ゴーゴー! 初めての地上へ
少し寒いが、暖かい日差しが差し込む、穏やかな朝だ。
こんな日は長く眠っていたい……朝の惰眠を貪る僕の周りの静寂を突ち破る轟音が僕の耳を貫いた。
「……起きなさい!!」
大声が、僕のアタマに響き渡る。
目を開くと、虚ろな人影が前に見えるが、寝てたい、寝ていたい。
「時間よ、早く起きなさい……起きないと、こうよ!」
ジジジジ……ジュッ……という香ばしい音がする。
「アチッ!!」
額がつんざくように熱い。 その痛みで、はっと目が覚めた。
「目は覚めたかしら?」
目を開くと、そこには女性が立っていた。 瞳も髪も燃えるような橙色をしていて、身体には長い裾に銀の刺繍が入った、シンプルながら一目で上等と分かる衣装をまとっている。
「ここはもう教会とか、教団の寮ではないのよ」
「うーーん……」
一瞬目が覚めたが、やはりまだ眠いんだ。
「まったく……あんたねぇ、ここを選んで来たのでしょう。 せいぜいわたしのために働くのよ!」
彼女はそう告げると、部屋の戸を開け足早に出ていった。 冷たい風が開け放たれた扉から吹き込んでくる。 その風に頬を撫でられていると、徐々に目が覚めていった。
目をこすりながら体を起こす。 何もない殺風景な部屋だが、壁一面に細かな凹凸で模様が刻まれており、まるで豪華な屋敷の様だ。
窓は身の丈程もある大きな硝子で、外には雲が広がる大空が見える。 穏やかな陽光が差し込む部屋の中で、僕は昨日の出来事を思い出した……
僕は天使で、皆からはリヒテルと呼ばれている。
天使は旅立ちの歳といわれる18歳になった日から神さまに仕えることになっている。 まぁ、いわゆる丁稚だ。 そして、昨日は僕の18の誕生日だった。
僕は、『光の女神』というカッコ良さげだけど、なんかユルそうな響きに惹かれて、その女神であるルミエラさまのもとで働こうと志願したのだ。
窓の外には限りない青空が広がり、数え切れないほどの雲が散らばっている。 そう、僕は今、雲の上にある小さな家にいる。 ここは天界、神々が住まうところだ。昨日まで地上の教会で勉強をしながらお手伝いみたいなことをしていたが、その時のお使いでたまに来る程度の場所だったが、今日からここで過ごすのだ。
この家の主である女神ルミエラさまは、優秀な天使に贈られる天使の最高位である熾天使から昇格した女神さまで、まだ神になったばかりらしく、それゆえそれほど大きな家に住んでいないのだと言っていた。 たぶん天使を雇うのも初めてなんだろう。
自分が初めてだなんて、少しばかりこそばゆいが、一体どんな仕事を仰せつかるのだろう……
着替えを済ませ、支度を始める。教会で働いていたときは「倹約を旨とせよ!」 とか言われて、地味~~~な服しか着させてもらえなかったが、ここでは服装は自由なのがうれしい。 ほかにも、昨日ここにきて分かったが、顔を洗うのにわざわざ井戸に水を汲みに行かなくてもいいとか、雨戸から隙間風が吹き込まないとか、めちゃくちゃ快適な家だ。 神さまってとてもいい暮らししてんのね~~
支度を終え、居間に行くとルミエラさまは、ソファに座って本を読んでいた。 見たことない文字で書かれたそれも気になったが、向かいの机の上の取手のついた陶器の器の中の、何やらどす黒い飲み物のほうがもっと気になった。
「おはよう、リヒテル」
ルミエラさまは僕に向かって微笑むと、ぱたんと本を閉じて机の上に置いた。
「気になるかしら、これ」
「えっ」
どうやら、無意識のうちにじっとそれを眺めていたようだ。
「飲んでみる? 淹れてあげるわ」
ルミエラさま厨房に向かうと、戸棚に置いてある装置から、何やら錬金術師が使っていそうな雰囲気のある、取手のついた硝子の入れ物を取り出した。 その中には先ほどの飲み物が入っている。
「熱いから、気をつけて」
器に注ぐと、むわっと湯気が立ち込めた。 試しに飲ませてもらったところ、とても苦く、なんていうか、その強烈な味でもうそれはスッキリと目が覚めた。
「どう、目が覚めた?」
「は、ハイ……!」
後で聞いたのだが、珈琲という異国の豆を煎ったものを砕いたものから抽出したものらしい。 特別な装置が必要らしく、地上はおろか天界でもあまり飲まれていないものだという。
ルミエラさまは珈琲を飲み終え、食器を片付けた。
