2.兄に微笑む
唐突だがシェリーには兄がいる。名はランクレス。シェリーより5歳年上の現在23歳で父より公爵家を引き継いで早3年、婚約者がいて来年結婚する予定だ。因みに父母の元公爵夫妻は社交シーズン中は皇都にいるが、それ以外は領地で悠々自適に過ごしている。
その兄ランクレスはシェリーの事を高く評価する目の曇った男でもある。いや目が節穴の男でもまだ軽いだろうか。何故ならこの男が兄妹として最も長い時間を共に過ごして育ってきたからだ。5歳も年下の妹は只々可愛い存在、兄バカまっしぐらでシェリーを甘やかした。
兄バカフィルター越しに見たシェリーは優しくおっとりとした天使そのもの。それでいて聡明で出しゃばらず、いつも微笑んでいて、いつもさり気なくサポートをしてくれる自慢の妹なのだ。
当然のことながら事実は全く異なるが、極めて残念な事にランクレスもまた、気付くことはない。
ところでランクレスは現在領地の事で困難に直面していた。いや事は公爵領だけに留まる話ではない。その問題とは領地の小麦収穫量が今年もまた下がった事にある。その報告書に目を通し、執務室で独りため息をついた。
(ここ2,3年は冷夏だった。これは飢饉の前触れではないだろうか?だが可能性があるというだけで来年は豊作になるかもしれない。公爵領は宝飾鉱石が採れる鉱山もあるし、鉄や銅、石炭なども取れ、領としては財がある。その財力を駆使して手を打つ事はできる。でも…)
神ならぬ人の身では冷夏をなんとかすることは出来ない。ランクレスが出来るのは財力を駆使して在るところから買って備蓄しておくなどだろう。今でもそれなりに備蓄しているが飢饉が数年に及ぶなら全然足りない。まして自領だけが助かるなどはあり得ない、公爵領だけ食料が豊富なら飢えた他領が公爵領を蹂躙しようとするだろう。勿論そうなれば領民を護る為に、公爵家騎士団を筆頭に軍をもって対応するだけであるが、それはもう内乱である。
しかし、収穫量が落ちているのは公爵領だけの可能性もあるし、そこから調査をする必要があった。もし国全体の話となるなら皇家に相談するとともに、警備の増強も密かに行う必要がある。そこまで先を見渡せるランクレスは優秀な男だ。妹に関して以外でだが。
飢饉が頭から離れないランクレスは夕食中に思わずため息をついてしまい、しまったと思った。妹にはこんな無様は見せたく無かったのだ。シェリーも流石に食事中はボーとしておらず、食事を噛み締めつつ優雅に堪能しているので兄のため息をしっかりと聞いてしまった。
(御兄様は何か心配事かしら。義姉様との恋愛の悩みなら相談くらい乗れるかもしれないわ。恋愛小説はいっぱい読んだもの)
嘘である。シェリーの読書は眺めてページを捲っているだけで目で文字を追うなんて動作は只の一度もしたことがない。だから読んではいない。だがシェリーのチートなところはそれで頭に入ってしまうことだ。そのチート能力のお陰で勉学の成績は極めて優秀なのは羨ましい限りではある。
「シェリー、ため息をついて済まなかったね」
シェリーの視線を感じたランクレスは即座に謝った。ついでに誤りでもあるかもしれない。”判断の”という言葉が”誤り”の前につく。なぜなら今から無駄な説明をする事になるからだ。
「御兄様、何かお悩みでも?わたくしでは聞くことしかできませんけど気分が楽になりましてよ」
婚約者との恋愛話のつもり満々のシェリーは、そう言って微笑んだ。妹の微笑みに包まれてしまった兄はポツリポツリ心配事を話し出してしまった。
(あら?恋バナじゃありませんの?)
