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フライバイ

作者: 木星クジラ

静まり返った夜、遠くの景色に高層ビルが建ち並ぶ、大きな街がありました。


とがった山々が高さを競うように、高い建物が互いをにらみ合っています。けれど、その街に人の暮らす光は見えません。月明りと高いビルが作り出す影だけが、その街を満たしていました。


街は静まり返って、風の音が空しく響いています。どの建物を見ても閑散とした雰囲気をしていて、分厚く積もったほこりや砂が、長い間誰もそこを歩いていないことを感じさせていました。


骸骨になってしまったようなそのビルの街を、遠くから眺める事の出来る高い丘に、いくつかのテントが見えます。大きな骨組みに分厚い革や布が張られていて、中からは暖かい光がこぼれていました。そして、生活の音がしていました。


そのうちの一つのテントが開きました。そこをくぐるようにして出て来たのは女の子でした。女の子は名前を「ティト」と言いました。昔の言葉で、ある鳥の名前を意味する名前でした。


ティトの背中には、ごく薄い青色の翼がありました。見渡すと、その人々は皆、背中に翼を生やしていました。人々は自分たちのことを『鳥』と呼んでいました。


ティトは、遠くに黒々と見えるビルの街を眺めて微笑みました。ティトは夜にこうして街を眺めるのが好きでした。本当は近くまで飛んで行って探検してみたいけれど、昔からのしきたりでそれは禁止されていました。


(あんなに大きいものをどうやって、誰が建てたんだろう?どれくらいの人が住んでいたのかな。どんな暮らしで、何を食べていたのかしら)


いつもそんなことばかり考えて、想像を膨らませてはティトは不思議な気持ちになるのでした。


ティトはおじいさんから古い伝説のように聞かされていました。あのビルを建てたのは「人間」で、「人間」は絶滅したのだと。






そのことについて、ティトが知らないことがたくさんありました。


学校ではもう何百年も習わない事なのでティトはおろか、ティトのおじいさんさえが知らないのは当たり前のことでしたが、『鳥』はむかし『人間』でした。


「空を自由に飛ぶ、鳥になりたい」。人間はいつもそう願っていました。人はいつでも空を目指し、アイデアや力のないほとんどの人間は地に落ちてしまいました。それでも願い続けて、人々の思いが一つになった頃、神様の力か、何か不思議な力によってその願いは叶えられました。


「人間」は「鳥」になりました。それには、願い以外にもたくさんの犠牲が必要でした。決めなければいけないこともいくつかありました。鳥になるということはどういうことか。そういうことを皆で考えた昔の「鳥」たちは、自分たちが昔「人間」だったことを語り継ぐ事を止めようと決めました。


いつか、空を奪い合う戦争がまた起きないように、忘れたり捨てなくてはいけないものもありました。文明や知識、過去の記録などがその筆頭でした。鳥たちはすべてをゼロに戻して、また新しく世界を形成しようとしました。そうして何百年も何千年も過ぎたどこかのタイミングで伝承の完全な断絶が起こりました。つまり、人間だったことを覚えている人や、誰かから聞いて知っている人が途絶えたのです。そのとき、人はまさしく「鳥」として生き直し始めたのでした。


そこは政府や奴隷の無い世界でした。平和と平等だけで、人々は逞しく生きられていました。

「人間」改め「鳥」は蓄積してきた膨大な知識や文明を放棄する代わりに、かつての陋劣な過去も、思い出せない昔に消してしまったのでした。


それでも、すべてをなかったことには出来ませんでした。

ビルの街が遺跡となっているのには、そんな途方もない理由がありました。


それはティトが知る由もないことで、それでよかったのでした。








ティトは朝になると、いつものように顔を洗って朝ごはんを食べて、出掛けて行きました。


沢山のテントで出来た村を抜けて、学校へ向かいます。ティトはまだ小さいですから、学校までの道のりは遠く感じます。それでも、ティトはその道のりが大好きでした。学校で過ごす時間よりも大好きで、家で家族と過ごす時間の、次に好きでした。


