人の三倍も努力を重ねた。
自分が王妃になって、誰にも文句は言わせない。
決意が骨格となってアドリアを形作った。
十六歳の時、その王子に言われた。
「君は選考会には出てはいけないよ」
視界が暗転した。
足元が揺れる。
自分を支えていた世界が揺らぐ。
「ど、どうして、ですか……?」
「君は公爵家の一人娘なのだから。家に残って跡を継ぐのが務めだよ」
確かに理屈の上ではその通りだ。
現公爵である父にも以前から同じことを言われていた。
選考会に出場することもかなり反対されたくらいだ。
でも、正論であるからといって従えば、アドリアのこの気持ちや決意はどこへ行ってしまうのか?
それに、アドリアに公爵家に残れということは、王子にはアドリアと結婚する意志はないということだ。
つまり王子はアドリアのことを何とも思っていない。
そのことが衝撃であり、悲しかった。
しかしそうは言われても、それでも諦めきれずにアドリアは本選の出場資格を得た。
でも王子とは顔を合わせづらくて何となく避けてしまっていた。
一週間前別の用事で城に登ったとき、中庭の端を王子が歩いているのを二階の廊下から見つけた。
王子は奥まった部屋に入った。
そこは使用人しか使わないような城の外れの小部屋で王族が訪れるようなところではない。
(何であんなところに?)
気になったアドリアは用事を後回しにして小部屋へと急いだ。
部屋の前に着くとちょうど使いの者が出て来たので捕まえて問い詰めた。
「あなた、殿下をあんなところへお連れして、どういうつもりかしら?」
アドリアの剣幕に恐れをなした使者は王子が城下の女の子を招いたことをしゃべってしまった。
どうにも気になったアドリアは人目を気にしながら小部屋の外に回った。
盗み聞きは良くないと思いつつ自分を抑えることができなかった。
(我ながらどうかしてるわ……)
窓に近寄り耳をそばだてると王子の声が聞こえてきた。
「僕には心に決めた人がいるんだ」
そこから先のことは何も覚えていない。
気が付くと公爵家に与えられた王城内の控室でソファにもたれかかってメイドたちを心配させていた。
「王太子はトーナメントの覇者を妃とする」というのが建国以来の取り決めだ。
トーナメントの優勝者と結婚しなかった場合王太子は廃嫡され、王位継承権を失う。
しかし、優勝者の方から辞退した場合はどうだろうか?
そのような前例はないが、例えばアドリアが優勝してそのまま行方をくらましてしまえばどうすることもできない。
王子は王太子の身分のまま好きな相手と結婚できるだろう。
(私が優勝して身を引けば、殿下は、心に決めた方と……)
視野狭窄を起こしたアドリアが愛する人にできる唯一の献身がそれだった。
王子のために戦っている者はアドリア(と、少し意味合いは違うがかろうじてメリル)だけだった。
女の意地、それ一点で勝ち上がったアドリアだったが心の底がどうしようもなく冷える。
怒り、不安、悲しみ、孤独、恐怖、罪悪感。
感情がグチャグチャになって溢れ出す。
ああ、してはいけない約束をした。
ごめんなさい、私は殿下と結婚できない。
王子は生まれない。
マリエラとの約束は守れない。
「アディ!」
廊下の向こうから王子が駆け寄ってきた。
いつもアドリアの心を騒がせるあの透明な声が焦りに震えていた。
「君、早く医者を!」
「は、はい!」
王子に医者を連れてくるように言われたメイドは慌てて走っていった。
王子のお付きの衛士もまた席を外した。
大会中の王太子と候補者の接触は規則で禁止されていたが見て見ぬふりをしたのである。
急に抱きしめられた。
(きゃあっ)
初めての抱擁だった。
力強い抱擁、その胸は自分とは違って随分硬い。
心臓が苦しい。
「もうやめてくれ。君が傷つくのを見たくないんだ」
耳元でささやかれて呼吸まで苦しくなってきた。
しかし残念なことに王子はアドリアの息の根が止まってしまう前に開放した。
王子は回復魔法を使おうとして折れた腕を見た。
素人目にも骨がずれている。
王子には元の位置に戻してくっつけるなどという真似はできない、医者でなければ治せない。
仕方なく全身の打ち身と切り傷の方を優先した。
「どうしてこんな姿になってまで……」
王子は震えたままの声で零した。
そんなことを言われても、誰のためにこんなことをしているのか……。
「殿下のためなのです」
「……どういうことだ?」
「だって、あなたが想い人がいらっしゃるっていうから、私が優勝して解放して差し上げようと」
「どうしてそうなるんだ」
激情から言葉が勝手に口をついて出た。
それはアドリア一人の思いの羅列で王子にはさっぱり意味が伝わらなかったのだけれども。
「聞いてしまいましたの……あのメリルという平民に話しているのを……」
「そうか、聞かれてしまったのか。なら仕方ない。アディ、受け入れてくれるね?」
「はい、どうぞお幸せに……」
「ああ。きっと幸せにするよ」
その言葉を聞いてアドリアはついに耐えられなくなって逃げようとした。
今のアドリアの心は悲しみ一色に支配されていた。
「どこへ行くんだ」
逃げようとしてよろけたアドリアを慌てて支えた王子は顔をそむけたアドリアのその顔を無理に覗き込んで、その瞳から大粒の涙がボロボロこぼれているのを見つけてぎょっとした。
「どうして泣いているんだ?」
「……当たり前です!あ、あなたが他の方と、し、幸せ、に……」
