38 婚約者の勝ち?
キス注意
フランツ視点→ハインツ視点
フランツはオゼットと共にリドリー侯爵家の馬車に乗り込んだ。まずはオゼットを侯爵邸に届けてから、フランツ自身はそのままリドリー家の馬車で伯爵邸まで送ってもらうことにした。
しかし、オゼットはフランツが侯爵邸に寄らずに帰ることに難色を示した。「風邪を引くといけないから早く身体を温めた方が良い」とそればかりで、侯爵邸の湯殿を使って身体を清めた後、しばらく休むべきだと言った。
着替えもこちらで用意するし、必要なら泊まって行けば良いとも言った。
その提案にフランツは首を横に振った。
「まだ俺たちは婚約してそれほど経っていないのだから、周囲に誤解を招く行為は控えるべきだと思う」
「なぜですの?」
遠回しなお誘いに遠回しに断りを入れたつもりだったが、いつもおっとりとしている印象が強いはずのオゼットは、フランツの回答に異議を突き付けるような鋭い言葉を投げた。
「私たちは婚約者ですのよ? 結婚前に互いの家に宿泊した程度で、非難される謂れは全くございません。
むしろ、まだ関係を持っていないのかと、お姉様たちには驚かれていますわ。
獣人の被害に遭わないためにも、早く関係を結んだ方が良いと言われていますし、私自身もそう思っています」
フランツとオゼットは清いままだ。口付けすらしていない。
婚約を結んで以降、男女の関係になりそうになるたびに、フランツは何度もはぐらかして回避し続けてきた。
しかし今回、直接的ではないにしろオゼットの口から「関係を結びたい」的なことを言われたのは初めてだった。
フランツとて、このままオゼットと結婚するつもりだったから、いずれは彼女をそうなることも「折り込み済み」なつもりではあった。
しかし、そこには愛がなければいけない、というのが、「娼館」という一般的な貴族から見れば特殊な環境で育った自分なりの答えだった。
たとえ婚約者だろうが、結婚後だろうが、愛がなければ行為はしたくない。
フランツは、オゼットとの関係性が熟して彼女を愛せるようになるまでは関係するつもりはないし、正直に言えばそこに辿り着くまでに、もっともっと時間をかけたいと思っている。
しかし、獣人に襲われて『悪魔の花嫁』にならないためには、婚約者に散らしてもらうのも一つの方法であり、行為を拒む自分の姿勢は、オゼットにとっては不義理といえば不義理なのだろう。
「…………わかった。オゼットには真実を話す」
フランツは、オゼットに自分の考えを理解してもらうために、父からは秘するようにと言われていた、「自分の生まれ育った場所が噂通りに娼館である」ことを打ち明けた。
娼館で愛のない行為をして傷付く者をたくさん見てきたから、オゼットのことは好きの部類には入るが、唯一の愛を捧げられると確信できるまでは肉体関係を持つのは控えたいと、正直に全部話した。
「ど、✕✕……」
オゼットはフランツが娼館育ちであることや、この国の大多数の者の性の価値観と比べて重い考えを持っていることよりも、未だに清い身を貫いていることに絶句していた。
「…………わかりましたわ」
オゼットはそう言うと、馬車の中の向かい側の席からフランツの隣に移動してきた。
「フラン様が男女の事についてとても真摯なのだということは良くわかりました。フラン様が初めてを私に捧げたいと思えるように、私も頑張りますわ。フラン様が私と関係を結んでも良いと思えるまで待ちます」
オゼットはフランツに身体をピタリと擦り寄せてくる。
「でも、私…… 不安なんですの。
そうはおっしゃっても、私のフラン様が他の魅力的な方に横から取られてしまうかもしれませんもの。フラン様は初めての相手と一生を添い遂げるつもりなのでしょう?
だから誓ってください。フラン様が唯一を捧げるのは私だけという誓いです」
気のせいかもしれないが、こちらを見上げるオゼットの目が、ギラギラしているように見えた。
「キスも初めてなのですよね? ファーストキスを私にください。そうすれば、少しは我慢できますもの」
そう言ってオゼットはフランツの首に手を回すようにして抱き付いてきたが、近付いてくる彼女の顔の中に薄ら笑いのような表情を見た瞬間、なぜか背中に悪寒が走った。
フランツは顔を反らせて唇の接近を回避しようとしたが、フランツのその動きに気付いたオゼットが、急にうるうると瞳を潤わせてとても悲しそうにしたので、女性を泣かせてはいけないと思ったフランツは耐えた。
「フラン様……」
オゼットがキスを強請っている。
迫られたフランツは――――――
フランツは予定通り侯爵邸でオゼットと別れた後、そのまま馬車で伯爵邸まで送ってもらった。
外ではまだ雨が降っているが、伯爵邸の正面玄関は屋根があるので、濡れずに屋敷の中に入ることができる。
馬車の訪れに気付いたらしき侍従長がすぐさま外に出てきたが、侍従長は窓越しにフランツの顔を見ると、なぜかすぐに中に戻って行ってしまった。
「フランツ様……」
馬車の馭者に礼を言い見送ってから屋敷の中に入ると、侍従長が早歩きでフランツの元へとやって来た。
「こちらを」
侍従長は小声でそう言ってから、フランツに温かい濡れタオルを差し出してきた。
フランツの服は雨に濡れたままだ。普通は乾いたタオルだろうと思い首を捻っていると、侍従長が再び小声でフランツに囁いてきた。
「紅が……」
言われてハッとしたフランツは、侍従長の心遣いに感謝しながら、唇に付いていたらしいオゼットの口紅を拭った。
――――キェェェェェェッッ!
唇を拭き終えて濡れタオルを侍従長に返却した所で、屋敷の中から劈くような甲高い叫び声が聞こえてきた。
******
親愛なる兄フランツの婚約が決まってから、ずっと塞ぎ込むようになっていたハインツは、その日、雨の降る陰欝な天気がまるで自分の心模様を表しているようだとため息を吐きながら、外の景色を眺めていた。
すると、兄の婚約者に収まってしまった例の令嬢の家紋入りの馬車が敷地内に入ってくるのを目敏く見つけて、胸騒ぎを覚えたハインツは、正面玄関まで走った。
玄関ホールにいたのは兄だけで婚約者の姿はなかったが、ハインツは、兄が侍従長から渡された濡れタオルで、唇に付いた口紅を拭っている場面を見てしまった。
その瞬間ハインツは頭に血が上り、これまでの人生で発したことのないような奇声を出しながら、吹き抜けになっている玄関ホールの二階部分でぶっ倒れた。
その後の記憶がないので、たぶん側仕えの者が気絶したハインツを部屋まで運んだのだろうと思う。
現在は夜中のようで周囲には誰もいないが、ハインツは真っ暗な部屋の中で、怒りに燃える暗黒色の瞳を爛々と輝かせた。
「あんのあざとブリっ子ブリブリ女めぇぇぇっ! よくも僕のお兄様の清純なる唇を汚しくさりやがったなァァァッ!
キスなんて! 恐れ多くて僕だって一度もしたことないのにッ! 許さないッ! 結婚だなんて僕は絶対に許さないぞオオオォォッ! キェェェェェェッッ!」