「さぁて、もう十分まったりしたわね」
「ハイ」
「じゃ、さっそく働いてもらうわ。 あなたの仕事は……悪魔祓いよ!」
「ハイ!」
「いい返事ね! 光栄に思いなさい! 普通の天使だったらね、手をぞうのキンまみれにして床を拭くだけとかなのよ!」
「それって雑巾がけですよね」
ルミエラさまはこほんと咳をしたあと、落ち着いた調子で続けた。
「悪魔祓いってのはね、人間とかを誑かすワル~い悪魔をやっつける、とても名誉ある仕事なのよ。 神の尖兵たるあなたに、その悪魔どもを成敗するための武器を授けましょう」
やや芝居掛かったいかにもなセリフ。
「まあ、とりあえずはい、これ持って」
ルミエラさまは後ろの棚から何かを取り出し、僕に手渡した。 金色に輝いているそれは、するっと長いシルエットから弓だと分かった。 だが……
「な、何よ、その目。 天使に弓矢なんてベタだな~、なんて思っているわけ!?」
「い、いや、そんなことないですよ……」
僕の知っている弓とは、曲げたしなやかな棒に弦と呼ばれるひもを張ったものだ。 だが、ルミエラさまから手渡された『これ』には弦が無かった。
「ま、テキトーに作ったものなんだけれど、ちょっと使ってみてよ」
ルミエラさまに連れられ、外の庭に出る。 雲だから柔らかいのかと思ったが、意外にも硬い感触がした。 どうやらこの家を支える大地があり、それが雲に覆われているようだ。 昨日来たときは夜だったのでわからなかったが、大部分の地面は露出しており、その一部は作物が植えられており、畑になっている。
しばらく歩くと、作物のない、おそらく収穫後であろう荒れた畑に出た。 ルミエラさまは、畑の真ん中あたりに立つと、手のひらほどの銀色の円盤を、そのあたりに転がっていた竿の先に括り付けて地面に立てた。 風に揺れる円盤が光に当たると虹色に見えるのが不思議だった。
「その弓を、見えない矢を持つイメージで引いてみて」
矢を引く真似をしてどうなるんだ……それともイメトレかなあ。 言われるがままに弓を引き絞る動きをとると、なんと! 空想の見えない弦を引く側の左手からスーッと青白い光の矢が現れた! 手を放すとそれはヒュッと風を切りながらまっすぐに飛んでゆき、虚空の彼方へと消えていった。
「どう? 感覚は掴めたかしら? じゃあ、今度はあの的を狙ってみなさい」
ルミエラさまはまっすぐに、あの虹色に輝く光を放つ奇妙な円盤を指さした。
「狙うったってちょっと遠いですよ……」
竿は畑の端っこのほうにちょこんと立っている。 そして僕たちはその反対側の端にいるのだ。 畑は見渡せる程度でそれほど広くないと言っても、的は点のように見えてまず当たりそうにない。
「無理だと思うと当たらないわよ。 意識を集中して、矢の軌跡をイメージしながら撃ちなさい」
「矢の軌跡を、ですか……」
弓を支える右手から、的まで真っ直ぐな軌跡を頭の中でイメージする。 イメージは得意なほうだ。 的まで真っ直ぐ青い空想の線を引く。 そして、空想の矢をつがえ、ゆっくりと引き、放す。
すると、放った『矢』はスーーっと、イメージ通りの線に沿って真っ直ぐに的に向かっていった。
「そうそう、そんな感じよ」
そのあと何回か撃ってみて気付いたのだが、的に当てようと意識すると軌跡を考えなくても矢が勝手にその方向へと飛んでいくので、少しくらい向きがずれていてもガンガン当たる。
「どう、この武器! 難しい操作なし! カンタンでしょ?」
「ハイ! これ、けっこうお手軽ですね!」
もう百発百中の腕前になっていた。
「うんうん、けっこう慣れてきたようね」
「もうバッチリですよ!」
弓に関して全くの素人といっても過言でない僕が、今や弓聖だ。
「だから、もう下界に行っても大丈夫ね!」
「えっ、それはまだ……」
まるで百人力を得たかのような気分になり、有頂天になっていたのだが、さすがにイキナリは怖い。 だが、
「大丈夫、ちょっとした見回りのようなものよ」
ルミエラさまはにっこりと微笑むと、僕の手首をぎゅっとつかみ……
「え、何ですか……」
「さ、行きましょ」
ルミエラさまは、僕の腕をグイっと引っ張ると、雲の縁から足元に広がる闇へと飛び込んだ。
「え、ウソでしょ! うわああああああぁぁぁぁぁぁ……!!」
天界には、後に静寂があるのみだった。