「……え?誰だって?」
「だ、だって、心に決めた方がいらっしゃるって、おっしゃって……」
「ああ。だからこうしてここに来たんだ」
「他の方との幸せを私に見せつけようというおつもりですか?どうしてそんな残酷なことをおっしゃるのですか!私のことがそんなにもお嫌いですか!?」
「どうしてそうなるのかさっぱりわからない……。君だよ!」
「え?それはどういう……」
「だから、僕が愛しているのは君なんだ!前から言っているじゃないか!」
「ふぇっ!?」
変な声が出た。
実のところ王子はここ数年というものアドリアと会うたびにそれとなく思いを伝えていたつもりだったのだ。
アルス王子だって共に時を過ごしたアドリアへの思いを年を重ねるごとに募らせていったのは同じだった。
十数年間変わらず王子の味方で居続けてくれたのはアドリアだけだったのだから。
その思いに応えられないようなら自分は人間ではない。
王子のたくらみは立場上口にできる性質のものではなかったが、「僕は君を愛しているんだ、結婚して欲しい」と言外に織り込みまくっていた。
なのでまさか気づいていないとは思ってもみなかった。
確かに普通の相手なら伝わっていただろう。
しかし残念なことにアドリアはおよそ恋愛の機微というものについては人並み外れて鈍かった。
学問や礼儀作法や宮中の人間関係や領地経営やもちろん剣術など学ぶことはいくらでもあった。
学ぶことに忠実で、ひたすら優等生で過ごしてきたアドリアに恋愛にかまけている暇はなかった。
その情緒は子供並みで、秘かに王子を想い続けていることを(我ながら、大胆……)などと思っているほど幼かった。
そこは普通の令嬢なら五年も前に通り過ぎている地点だったのに。
アドリアは恋の風聞飛び交う社交界に身を置いていながら誰が誰を好きだとか全然わからないし、たまに気づいても「何でも恋愛に絡めて考えるのはよくないわ」などと正解を放り投げてしまうほどずれていた。
実際のところ若くて強くて美しくて身分の高いアドリアはかなり大勢からアプローチされていたのだが、貴族らしい遠回しな修辞は全然通じていないのだった。
周囲も万事につけて完璧なアドリアがこと恋愛に関してだけは小学生以下のポンコツだなどとは夢にも思ってみなかったので「上手にかわしていらっしゃるわね」などと勘違いしていて、アドリアの鈍感はついに是正される機会がなかった。
「愛しているんだアディ、選考なんてどうでもいい、僕は君がいいんだ!」
「はひっ?」
頭の中がグルグル回って考えがさっぱりまとまらない。
骨折の痛みもどこかに飛んで行ってしまった。
王位継承権は様々な思惑やしがらみの上に成り立っている。
王太子が自分一人の考えで返上したいと言ったところで「はいそうですか」ということにはならない。
ただし、たった一度だけ王太子自身の意志で返上するチャンスがある。
王太子妃選考会である。
建国以来の取り決め、王太子はトーナメントの覇者を妃とする。
トーナメントの覇者と結婚しなかった場合王位継承権を失う。
優勝者を拒否すれば王太子の地位は第二王子に移り、アルス王子は晴れてフリーとなる。
しかし王太子を降りたと言っても帝王教育を受けた王族である。
高位の貴族でアルス王子を婿として欲しがるところはあるだろう。
その筆頭がカルミール公爵家だ。
何しろこの巨大な家には現在のところたった一人の跡取り娘しかいないのだから。
公爵が後のことを非常に心配しているのを王子は知っていた。
アルス王子の計画は公言できることではなかったが、公爵にはさかんにほのめかしてあった。
そして公爵の方もかなりその気になっていた。
さらについ先日王子は最後のピースを手に入れた。
出れば絶対に優勝するが王子とは結婚しないある理由を持つ少女を。
彼女であれば双方円満に結婚を断ることができ、王子は支障なく王太子を降りることができる。
だからアドリアがトーナメントに出なければ二人はむしろスムーズに結婚できた。
このような王子の説明を聞いて、混乱の中理解力が最低水準を下回ったアドリアも何とか彼の計画を把握した。
それでもアドリアは当初の目的について口にした。
「で、でも、あなたは王にならないと……」
「玉座よりも君がいい」
全てが報われた気がした。
「王太子でなくても僕と結婚してくれますか?」
「……はい」
アドリアが承知すると王子はもう一度彼女を抱きしめた。
相変わらず心臓は苦しかったけれど今度はアドリアもそっと腕を王子の背中に回した。
右腕は上がらなかったので左腕だけだけれど。
アドリアの瞳に浮かんでいるのは今度は喜びの涙だった。
王子がまた耳元でささやいた。
「その上でお願いだ、棄権してくれ。あれには誰も勝てない」
「あれとは?」
「メリルだ。見た瞬間にわかった、彼女は人間じゃない」
そして自分たちの世界に完全に没入していた二人は次の入場者とセコンドが隠れて覗いていたことに気づかなかった。
「見ちゃった」
公爵令嬢「ちなみにどの辺りが人間ではありませんの?」
王子「いやいくらファンタジーだからってこの話の世界観で竜の突進を受け止められる人間なんているわけないだろう、常識的に考えて」
クソボケ令嬢「それは、確かに……」
精霊使い「私、できる」
王子「……。話がややこしくなるからちょっと黙っておいてくれないかな?」
精霊使い「ごめんなさい」