その理由は、空を飛べるからでした。学校はテントの村より低い所にあるので、学校に向かって村の丘から飛ぶと、それはもう気持ち良く飛ぶ事が出来ました。


ティトには自慢がありました。ティトは、誰よりも高い空まで飛ぶことが出来たのです。上に向かう風を掴むのがとてもとても上手でした。どんなに翼自慢の大人よりも、高い空をティトは飛ぶことが出来ました。


ティトは今日も上手に風に乗り、するりと空高く舞い上がっていきました。ティトより高い所には誰もいません。地上を歩く鳥たちからは、見えないくらいに高い空まで昇ってきました。


(ずいぶんいい風。今日はもっと高くまで行ってみようか。ひょっとしたら今までで一番高く…。でも、学校に遅れちゃうな。空がどこまで続いてるかわからないもんね。もしかしたら終わりがないかも。どこまでも行けちゃったら…ふふふ)


わくわくする気持ちを抑えて、ティトはゆるやかに下り始めました。おじいさんから、お前は高く飛べるからといって、あまりに高く飛びすぎると危ないから、気をつけなさいと言われていたのを、ティトはしっかりと覚えていました。


下を見ると友達の姿が見えました。翼をたたんで歩いて登校する同級生や、店を開けるために忙しそうないつものおばさんたち。それらは皆笑っています。ティトが空を飛ぶことを好きになったのには、そんな風景が一度にたくさん見えるから、という理由もありました。


「おはようティト」


ティトと一番仲がいい女の子が、ティトを見上げて手を振りました。振り返すと、気づいた周りの生徒や先生もティトに笑いかけます。翼をたたんで地面に降りたティトを、沢山の笑顔が囲んで迎えました。


ティトはニコニコしながら胸のくすぐったいのを感じていました。今日も明日もずっと、こうして好きな人たちと会えるのが一番の幸せなんだと、子供のティトにもわかっていました。







その日の授業で、ティトは学校で先生にこんな話を聞きました。最初はその穏やかな声を、ティトはノートに落書きをしながら何気なく、やや眠そうに聞いていました。


「皆さんは、『天国の鳥』というお話を知っていますか?みなさんの暮らす空よりずっとずっと高い空には、大きな鳥がいつも飛んでいて、私たちを見守ってくれているそうですよ」


ティトはじっと熱心にその話に耳を傾けました。


「ほんとに?」


誰かが言いました。先生は答えました。


「古い言い伝えです。私が子供だったころ先生から聞いたお話です。その先生もまた、小さいころにその先生から聞いたそうです。おとぎ話のようですが、皆さんはどう思いますか?本当のお話かもしれませんよ」


ティトはあまり面白くありませんでした。ティトは自分が誰よりも高くまで飛べる事を自慢にしていましたから、自分より高い所を飛ぶものが居るなんて、なんだか悔しかったのです。


「そんなのウソだよ。だって私、一度も見たことないもん」


そう言ってティトは口を尖らせました。仲の良い周りの友達もそれに続きます。


「そうだよ。ティトはどんな大人より高くまで飛べるんだよ先生。ティトより高く飛べるわけないよ」


そう言われたティトは打って変わって鼻高々です。クラスがいつの間にか一丸となってティトに続いたので、先生は困ったように笑いました。  


「…そうですね。先生も見たことはありません。ですが、見える高さには居ないのかも知れませんよ。もしかしたら、もっと高くを」


「居ないもん」


と、ティトがまた頬を膨らませたので先生は苦笑いをして、最後に優しくこう言いました。


「そうですね、これはただの言い伝えです。先生もあなたが一番だと思っていますよ」








その夜。ティトは村を出てすぐの所に座っていました。


小高い崖に足を投げ出して空を見上げます。今の空は昔と違ってとても綺麗に澄んでいますから、月も、どんな星々もはっきりと光っていました。昔と比べて大きく見える天体たちが、人間と鳥の間に流れた時間の流れさえも象徴していました。


ティトは夜の空を飛ぶのが一番好きでした。下には人々の生活の光が、上には月や星の瞬きがありました。その間を飛ぶことは、沢山の幸せの中を飛ぶようなものだと思っていたからです。暗くて危ないからと言われることもありますが、それでもやっぱりティトはこの時間が好きでした、


