4:マジ神
口の中に、日本酒の風味が残っている。
数時間前に飲んだ時には激マズだったのに、今は普通の味だ。
あれだけ続いていた頭痛と倦怠感、希死念慮が消えていた。ヤツが潜んだだけだと言われても、今すぐ飛び上がって喜んで、五体投地でお礼を言いたい。
縄が邪魔だな。
――そう、確かに思った。
...瞬間、手足と腰を柱に拘束していた太い麻縄が、発火した。
……え、え!?
封じられたんじゃなかったの!?
「あっちちち、あちあちち……!!」
死ぬ死ぬ、燃えて死ぬ!
とパニックを起こしかけたら、バケツを下げた巫女さんが駆け寄ってきて、中身を俺に向かってぶちまけてくれた。
水は塩水だったようで、塩辛い。
が、今回は全く辛くないし、何より有り難い!
「ありがとうございます!
あぁ、驚いた...」
柱の後ろに隠れて、襲い来る塩水から身を守った青年が出てきて苦笑した。
「今のは君がやったんだよ。自覚は無いと思うけど」
「―――へ?」
「今までも、ヤツが表層に出たり、暴れるのを無意識に抑え込んでいたんだ。
それで覚えた力の使い方が、溢れでただけ」
そんな事を言われても…俺、ライターやマッチ以外での火の付け方なんて知らないし...と困惑していたら、畳の上でゼハゼハと息をついていた宮司さんが顔を上げた。
「室内の物の位置が変わっているだろう?
軽食を食べて君が昼寝をした後、湊さんが少し君の霊能力を抑えたんだ。
それだけで――この場のあらゆる物が、浮き上がったよ」
その言葉に、うんうんと頷く周囲の人たち。
ただでさえ俺のせいでゼーハーしているのに、信じないわけにはいかない。
「すっ、すみません...!
まじでごめんなさい…」
「あ、いやいや、全く責めている訳じゃないんだよ?
君は無意識に、凄いことを行っていたんだと理解してほしかったんだ」
またもやウンウンと周りに同調される。
うむむ...ど、どうしろというのか……
固まってしまった俺を落ち着かせるように、湊さんがゆっくりと、焦げた縄を切ってくれた。
「しばらくの間は体調も安定するだろうから、少し休むといい。感情が昂ぶると、先程のように発火現象を起こしたりするかもしれない」
「ひょえぇぇ...」
「五峯ちゃん、燃えたらまた頼むねー」
「う…私、そろそろシフト上がりなんですけど...」
「特別手当出しちゃうから」
「わかりました」
燃えても五峯さんがすぐに鎮火してくれるかと思うと、妙な安心感を覚える。
そういや水鉄砲、中々な命中力だったよな。スナイパー巫女さんか。格好良いな。
地味に、他の人たちみたいに疲れ切ってもいないし。
ひょっとして、凄い人?
尊敬の眼差しで五峯さんを見ていると、視線に気付いた彼女が首を傾げ、あぁ…と頷いた。
「私は他の方たちのように霊能力も無いので、お祓いのお手伝いができなかったんですよ。
霊感も強くないので、あてられませんし...」
なるほど、と納得しそうになったが、すぐさまその言葉は否定された。
「違うよー、霊感が薄いのは本当だけど、彼女は身を守る霊能力は強いよ? だからあてられないんだ」
「...へ?」
今度の台詞は当然、俺ではない。
「恐ろしいから近寄りたくないだけで、近づけるでしょ?
実際、同じ空間に居たのに、君だけピンピンしてるし」
湊さんは例外枠なのか。
その例外は黒い甚平に着替え、白い羽織を羽織っている。
例外氏は、視線を感じたのかくるりと振り向いた。
「一番並外れているのは矢束くんだよ。
憑かれている本人なのに、これだけ元気に生きている。
普通の人だったら、とっくに死んでるところ」
ゴキブリ並みの、人外レベルの生命力だよ…ということか。
お墨付きを頂いてしまった。
何よりも嬉しい褒め言葉だな。
ゴキブリ居ないかな...と、ふと拝殿の隅や柱の影に目を泳がせる。
間髪入れずに、
「例えるなら、クマムシみたいな生命力かな」
湊さんからフォローが…
霊能力者とは、なんて恐ろしいお人なのだ。
超能力者の間違いだろう!
と戦慄している玲史は、彼の顔に思考がそのまま羅列されていることを知らない。
◇
あの後、グッタリと消耗してしまった神職さん達やお坊さんたちにペコペコ頭を下げて介抱しつつ、畳に染み込みかけた塩水溜まりを急いで拭き取り、俺が下ろしてしまったらしい額縁を出来るだけ元の位置に戻した。
健康って素晴らしい。
身体に不調が感じられないことの、なんと尊いことか。
失って初めて気付くものだな。
...また失いかけること確定なのが辛いぜ。
お祓いは、失敗に終わったらしい。
最初から予想されていたことだったそうだが、俺に取り憑いた霊体が余りにも強力なためだ。
現在は一時的に、隙を作って引っ張り出した相手の力を削いで封じ込めているだけだという。
このままでは俺、近いうちに死ぬんだと。
霊感は0のくせに「霊能力」とやらだけはたっぷりあったらしく、ここ二日間ほどは無意識に全力でもって使用し、ヤツを抑え込んでいたらしい。
思えば昔から、勘だけは良かったからな。
オバケを見たことも、変な体験をしたことも一度も無いけれども。
だが、そのパワーも無限ではない。
やがて尽き次第、自動的に使用エネルギーが「生命力」へと移行し…それも尽きて、死ぬ、と。
ヤツを俺の奥の方に押しやったことで、霊能力の消費はグンと減ったそうだ。今だけな。
だから少しだけ余命が延びたと言われたが……
良いわけないっしょ!
