Winter sweet
冬は好きじゃない。
他の季節と違って、色が無いから。
春や夏のようにカラフルな花も無いし、秋のように紅葉があるわけでもない。
モノクロの世界。
だから、冬はあまり外に出たくない。
「冬はやっぱコタツだよねー。うめさん」
コタツを覗いて中にいる三毛猫のうめさんに話しかけると、うめさんは「なーお」と返事をした。
二月の穏やかな土曜日の午後。聞こえるのはファンヒーターと時折家の前を通る車の音くらいで、コタツで寝転んでいると静かさと暖かさで瞼が重くなってくる。
「ん? うめさんどっか行くの?」
もぞもぞとコタツの中から出てきたうめさんが、ドアを開けろと鳴き声で催促する。居間の扉を開けてやるとそそくさと出て行ったが、またどこかで鳴いている。仕方なく声のする方へ行ってみると、うめさんは玄関にいた。
「外に行くの?」
「なーう」
寒い所が嫌いでいつもコタツでぬくぬくしているうめさんが外に出るなんて、いったいどこに行くつもりだろう。気になったので、暇を持て余していたわたしもついて行ってみることにした。
急いで自分の部屋からコートを取って来て、うめさんと一緒に玄関を出た。空は曇りだ。顔に触れる空気が冷たくて、思わず首を竦める。マフラーも持ってくれば良かった。取りに戻ろうかとも思ったが、うめさんが歩いて行ってしまうので、そのまま後について歩き出した。
まだ雪の残る道路を、うめさんは躊躇う様子も無く軽い足取りで進んでいく。雪の上を歩いて、肉球は冷たくないのだろうか。
息を吸うと、肺の中まで冷たくなる寒さだ。やっぱり家にいれば良かったかもしれない。
わたしが少しだけ出てきたことを後悔していると、うめさんが家と家の間の細い道にすっと入って行った。近所だけどほとんど通ったことの無い道だ。なんだか少しだけ探検気分。
見慣れない路地裏にキョロキョロしていたら、うめさんが歩みを速めたので見失ってしまった。辺りを見回してもうめさんの姿は見えない。どこかの家に入ってしまったのだろうか。
諦めて帰ろうかと思った時、冷たい風に乗って甘い匂いが届いた。花の香り? でも二月の雪が降る時期にどこから?
香りの元を探して顔を上げたわたしの目に入ったのは、間違いなく花だった。塀の上から顔を出した枝に付いた小さな花。甘い匂いはそこから漂ってくる。花の付き方は梅に似ていて、葉が出る前の枝に花だけがいくつも咲いている。でも、梅と言えば紅や白のイメージだ。この花は梅じゃないのかもしれない。透けるような黄色い花びらがとても綺麗だ。
冬の空気に不似合いな甘い香りと色の無い世界に現れた黄色に心を奪われていたわたしは、うめさんの鳴き声で我に返った。背伸びして塀の中を覗くと、小さな庭にうめさんがいた。ああ、よその家の庭に勝手に入って。この家はどこの家だったろうか。裏庭からじゃよく分からない。
「また来たの?」
男性の優しい声。見ると庭に面した縁側の掃き出し窓が小さく開いて、男の人が顔を出している。うめさんは男性の足元を抜けて家の中に入って行ってしまった。
「あっ、うめさん駄目だよ勝手に入っちゃ!」
思わず声を上げると、わたしに気付いた男の人と目が合った。
「もしかして、あなたの猫ですか?」
「えっと、そうです。あの、あそこの神社の向かいの……」
「ああ、藤崎さんのところの」
彼はわたしの家を知っているようだが、わたしは彼に見覚えが無かった。年齢は二十代後半くらいだろうか、人当たりの良い穏やかな雰囲気だ。私とは十歳前後離れているようだから、子供の頃に一緒に遊んだりはしていなさそうだけど。誰なのだろう。田舎の近所付き合いで、そんなに話すことは無くても大体の住民の顔くらいは知っているはずなのに。
「とりあえず中でお茶でもいかがですか? 寒いですし」
正体を頭の中で探る私を、彼は招くように窓を大きく開けた。近所とはいえ知らない人の家に入るのは気が引けたが、中に入ってしまったうめさんのことも気になるので、わたしは促されるまま裏庭から彼の家に上がった。
「緑茶とコーヒーと、あとはほうじ茶くらいしか無いんですけど、どれがいいですか?」
「えっと、じゃあほうじ茶を」
腰を下ろしてコタツに足を入れ、居間らしい部屋を見回す。壁際に置かれた茶箪笥、カチカチと音を立てながら振り子を揺らす柱時計、ストーブの上の湯気を立てたヤカン。古びた家の中は薄暗く、これらの時代を感じるアイテムも相まって、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。
先に上がり込んだうめさんは、ストーブの前に陣取って自分の家のようにくつろいでいる。もしかしたら以前から何度も訪れているのかもしれない。
「すみません、こんな物しかありませんがどうぞ」
台所から戻ってきた彼が、コタツの上にお茶とお茶菓子を置いた。お煎餅に一口サイズの最中、栗饅頭、どら焼き……。うーん、おばあちゃんが買ってくるお菓子って感じ。