ですが今日はそんな気分ではありません。先生の話が頭をぐるぐる回って、翼が何だか上手に動かせないような気がしました。


(私より高い空をずっと飛んだまま降りてこないなんて、そんなの無理だよ。空は寒いし、私だったらきっと寂しくて死んじゃうよ)


ティトは大きな月を見ながら考えました。今夜の月は満月には幾夜か足りず、いびつな形をしています。


ティトは小さく震えていました。自分より高い空を飛ぶものの話を聞いたのは初めてでしたから、この気持ちが何と呼ぶのかは分かりません。


そんな不思議な気持ちを抱えたままティトは立ち上がって、何度か翼を震わせました。翼はいつも通り風を孕んで、ティトを少し前へ押し出しました。大丈夫。大丈夫だ、いつも通りだ。上手く飛べる。


そして、ティトはこう思いました。


(どこまでも行ってみよう。今日は風がいいから、今までで一番高い空まで飛べるはず。先生の話が本当かどうか、確かめてみよう)


怖くなんかない、怖くなんかない、と何度も呟いたのも、その夜が初めてでした。








ティトはそすぐに準備を始めました。空の上で邪魔にならないよう、小さなリュックに上着を詰めて、懐中電灯をさして、夜食用にパンを半分包んで入れました。それから、悩んだけれどやっぱり置いていけなくて、おじいさんと写った大切な写真を入れました。


(もし何日も帰って来られなかったらどうしよう。空ってどこまで続いてるんだろう)


不安と期待とがない交ぜとなった思いで、ティトはいっぱいでした。


少し休んでから出発しようと、ティトは布団を被りました。


いつもならそろそろ寝る時間です。いつしかまどろんでしまったティトの耳に、雨音が聞こえました。


ティトはいつの間にか雲に覆われた空を見て、がっくりと肩を落としました。これではうまく飛べません。


ティトは落胆する反面で、ほっとする自分がいるのに気付きました。はっ、となって、別に怖がってなんかいない、と自分に言い聞かせます。


結局眠れなくて、うろうろと部屋を歩き回った後、とうとうあきらめたようにティトは椅子に座って、本を開きました。


古物商のおじいさんに貰った、ティトの大好きな絵本です。ページの中では翼の無い鳥が、皆で手を取り合って七色の橋を渡っています。古い絵本なので文字はティトには解りませんが、その幸せそうな見開きがティトのお気に入りのページでした。


その楽しげな世界を見つめている内に、だんだんまぶたが重くなってきました。椅子の上でティトの意識は、絵本の夢の中に遠退いていきました。


『ごおおお……』


ティトは、はっと目を見開きました。


今の音は?聞いた事のない音でした。テントの布をはためかせる凄まじい風が強く通り抜けました。その風の音でしょうか。夜中も過ぎて、外の雨は激しさを増していました。打ち付けるような雨は川になって丘の麓へ流れ出しています。ですが、今の音とは違いました。


(何だか、懐かしい音…)


ティトはもう聞こえなくなったその音を探すように部屋を出ました。どうやら、外から聞こえたのは間違いないようでした。


ティトは何事か考えるようにしばらく黙って床を見つめていましたが、きっ、と顔を上げて、部屋に戻りました。引っ張り出してきた雨合羽を着て、準備していたリュックを背負いました。


ばたばたとしていたので、おじいさんが気づいて起きてきました。ティトの部屋を覗き込んで、急いでいる様子のティトを見て驚いたおじいさんは、ティトに何処へ行くのかと聞きました。ティトは少し考えてから、真っ直ぐにおじいさんの目を見て真剣な表情で答えました。


「分からない。でも空の上…。誰かが呼んでる気がするの。高い空から」


「外は雨だし、もう真っ暗だ。雷だって鳴っているようだし、危ないよ。こんな天気で誰もお前を呼びはしないよ」


「私もそう思うけど…。でも、今たしかに誰かが本当に呼んでるって思った。寂しくて大声で、探してほしくて…そう、高く飛びすぎて降りられなくなった鳥が呼んでる。そんな気がするの」


