叶 鳶郎 VS 四肢欠損性愛嗜好(アポテムノフィリア)(1)
「斧之木巡査、ただいま帰りましたぁ」
暑いー、蝉うるせー、とぶつぶつ愚痴りながら斧之木が、ここ松葉南交番へ帰ってきた。10時すぎに朝のパトロールへ出かけたその足で、交通事故の現場へと赴き、事情聴取を行っていたらしい。いつもは11時頃に休憩をとるのだが、現在すでに12時をまわっており、彼はくたくたの様子だった。
両腕をこれでもかと天井へ向けて伸ばし、大きなあくびをする。そしてお腹をさすりながら、「飯食うから」と僕に顎をしゃくった。休憩中用のプレートを入り口にかけておけ、という意味だった。『席をはずしています』という文字と、頭を下げている2人の警官のイラストが描かれているプレートだ。僕は言われたとおり、斧之木のデスクの引き出しからプレートを取り出し、入り口のガラス窓にかけておく。
不埒な警察官斧之木と密約を交わし、彼と連絡先を交換する羽目になったあのあと、僕は学期末のレポートに追われ、それからすぐに定期試験がはじまり、1年に2度の単位争奪戦に必死だった。そしてなんとかその戦を乗り切った僕を見計らったように、斧之木は『交番へ来い』とたった一言だけメールを寄越してきたのだった。
死体安置所はおろか、警察署内ですら手錠でもはめていない限り入ることが出来ない僕に、斧之木が用意してくれたのが、いま身につけている制服である。と言ってもこれは彼のものではない。僕と斧之木では身長が約13cmほど離れており(もちろん僕の方が小さい)サイズが全く合わなかったため、彼が用意してくれた小さいサイズの予備を貸してもらっている。
それから僕は夏休みがはじまってから1週間と2日、毎日この交番に出勤させられている。斧之木が言うには、実際になりきって仕事をすることでより本物に近づける、という理屈だそうだが、要するにこき使われているだけだ。
しかし日がなパソコンとにらめっこしていた時よりも、充実感のようなものを味わうことができている。深夜3時あたりをまわらなければ眠れなかった僕が、21時過ぎに帰宅して気付いたら布団で朝を迎えていた、ということが当たり前になってきていた。疲労感がこんなにも気持ちの良いものだ、ということに気が付いたのは、僕の中での大きな変化である。
「飯、行けば」
入り口の前でぼうっとしていた僕に、二つあるデスクの片方で事務処理をしている薙朔がそう言い放った。
この薙朔という男もまた、斧之木と同じように僕の第六感的嗅覚を異常に刺激する人間の一人だった。斧之木に制服を支給された場に彼もいたのだが、文字通り鼻につく物言いをする無愛想なやつ、というのが第一印象だった。しかし僕の嗅覚が反応していたのは、もっととんでもない彼の性癖である。
数日前、たまたま薙朔が着替えをするところに出くわしてしまったのだが、あらわになった彼の上半身には無数の傷跡や、まだ新しそうな傷がいくつもあり、目を疑った。慌てて休憩室を出た僕に、部屋の中から斧之木が声をかけ、その生々しい傷のことを教えてくれた。
僕はなにを期待していたのか、薙朔は実は極秘任務にあたっていて、とか以前は前線で傭兵をして、とか言う話かと思っていたが、どっこい薙朔はただのど変態であった。いわゆるマゾというやつで、暴力行為に興奮するのだという。しかも彼は生粋のマゾヒストであり、風俗店でも手に負えない程だそうだ。SMクラブなどで働く女性たちの多くは、職業サド、つまり単に仕事としてサディストを演じているだけで真性ではない。それでは満足できない彼には、調教を施した本物のサディストたる飼い主がいて、その男性には従順だが基本的には人を信用せず、馴れ合いを嫌う性格らしい。
斧之木とは中学生のときからの知り合いであり、その後20年近く会っていなかったにもかかわらず、この松葉南交番で再会したというのだから驚きである。世間は広いようで狭いというか、類は友を呼ぶというか。
「じゃあ、すみません。お先にお昼いただきます」
僕はそのあと薙朔の邪魔をしないように、斧之木のいる休憩室でカップ麺をすすり、しばらくテレビを眺めていたが、すぐにまた交通事故の連絡が入り今度は僕も現場へ赴いた。信号のない細い道から大型バイクが飛び出してきて、運悪くそこへ自動車が衝突、バイクに乗っていた男子大学生は3メートルほど投げ飛ばされて意識不明になっていた。斧之木が自動車を運転していた女性の聞き取りをして、僕は交通整理にまわった。K市の土地柄上、細い路地が多くこのような事故は後を絶たない。誰もが加害者にも被害者にもなる危険と常に隣り合わせだ、と僕は他人事のようにそう思った。
事故の処理から交番へ戻ると、もうすぐ15時になろうとしているところだった。1日でもっとも気温の高い時間帯に外で動き回っていたせいか、僕も斧之木も汗びっしょりだ。なだれ込むように交番の引き戸を開け、二人で中へ入ると、薙朔の他にもう一人の影が見えた。僕にも見覚えのある女子高生、「水曜日の女の子」と呼んでいた彼女が斧之木のデスクでアイスを頬張っていた。