まだ死にたくねぇわ、せめてあと30年くらいは...
「人間50年〜〜」とか歌って踊って燃え尽きたいぜ!
そう、誰にともなく訴えたら、「おっけー」と軽く返答がきた。
軽っ! そして誰!?
キョロキョロすると、いつのまにか黒いジャージ姿のおじさんが拝殿の入り口に立っていた。その声を発した彼はヒョイと片手を挙げ、会釈する。
「どうも、湊と申します。倅に一足先に到着されて、出遅れた父です」
あ、名字だったんだな。
「こ、こんにちは。矢束 玲史です。
あの…「オッケー」とは...」
問いかけつつ、辺りが静かになっている事に気づいた。
それなりにガヤガヤしていた室内が、静まっている。
皆が、憚るようにしながらも珍獣を見るような目で湊父にそっと注目していた。
「彼があの...」
「夜にならないと外に出ないという説は……?」
「本当にジャージを着ている」
「太陽光に当たると焦げると聞いたが」
珍獣というより、レアモンスターか?
そのジャージモンスターは、チッチッ…と指を振った。
「違います。昼間はあまり外出しないだけで、私自身は日光に当たっても問題無いのですよ」
噂を訂正するその姿勢が、実に手慣れている。
「父さんも来たの」
「おぉ、要。して、何だった?」
外から拝殿に戻ってきた倅湊ーー要さんは、父の格好を見てやや微妙な表情になりながらも答える。
「おそらく―――蛇神 夜刀神。
人に憑く事例…というか、最近の世に現れた話は聞いたことが無いけど」
「ふむ。その理由は?」
「蛇なのに、通常のヘビの霊体では有り得ない格の高さ。
それと、矢束くん。茨城の山間の祠で憑かれて、それから身体が勝手に死のうとしていたんだよね?」
「そうです」
ジャシンヤトノカミ?
「今まで何人も何人も生贄として、誰にも気付かれないように取り殺していたんだろう。取り込まれた人たちが中に居るから、キリスト式や仏式の祓いも多少は効果があった。
...県外にまで逃亡を許してしまったのも初めてなんじゃないかな。借りてきた猫みたいな雰囲気を感じた」
「なるほど。野に伏し、潜んでいた神が生贄の人選をミスして引っ張り出された、と。
…その推測で、ほぼ間違いないだろう」
...格の高い、猫みたいにシャイな蛇ってことかな。
首を捻っていると、湊父が説明をしてくれた。
「1500年くらい前に、茨城の辺りで「箭括 麻多智」って人に退治されて祀られるようになった、頭に角の生えたヘビの神だよ」
「神!? 神に憑りつかれたんですか、俺!?」
「そうみたいだね」
今、俺の中に神が封じられてんの?
ソイツが、何度も殺そうとしてきて?
…なんで生きてるんだ俺、まさにクマムシ……
せいぜい、山登り好きな、怨みが強く残った若い女性の幽霊(偏見)程度だろうと考えていたぜ。
昨今、「神」という単語は気軽に用いられている。
何かちょっとでも良いと「マジ神」とか…いや、それはいいんだけどな? 近頃のモンは…なんて言う気無いし。
でも、昔うちのバッチャが言ってたぞ。「ヒトとカミは違う。次元が違うんじゃ。人や動物、霊はなんだったら怒らしてもいい、じゃがカミだけは決して怒らすな」って。
どうしてそんな事を言われたかは覚えていないけど。神は勿論、オバケも見えない俺に言われても…怒らせようがないよな、とは思った記憶があるが。
...てことで。
うおぉぉ、マジで神かよーー!!
「矢束くん、君、強いね。本当に人?
よく平気な顔で、爆弾を体内に封印できるねぇ...」
湊父に本気で感心されてしまった。
珍獣に、人かどうか疑われるというこの快挙。
「鈍いのは確かっすね」
「素晴らしい。この界隈では、それは長所だよ」
「父さん、適当なこと言うなよ。ちゃんと修行した人にだけ言えることでしょう、それは」
ハテナを浮かべて首を捻ると、要さんが補足する。
「繊細だと精神をやられる。だから、逆は美点にもなり得るけど…現に今、矢束くんは、自分が霊能力をダダ漏れにしているのを気づかずに、そっと死にかけていた」
「まだまだだなぁ、息子よ」
湊父が畳の上に、ゆるりと腰を下ろす。
なぜか彼の背景に、日本家屋の縁側とお茶のイメージが見えるんだが。
こっ、これが霊能力か!
「鈍いだけが良いとは言っていない。
この子は、死ぬ前にちゃんとお祓いに来た。おそらく、相当嫌だっただろうに。
しかも、霊能力を封じ込めていた井戸の蓋が開き、釣瓶…いや、ポンプも設置された。その上――」
彼は目を細めるようにして、俺の足元を視る。
「井戸の下には、豊潤な水無川が流れていたようだ」
なんだっけ、それ...地下水?
「確かに、今のままでは2週間保たない。何度ソレを封じ直したところで、数日寿命が延びるだけ。
だが、大丈夫。君なら出来るよ」
この表情は。
先生の顔だ。
「普通なら間に合わないけどね、何しろ時間が無いから。
君が「オバケなんて居ない」とか思わずにすぐに助けを求めに来たことと…神に対抗できる程に鈍くて強いのが、幸いした」
周りの人たちも、うむうむと頷いている。
なぜか五峯さんが、今の言葉に流れ弾を食らったかのような表情をしているのが面白い。
「30年後に終焉の舞を舞えるかは保証できないけど、良かったね。
今からでも、死なないための修行が間に合うよ。
―――通常なら不可能だが、君なら可能だ」