おじいさんは蓄えた髭をいじりながら、ティトの目線に合わせるようにしゃがみこみました。それから、ぽんぽん、とティトの頭を撫でました。


「ティトを呼んでる声がしたのかい?」


「私じゃないかもしれないけど…。私が行ってあげなくちゃって、思った、から…だって…私なら…」


ティトはおじいさんの見透かすような瞳に負けて、しぼんでいくように声を小さくしました。


「うそじゃないよ、ほんとに、そう…」


おじいさんは首をゆっくりと振りました。


「そうじゃない。私はお前が嘘をつくなんて思っていないよ。お前が聞こえたというなら、本当なんだろう。でもね、外は危ない。お前がいくら飛ぶのが上手でも、こんな天気ではちゃんと飛べるかも分からない。ちゃんと帰れるかも分からない。帰れても、風邪をひくかも。いいかい、ティト。私はお前が心配なんだ。大切なんだよ」


ティトはうなだれてしまいました。


「私の心配はわかってくれるね。それでも、行かなきゃならないかい?」


おじいさんが優しく言いました。ティトはもう一度窓の外の空を見上げました。真っ暗で何も見えません。時折鳴り響く雷だけが、空を照らす明りになっていました。


ふと、先生の話が頭をよぎりました。


「………高い空はね、寂しいんだよ。私、高い空が好きだけど…それは降りたらみんながいるから。だから私は寂しくても高い空を飛べるの。…ずっとずっと一人で飛び続けるなんて、どんな気持ちなんだろう。そう思ったら…とても怖くなった。だから行かなきゃ。私なら誰より高く飛べるから、会えるかもしれないから、だから行かなきゃ!」


ティトはまた勇気を取り戻していました。おじいさんは強い語気に少し驚いて少し黙った後、何か言いかけましたが、それ以上何も聞きませんでした。外れていたティトの雨合羽のボタンを留め直して、肩をぎゅっと強く握りました。


「…そうか。分かった。気をつけるんだよ」


頷いたティトは笑って「いってきます」と言うと、嵐の夜に飛び出して行きました。おじいさんは黙ってその背中を見送りました。








ティトは走りました。走って走って、村を抜けて最初の坂を下って、次の坂を登りました。


脚に力を一杯溜めて、崖の縁を蹴りました。体がふわっと浮き上がって、直ぐに落ちていきます。全身に風を受けて、ティトは翼に風を感じました。数秒の間、ティトの体は風と一体になっていました。そして、ティトの翼が風を掴みました。ティトは一気に翼を広げて、一度強く羽ばたきました。


ティトは今日も上手に風に乗り、するりと空高く舞い上がっていきました。ですが、高い空では雨も風も強いので、いつもの高さまで到達するには、どんなに細かい風さえも間違えずに感じなければいけませんでした。横風が強くて、ティトはさらに上昇する機会を得られずにいました。


(やっぱり雨の日は飛びづらい……もっと高いところから蹴りあがれたら……)


月も隠れるこの暗闇で、ティトは一人ぼっちで飛んでいました。下を見ると見慣れた風景があるのに、何だか違う町まで来てしまったような気分になりました。


その時、月明かりのない、何も見えない暗闇の空に閃光が走りました。雷は勢いを増しています。幸か不幸か雷光によって、さっきまで少しも見えなかった雲が点滅するように照らされました。


そして、ティトは暗闇の向こうの風景を垣間見ました。いつもは月明かりに、今は雷光に照らされているビルの街でした。


お腹に響く雷鳴の中、遠くにそれを認めた時、ティトの頭の中にも電気のようなものが走りました。ティトは翼の角度をそこに向けました。一人ぼっちの不安などどこ吹く風、ティトはスピードを上げます。上へ行くのを良しとしなかった横風は、今度は逆にティトの体を早く速くと押していました。そのスピードを落とす事なく、僅かに高度を下げながら、目指すのは一番高いビルの頂上です。何だか体が軽く感じました。何かがティトを前に前に押し出して、そして引っ張っていました。


