自由への逃走
走る。
走る。
走る。
サーチライトが周囲を照らす。怒号と悲鳴が周囲に響く。物陰に隠れた俺の近くを多くの憲兵が走り去っていく。
たった一人を捕まえるためにご苦労なことだ。物々しい様子に俺は苦笑して、自由を手に入れるべく再度走り出した。
◆
人類は管理されている。そのことに異論を唱える人間は、おそらくいないだろう。
食事は配給制だ。十分な栄養の取れる、それなりに美味いがよくわからない食事が毎日三回配給される。
労働は強制だ。学校で適性検査を受け、最も優れた適性を示した職業に強制的に就くことになる。ニートなどは許されない。誰一人の例外もなく、何らかの職業に就くことになる。
結婚は義務だ。恋愛結婚は推奨されている。しかし、二十五歳までに結婚できなかった男女は、政府で決めた相手同士で強制的に結婚させられる。
十分に生きていける環境だ。しかし、生かされている環境でもある。
それなりに美味い食事もある。ほどほどの仕事もある。許可制ではあるが、それなりに娯楽もある。
だが、それら全てが管理されているのだ。人類は管理されて生きており、ここに自由など存在しない。
閉ざされた聖域。管理された理想郷。それがここだ。この石の壁に囲まれた空間――ドームの現実だ。
俺は、このドームで生まれ育った。生まれてこの方ドームの外を見たことがなく、ドームの外に行こうと思ったこともなかった。それどころか、ドームの外に大地が広がっているなんてのも考えたことがなかった。
このドームだけが、世界の全てである。本当に、俺はそう信じて生きてきたのだ。
きっと教育のせいに違いない。このドームには、学校と呼べるものは一つしかない。子供は全員その学校に入り、教育を受けるのだ。
なんと管理しやすいことだろう。なんと教育しやすいことだろう。学校時代のことを振り返ってみると、ドームに都合のいいように教育されていたことがよくわかる。子供たちは全員、ドームによる管理を受け入れるように教育されているのだ。
恐ろしいことに、ドームで生きている人間は、死ぬまで学校で習った常識に疑いを持たない。ドームで生まれ、ドームで死ぬ。それが幸せであると、心の底から思っているのだ。
俺もきっかけがなければそうだっただろう。死ぬまで何の疑問も持たずに、のうのうと生きていたに違いない。
だが、俺は知ってしまった。外国という存在を、海外という存在を、外という存在を知ってしまった。
この気持ちをなんと表現すればいいだろうか。偉大なミュージシャンへの憧れのようなものだろうか。親に反発する少年のような気持ちだろうか。俺はそれらの存在を知ることで、それを理解し、また行く必要があると心の底から思ってしまったのだ。
こうなってはもう居ても立ってもいられない。ドームについて調査し尽くし、ドームの外へ行けるルートを発見した。そして、ドームから外に出る日を決めて、外へ出るための計画を立案した。
全て一人でやったから不安は残るが、こんなことに友人や家族を巻き込めるわけがない。俺がやろうとしていることは、言ってしまえばドームへの反逆にほかならない。この計画が漏洩すれば、俺は憲兵に捕まり、刑務所にぶち込まれることになるだろう。
素人がたった一人で立案した杜撰な計画だったが、意外といけるものである。俺は憲兵たちをやり過ごし、見事ドームを抜けられる地点まで近づいていた。
そこまでは残り五十メートルだ。近づくに連れて警備も厳重になっているが、やりようはいくらでもある。人間は真後ろを見ることはできない。隙はどこにでも存在するはずだ。
影に隠れ、障害物を盾にして、人の視界から外れて動く。音も立てず、呼吸もしない。自然と、空気と一体化して、俺は慎重に進み続けた。
そうして進んだ三十メートル。どうやらこれが限界らしい。この先には障害物はない。動けばすぐに見つかってしまうだろう。
だが、これでいい。残りはたった二十メートル。憲兵の姿もない。つまり、走り抜けることは十分に可能だ。
物陰から飛び出して、一気に走る。全速力だ。後のことなど考えない。自由を手に入れる。それこそが俺の求めるものなのだ。