とたんに興味をなくしたシェリーは即座に思考を停止して微笑み人形モードに移行した。兄お疲れ様、である
「ーーーーーという訳なんだ。済まないこんな話をしてしまって。でも少しは気が晴れたよ。有難うシェリー」
話を終えたが妹はなかなか現実世界に戻ってこなかった。微笑みを浮かべたまま返事のない妹に兄はシェリーが深く考えてくれていると思った。正直いくらシェリーが特別聡明といってもそれほどの期待はしていないし、そこまで重荷を背負わせたくない。と、ランクレスは兄心に思った。
「ふぅ、駄目ですわね。でもわたくしはお兄様を信じておりますわ」
ランクレスの話が終ってしばらくしてから突如首を振って、シェリーは微笑みながらそう答えた。シェリーが駄目と言ったのは勿論、力になれない事に対してでは無く、結局話しを聞いていなかった事に対してである。しかし兄は前者の意味で受け止めたてしまった。そして聞いて無かった事を誤魔化すために兄を信じていると返したのだ。
(よく理解らなかったけどお兄様は優秀だもの大丈夫よね)
シェリーはの兄に対する信頼は大きい。兄は妹と違って本当に優秀なのだ。ある一点を除いて。
☆☆☆
夕食のやり取りがあった数日後の休日、シェリーは自由時間に
公爵邸の図書室にいた。シェリーは公爵家令嬢としてのレッスンが多数あり、それは全ていずれ他家に嫁ぐ日の為だった。それらが終わる午後はシェリーの自由時間で、シェリーは庭園にいるか、サロンにいるか、図書室にいるかが常だった。
だからこれは公爵邸では当たり前の光景で、しかもかなり広い分野で読書?をするので皆にシェリーは真の読書好きだと思われている。でもシェリーは読書はしない。
ではなんでシェリーが図書室にいるかといえば、白い紙に美しい黒い模様(文字のこと)が並んでいるのを眺めるのが大好きで、要するにシェリーの趣味だった。実に変わった趣味だ。しっかりと教育を受けているので読み書きは勿論出来る。でも読まない。いつもページを捲りながら眺めているだけなのでこの行為を読書というのは間違っている。当然のことながらページを眺めているときのシェリーは何も考えていない。微笑んでいるだけである。そして読んでいないのだから内容は何でも良いのでその日の気分で適当に選ぶのが、幅広いジャンルの読書を楽しんでいるという勘違いに繋っている。その日の読書でも無作為に適当に選んだ本を数冊、それと世界地図を閲覧席に運んだ。地図を眺めるのも好きなのであった。
(ふふ、今日は地図を広げながら読書なんて、少し贅沢な気分ね)
何が贅沢なのかは理解らないが一つ言えるのは、くどくなるがシェリーのそれは読書ではない。兎も角シェリーはご満悦で”本眺め”を開始した。
☆☆☆
ランクレスは先の問題がまだ頭から離れずにいた。なにか良い手立ては無いか期待はせずにフラリと図書室にやってきた。そこで閲覧スペースで寝てしまっているシェリーを見つけた。
(器用に寝るものだ)
机に突っ伏すでも無く、本を膝の上で持ったまま、姿勢正しく座った姿勢で静かに眠るシェリーを見てそう思った。しかし危ないのでそっと広げた地図を避けて机に突っ伏す姿勢に変えてあげた。それでも起きないシェリーを見て苦笑しつつ、体を冷やさないようになにか掛ける物を持って来なけれならないなどと考えた。その時シェリーが読んでいた本にふと目が行き、つい妹が何を読んいるのか興味を持ってしまった。
(これは…植物の品種改良について!)
ランクレスは優秀故に最初からそれを考えから除外していた。品種改良は直ぐに有効な手段で無く、10年、20年のスパンは必要な方法だからだ。しかし、長い目で見るならこの方法が一番の正解だろう。シェリーは他にも本を持ち込んでいる。今度をその本を手に取る。それは果物に関する本だった。
ランクレスはそこで昔の事を思い出してハッとした。10年程前、父である当時の公爵がシェリーの為にある果物の栽培を領地の南方で始めた。当時のシェリーが読書中にその植物図鑑のそのページを開いたまま寝ていて、それを見た父親はシェリーがその果物”ロンメ”が大好きなのだと勘違いしたのがキッカケだった。
(うーむ、そうか、貿易か)
ランクレスは先程避けた世界地図を見ながら内心唸った。品種改良が恒久解決の手段なら、それまでは臨時の対応策が必要となる。それは食料が豊かな国から買うである。資金が潤沢な公爵家なら問題はない。ただ貿易となると公爵の一存では行かない。講皇家、いや国家の承認がいる。こちらの金貨が他国に流れすぎるのも困るし、鉱石を軍事バランスが変わる程に流すのも許される訳がないのだ。そこで先程のロンメが生きてくる。食料品の輸入には食料品の輸出を、である。
普通の果物は生物なので長旅をさせられない。しかし魔法の果物とも呼ばれるロンメは別だ。何故なら乾燥させてドライフルーツにした後でも水戻しで元のみずみずしい食感に完全に戻るのである。魔法の果物と云われる所以である。しかも水戻し後は更に甘くなるので現在領ではドライフルーツにして国内だけに流通させている。
事業としてのロンメ栽培は高級甘味として人気が在り、年々規模が大きくなっている。食が豊かな国では手に入れたい食材の筈だ。しかも栽培が難しく直ぐに真似出来無いのも都合がいい。引き抜き対策もしてある。1年あれば、認可や契約を含めても時間的に十分貿易にまで漕ぎ着けられるとランクレスは判断した。なにせ公爵領は港街まであるのだ。
(シェリー、解決方法を考えてくれたんだね。おかげで内乱にはならずに済むかも知れない)
ランクレスは改めてシェリーの目のつけどころの良さ、その聡明さに脱帽した。
さて、それらの事は当然シェリーの意図したことではない。だが本当にそうだったのだろうか?本を読まずとも眺めただけで内容を把握できるなら、聞き流した話も頭に入っているのではなかろうか?だから無意識であれらの本を選んだのではないだろうか。その真偽は兎も角、兄が妹を聡明と勘違いしているので自ら気付いたのを妹に教えられたと勘違いしたのは事実である。
「お陰で方向性は見えたよ。後は僕が頑張る番だ。有難うシェリー!」
読書中に昼寝をしてしまったその日の夕食で兄にそう言われたシェリーは意味が理解らず、美しい微笑みで誤魔化したのだった。
続く