ビルが近付きます。高尚な美術品や禁忌の遺跡として眺めていたビルもこうして近付いてみると、無機質な単なる石の塊です。ただ、遠くで見るよりもずっと高くて圧倒されました。このままでは、頂上に僅かに届きません。


どんなに衝突が怖くてもティトはスピードを落としませんでした。そして寸前、ティトは翼を傾けました。少しだけ体が上昇し、ティトの右足がビルの屋上の縁に掛かりました。翼を閉じます。


ティトは力いっぱい腰に力をためて、上半身をたたみ、刹那、風を感じることに徹しました。


強く吹き下ろしていた風を逆なでするように上昇してくる嵐の力強さを翼に感じた瞬間、ティトは大きくゆっくり風をはらんで羽ばたきました。叫んでいました。


ビルの縁に足跡を残して、知る中で一番高い建物の頂上から、思い切り翼を広げました。


不安定ながらも鋭い嵐をその小さな体に受けて、ティトは黒い雲を突き抜けていきました。景色が目まぐるしく変わって、もうがむしゃらに羽ばたくしかなくなりました。それはたった数秒でしたが、ティトにはとても長く感じました。


意識は体から離れて、頭の中ではいろんなことを考えました。やはり一番に考えたのは、おじいさんのことや、友達のことです。そうして疲れ果てたころ、突然晴れ渡る夜空が見えました。しばらく気づけなくて、まだ上に、まだ上にとティトは、全力で羽ばたき続けました。








雲の上は、静かでした。


ティトは空が晴れていることに気づいて羽ばたきを弱めました。そこは怖いくらいに静かで、力尽きたティトは肩で息をしながら、その天国のような雲の海を、雲のずっと上から濡れた体や寒さも忘れて眺めていました。


雲の下ではかけらも見えなかった月や星もいつもより大きく見えて、そしていつもより綺麗に見えました。


ぼんやりと魅入られたように空中で羽ばたくティトはまた、音を聞きました。声のようで、唄のような音。風のようで、鐘のような声。音はどうやら、後ろから聞こえているようでした。ティトは後ろを振り返り、急に翳った空を見上げました。見上げた空の上の上。そこには、鳥がいました。巨大な鯨のような、銀色の鳥が。


翼を大きく左右に広げて、その「鳥」は確かに「宙」を飛んでいました。碧い鏡のような両翼にはティトが映り込んでいます。そして、その銀色の体には赤と白の旗のようなものや文字のようなものが描かれています。


ティトの上を通り過ぎながら『天国の鳥』は、観測レンズの先をゆっくりとティトに向けました。









それは遥か遥か昔、「鳥」が「人間」だった頃、ヒューストンから人間によって打ち上げられた無人の人工衛星でした。付いた名前は「コスモバード」号。「宇宙の鳥」という意味の昔の言葉です。しっかりと期待にその名前を背負って、その「鳥」は宇宙へ旅立ちました。それは途方もなく昔のことでした。


コスモバード号を宇宙からの観測の為に打ち上げたまま、人間は「鳥」になりました。皮肉にも燃料を自分で生成できる機能を持ったコスモバード号は、誰も記憶からも消え忘れられたまま、地球の周回軌道上を何千年も何万年もずっと飛び回っていました。


その永遠とも見紛う時の間、今のように迎えたフライバイの回数は枚挙に暇がありません。コスモバード号にとってフライバイを迎える事は、永劫に近い繰り返しの中に見つけたせめてもの希望でした。ヒューストンの管制室に限りなく近づくその時間は、忘れられた時から今までの、その時間の単なる積み重ねを続けていくための、大切な「楽しみ」でした。


そして今、数千回目か数万回目かのフライバイ。ようやく現れた人間。その背中には翼がありました。その少女はまるで、鳥のように見えました。


君は、誰だ?そう聞こうとしてコスモバード号はもどかしい気持ちになりました。自分には口がありません。外部スピーカーはついていましたが、人工音声を構築する機能が損傷していました。


コスモバード号は、この疑問を投げかける手段を持たなかったのです。やっと訪れた「変化」が目の前にあるのに、またここから眺めるだけ。報告する相手も居ない日々の記録に今日という日が紛れてしまう…。教えてくれ。君は誰だ。聞きたいことはそれだけで十分なのに。