お礼を言ってからほうじ茶を一口飲むと喉元までじんわり温かくなって、寒さに強張っていた身体がほぐれていく。
「わたし、藤崎一花といいます。あの、あなたは……?」
「ああ、すみません、名乗ってませんでしたね。平井柊です。ここに越してきて二ヶ月くらいで、まだ会ったことの無いご近所さんも結構いるんですよね」
「二ヶ月……あ! よりさんのお孫さん」
思い出した。ここは半年前に亡くなった桐原よりさんが一人で住んでいた家だ。住人のいなくなったこの家に彼女の孫が引っ越してきたと、いつかの夕食の時に母が話していた。名字が違うのは、よりさんが彼の母方の祖母だからだろう。
「さっき『うめさん』って言ってましたけど、この子の名前ですか?」
ようやく彼の正体が分かりすっきりした気分でいると、身体を擦り付けゴロゴロとのどを鳴らすうめさんを撫でながら、柊さんがわたしに尋ねた。なんだかずいぶん懐いている。
「はい。『うめ』って名前なんですけど、おばあちゃんだからなんとなく『うめさん』って呼んでるんです」
「うめさんっていうんですね。いつも何て呼んだらいいか困ってたんです」
彼はニコニコと笑顔で言うが、ということは、やっぱりうめさんはしょっちゅうこの家に来ているのだ。
「すみません、うめさんが勝手におうちに上がっちゃって」
「いえ、こちらこそ、その、実はこの子が来たらごはんをあげたりしていたんですが……。よそのお宅の子に勝手にすみません」
「いえいえ、うちは全然問題無いです! お邪魔した上にごはんまで貰うなんて本当にすみません」
うめさんってば、ただの散歩かと思ったらいつもそんなことしてたのか。恐縮している私をよそに、うめさんは「にゃーお」と柊さんに甘えている。
「ごはんの話をしてたからお腹が空いたのかな。ええと、一花ちゃん? うめさんもおもてなししてもいいでしょうか?」
「ご迷惑でなければ……」
わたしの返答を聞いた柊さんは居間を出て行き、戻ってきた手に持っているのは、普段うちであげている物よりずっと高いキャットフードだった。これにはうめさんも出された皿にまっしぐらだ。うめさん、たまにあんまりエサ食べない時があったけど、そんな美味しい物食べさせてもらってたらそうなるよね。納得。
柊さんは満足そうに目を細めてうめさんを眺めている。うめさんも懐いているし、悪い人ではないのだろう。
うめさんは食べ終わると、柊さんの膝の上に乗って丸くなった。長年一緒に暮らしてきたわたしより越してきたばかりの彼の方へ行ってしまうなんて、ちょっと切ない。
「そういえば、あのお庭に咲いてる黄色い花って、なんていうんですか?」
柊さんとうめさんが二人の世界を作っていて疎外感を感じたわたしは、さっき見つけた甘い匂いの花のことを聞いてみた。
「あれは、ロウバイです」
「ロウバイ?」
聞いたことの無い名前に戸惑うわたしに、柊さんが紙を取り出して書いてくれた。よく見ると、カレンダーか何かを小さく切った物らしい。ほうじ茶とかお茶菓子とか、なんだかおばあちゃんみたいな人だ。
「蝋細工のような美しさだから、蝋梅というそうですよ」
「蝋梅かあ。近くに行って見てもいいですか?」
家主の許可を得て、わたしはまた入ってきた縁側から雪の疎らに残る庭に出て花へと近寄っていった。
小さな黄色い花をたくさんつけた蝋梅は、冬の殺風景な景色の中で一際鮮やかに見える。確かに蝋細工のような不思議な質感の花びらだ。近くでよく見ようと顔を近付けた途端、ふわっと甘い香りに包まれた。
「いい香りでしょう?」
庭に出てきた柊さんが傍に立って言った。うめさんは家の中にいるようだ。
「冬なのに甘い花の香りがするから、びっくりしました」
「冬に甘い良い香りの花を咲かせるので、英名はWinter sweetというんです」
彼の口から出た『Winter sweet』というお洒落な響きが似合わないように思えて、わたしは可笑しくなってしまった。
「どうしました?」
一人でくすくす笑っているわたしを見て、柊さんが怪訝そうに尋ねる。
「いえ、ちょっと、さっきまでコタツでほうじ茶とか飲んでたのにWinter sweetっていうのがなんか、すごいギャップがあって面白いなって。お菓子もおばあちゃんっぽかったし」
「そうですか?」
柊さんは少し困ったように笑っている。
わたしは蝋梅の香りをもっと嗅ぎたくなって、甘い匂いを思い切り吸い込んだ。胸に入ってくる冷たい空気が、今はそんなに嫌じゃない。
「なーお」
うめさんが縁側に出てきていた。わたしがうめさんを抱き上げると、うめさんは大人しくわたしの腕の中に納まった。
「そろそろ帰ります。突然お邪魔してすみませんでした。うめさんのごはんもありがとうございます」
「今度はもっと違うお菓子を用意しておきますね」
柊さんに見送られて、わたしとうめさんは蝋梅の咲く彼の家を後にした。見上げると、灰色の雲の隙間から青空が覗いている。
「たまには冬の散歩もいいね、うめさん」
そんなことずっと前から知っていたと言うように、「にゃあ」とうめさんが鳴いた。