サトリ先生の受難(軽度)
「試験期間って嫌ね」
隣の同僚が嘆く。
仮にも教師がそんなことを言うな。
思わず問題用紙の内容を打ち込む指が、強くキーボードの盤面を叩く。
「やだ、サトリ先生ってば怖い顔」
振り向いた同僚が、俺の眉間をグリグリと押し込んでいく。
けしからん。
公共の場でなければ怒鳴り散らしてやっただろう。
そうして、こうだっ!
こうだっ、こうしてやるっ!
脳内で完膚なきまでに隣の同僚――大蛇先生をやっつけることで、眉間をグリグリと押し込まれた不満は昇華した。
しかして、俺は決してサトリではなく、佐鳥だ。
人を妖怪のように呼ぶのは辞めてもらいたい、というか即刻辞めろと言いたい。
「仮にも教師ですけれどね。そんな私から言わせて頂くと、試験ごときで人間に点数を付けるのは良くないと思うのよ」
ゆっくりと、これは所謂デコピンをされ、つい頭を後方へと倒してしまう。
「頑張りを評価してあげたい気持ちも勿論あるけど、頑張りが報われなかったなんて思ってほしくないの。そこから頑張ろうって思える子が何割いると思う?頑張っても駄目だった、向いていないんだ、なんて思ってほしくないのよ」
甘い、と思う。
世界は競走だ。
社会に出れば、学生時代に感じてきた競走なんていうものは、お遊戯かと思えるほど、優しくない。
それから、残酷だ。
また、眉間にシワが寄るのを感じたが、今度は指先は伸びてこない。
俺は、タタンッ、キーボードのエンターキーを強く、二回、押し込んだ。
「勉強も、運動も、なんなら美術も好きになってほしいわ。生徒には、楽しく生きてほしいの」
……この女――大蛇先生は実に楽しそうだ。
本人の主張通りに、人生を謳歌している。
後、右から左へと聞き流すところだったが、大蛇先生は美術部の顧問もしているためか、さりげなく美術を進めてきた。
さも、当然のように。
コーヒーと共に香った油絵の具の匂いで我に返り、自己主張するな、と思った。
それでも、大蛇先生の机周りには、過去の教え子との写真や、生徒が調理実習で作った焼き菓子の差し入れがある。
後、件の美術部ではないが、美術の授業で作ったらしい……良く分からない彫刻や模型に囲まれていた。
仕事用の資料や書類よりも多く見える。
「そこで私は思いついたのです」
背凭れが仰け反るほど体重を預けていた椅子から飛び起き、大蛇先生は言う。
「生徒達にご褒美をあげます」
全体的には黒く見えるものの、その奥、髪の内側に当たる部分が良く見なければ分からない紫色をした髪を揺らす。
仮にも教師が、そう思い考える俺の眼前には、迫り来る大蛇先生の輝く黒目。
「生徒が差し入れてくれたこの焼き菓子も、彫刻も、模型も、一緒に撮った写真も、全てが私の活力なんだもの。後、美術部の入部届け」
最後、ちょっと待て、声を上げようとしたものの、大蛇先生の言葉は続く。
「きっと生徒達も私からのご褒美を糧に、頑張ることが出来るはずよ。美術部に気兼ねなく見学出来るとか、体験入部出来るとか」
「それはどうなんだ。いや、どうなんだというのは、後半の話も含めて」
やっと突っ込めたものの、当の本人は後半の話?と首を捻った。
凝り固まっていたのか、首の骨がパキポキ動きに合わせて鳴っている。
「……まず第一に、人の価値観は各々それぞれ銘々だぞ。大蛇先生の価値観を押し付けるのはどうなんだ?」
もういっそ美術部を推してくることに関しては後に回し、一つ、問う。
すると大蛇先生は、まあ、とでも声を上げそうな勢いで、黒い目を見開いた。
「それなら、サトリ先生は私が何を与えれば、頑張る気になるの?」
「俺は大蛇先生から褒美なんぞ貰わなくても頑張れる」
「えぇ!サトリ先生つまらない!今ならあんなことも、こんなことでも、何でもしてあげる気持ちなのに!!」
ギシリ、と椅子が金属の軋む音を立てた。
大蛇先生が脱力したように、再度椅子の背凭れに寄り掛かったからだ。
あんなことも……こんなことも……だと……それなら、それならば――。
「では早く試験問題を作り終えろ!!」
サトリ先生つまらない、鬼、眼鏡、単細胞、細腰、眼鏡、そんな言葉でいくら罵られようが、痛くも痒くもない。
「……むっつりスケベ」ガタタン、椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、キーボードの上に両手を置いた。
顔を上げれば、数冊のノートを抱えた女子生徒。
「さ、作ちゃん!」
トン、と弱々しくその女子生徒の肩を小突いたのは男子生徒だ。
その顔を見ると、何故か隣でも椅子を蹴飛ばすように立ち上がる大蛇先生。
「あ、これ、課題のスケッチブックです」
「うんうん。ありがとう」
笑顔で男子生徒の持っていたスケッチブックを受け取るが、そのスケッチブックの下には更に大学ノートがある。
それは、何故か俺の机に置かれた。
その上には女子生徒の持っていたノート。
「頼まれてたノート回収です」
「……あ、あぁ。悪かったな」
「いいえ。手伝ってくれたので」
やけに長い前髪の隙間から黒目が覗き、チラリ、と男子生徒へ向けられる。
その視線を受けて男子生徒の方は「いや、俺は」と苦く笑う。
しかし、俺が何を口にするよりも早く、大蛇先生が身を乗り出し「作ちゃん!」女子生徒へ呼び掛ける。
僅かに体を揺らした女子生徒は、少し、重心を後ろへ倒した。
「ぜひ、美術部に……」
「結構です。それでは……あ、サトリ先生」
まるで告白のように、恋文でも渡すように入部届けを突き出した大蛇先生は、食い気味で断られていた。
そして断った本人は、下げていた重心に合わせて足を引き、思い出したように俺を見る。
顔色を変えたの男子生徒の方だ。
後、サトリじゃなく佐鳥だ。
「貰えるものは貰っておけばいいんじゃないですか。据え膳食わぬわ」
「作ちゃん!ほら!帰ろう!!帰りに喫茶店とか寄ろう!!ね!!」
俺に声を掛けた時から表情を変えずに、抑揚のない声で言っていた女子生徒だが、それを止めたのは男子生徒だ。
顔色を悪くした理由が分かり、俺は眼鏡を押し上げた。
血色の悪い顔のまま「失礼しました!」合言葉のようなそれと共に、男子生徒が女子生徒の肩と背中を押して出ていく。
微かに香った油絵の具は、あの男子生徒からか。
――褒美なんていうものは、別に、要らん。
「……要らんぞ!!」
真っ白な入部届けを片手に、大蛇先生はまた、首を捻った。