もう少しで壁を超えられる。もう少しで、この閉ざされた絶望郷から脱出することができる。
思わず笑みがこぼれてしまう。自由という名の救いを、俺は手にすることができる。
さあ、後二十メートルだ。十五メートル。十メートル。
そこまでだった。
次の一歩を踏み出した瞬間、視界が白く染まり、何か音が聞こえたのと同時に、俺の体は吹き飛ばされた。
ああ、失敗した。永遠にも等しい瞬間で思うのは、それだけだった。数秒後、痛みを感じることもなく、俺の意識は永遠に失われた。
俺は、自由を求めた。自由のために、ドームの脱出を企てた。
それは失敗したが、俺は最期まで自由という希望を求めたのだ。
だが、俺は知らなかった。
この壁を乗り越えた先に、希望など欠片も存在しないことを。
◆
ドーム中に響く轟音――爆発音だ――を聞いて、私は騒動が終わったことを確信した。
やれやれ、やっと終わったか。
爆発音が響いてから五分後、慌しい様子で部下がやってきた。そして、部下から騒動を引き起こした男が死んだと報告され、私はため息をついた。
どうやら彼は自由を求めていたようだが、そんなものがあるなら私が欲しいところだよ。人類は、管理されなければ生きていけないのだ。
私が誰かって? 私が誰かなど、どうでもいいことだ。上の人間の一人であると認識してもらえればそれでいい。
彼が壁の先を求めた理由もよくわかる。だが、壁の先を知っている私にとっては、その選択は愚かというほかない。
一部の人間以外は知らされていない。知る必要もない。だから、大半の人間は、壁の先に何があるのか、知ることができない。
きっと彼も知らなかったはずだ。壁の先に何があるのかを。
壁の先には、絶望しか待っていない。
壁の先を支配しているのは、人類よりも圧倒的に優れた科学力を持つ、地球外生命体――エイリアンだ。
エイリアンが何故地球を支配しようとしたのか。その理由は単純で、エイリアンにとって人類とは極上の食料になるからだ。
牛、豚、羊など、人類の食料もエイリアンにとっての食料となる。しかし、それ以上にエイリアンにとっては、人類のほうが好みの味であったのだ。自分たちが好んでいる食料が大量にあるから、エイリアンは地球を征服したのだ。
だが、どんな奇跡か、人類はエイリアンと言葉をかわすことに成功した。彼が逃げ出そうとしていたドームは、人類が必死の交渉の末に手に入れた、本当の意味での閉ざされた聖域、人類の生存圏だったのだ。
つまり、人類はドーム内でのみ生きることが許されており、ドームの外では人類には何の権利も価値もないのだ。
それを証明するのにちょうどいい話を私は知っている。
一つ、ドームから逃げ出した男の話をしよう。
ドームから逃げ出した男は、十秒もしないうちにエイリアン共に捕まった。男は、一瞬の自由を手に入れた代償を支払う羽目になったのだ。
地球を支配したエイリアンにとって、人類は家畜に等しい存在だ。そして、エイリアンにとって人類とは極上の食料である。つまり、エイリアンに捕まった男は、エイリアンの食事のために生かされ続けることになったのだ。
男の体をエイリアンが美味そうに貪り食うが、男に死ぬことは許されていない。薬によって狂うこともできず、ショックで死ぬこともできない。死ぬ限界まで食われたら、再生装置によって無理やり体を再生され、また食われる。
そのくせ健康な人間が一番美味いと知っているエイリアンは、男に十分な栄養の取れる食事や、運動のできる環境を提供する。自分たちに食われるために、いつまでも健康でいろということだ。
そして、ストレスについても無理やり解消される。男がストレスを感じないように、様々な娯楽や女性、また催眠や幻覚、薬など、あらゆる手段で男のストレスを軽減する。
こうして男は、寿命で死ぬまで無理やり健康的に生かされ続けたのだ。
これを幸せと思う人はいるだろうか? 思える人は実にラッキーだ。きっと幸せな頭をしているに違いない。
私はこれを幸せと思えない人間だ。だから、仕方なく管理された生活を許容している。許容するしかないからだ。
何故なら、家畜は飼い主に許されることで、ようやく生きていけるのだから。