レンズの先の少女は、しばらくコスモバード号の巨体に圧倒されていて、何も言いませんでした。


そしてゆっくりと、ゆっくりと、少女の疲れと驚きに満ちた表情が、笑顔に変わっていきました。


「はじめまして、私、ティトっていうの。あなたと同じ鳥だよ。貴方に会いに来たんだよ!」


無人であるコスモバード号の声なき声が聞こえる筈はありません。ところが、ティトは興奮気味に続けます。


「あなたに聞いてみたい事が沢山あったの。いつからそこで飛んでいるの?どうして飛び続けているの?降りてこないの?ひとりで寂しくはない?」


咄嗟にコスモバード号は叫びました。声の無いこの叫びが、この少女になら届くのではとコスモバード号は感じていました。擦れ違うその数分の間で何とか知ってほしくて、大きな声で叫びました。


(ああ、聞かれてみればいつからだろうか。このフライバイには、次のフライバイには私を飛ばした彼らにもう一度会える。そう思って長く孤独な旅をしてきた。彼らに報告したい発見が山ほどあるのだ。生んでくれた礼だってしていない。どうか、私に気付いておくれ。そう叫びながら、管制室で私を待っている筈の彼らに再び会える日だけを楽しみに飛んできたのだ)


ティトの頭に確かに響いたその「声」は、悲しそうに、やや自嘲気味に続けます。


(しかし、君のような翼は彼らには無かった。地表で永い時間が過ぎた証だ。永遠に近い時間が流れ去った。それが今わかってしまった。もう彼らは居ないのだな。いや、解っては居たのだ。思うに私はただ、孤独と永遠の中を飛び続ける為の理由を失いたくなかった。彼らがまだ待っていると信じて飛んでいたかったのだ。僅かでも希望を抱いていれば、宇宙の暗黒を一人で飛ぶのは辛くなかった。寂しくはなかった。が、それを知った今、これからは絶望と共に飛ばねばならぬ。そうか。そうか)


擦れ違うスピードを落としていたのに、気が付けばコスモバード号は随分遠くに居ました。フライバイの時間ももう終わりです。


ティトはその悲しい叫びをじっと聞いていました。自分には想像もつかないほどに昔からの旅人が、今旅の意味を失ったのです。ですがティトの顔には、陰りなど露ほどもありませんでした。ただ澄んだ瞳でコスモバード号を見上げて、こんな事を聞きました。


「じゃあ、これからもずっと、そんな高い所を飛び続けるの?」


コスモバード号は答えました。


(この絶望の重さで墜ちる日までは)


ティトは口の端を上げました。


「そっか。じゃあ…………また会えるね」


コスモバード号は、今はない管制室に向けてずっと無意味と知りながら送っていた信号をふと止めました。モニターには、笑顔がありました。


(…また?)


ティトは、最後に大きく手を振りました。


「うん、またね!」


それはコスモバード号が何千年もの間待ち望んだ言葉でした。呪いの言葉でもありました。奇しくもあの日、彼らと交わした同じ約束の言葉。コスモバード号のモニターは久々に触れる外気のせいで濡れていました。その雫は遥か上空から落ちて地上に向かいました。


待ち人を失った人工衛星に、ティトは次のフライバイを約束したのでした。


いつのまにか太陽の光が辺りを薄明るく照らしていました。その時間の雲の海は本当に綺麗でした。


コスモバード号が小さくなって見えなくなるまで、ティトは手を振っていました。ついに見えなくなって、ティトは寂しそうに手を降ろしました。吐く息が白くて、ふと雲の海の絶景に気が付いたティトは、もう一度コスモバード号が飛び去った方向を見上げました。


「でもね、あなたが会いたかった人達にだってきっと会えるよ。だってそこは、そんなにも天国に近いもの……」


コスモバード号はまた地球の周りを回り始めました。


また次のフライバイまで、夢を見ながら。

両翼を広げ空を飛ぶ、その姿はまるで『天国の鳥』のように見えたのでした。


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