叶 鳶郎 VS 犯罪性愛嗜好(ハイブリストフィリア)(4)
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崩落はいとも簡単にはじまり、そして気付いたときにはもう足元には何もない。日常とは得てしてそういうものである。
きっかけはほんの些細なことだった。他の班に所属している俺の同僚、柘植が俺と鴇冬のいる喫煙室へふらりと入ってきたのだ。
「おい、お前ちょっと耳貸せよ。あ、鴇冬さんおはようございあす」
どうやら彼は俺目当てでやってきたらしく、鴇冬に彼なりの丁寧な挨拶をして俺を喫煙室からむりやり連れ出した。
「なんだよ、鴇冬さんに聞かれちゃまずい話なのか。女の話なら心配しなくても、あの人は誰にもしゃべらねえって」
「そんな女々しい話じゃねえよ。俺がこのあいだシャブでとっ捕まえた男いるだろ。そいつがまた弱っちいやつでさ、他になんか知ってることねえかって聞いたらすぐゲロったよ。でもそれがヤバい話でさあ…」
柘植の話はおおよそ次のようなものだった。
まずその男がシャブ、つまり覚せい剤を買っていたのは指定暴力団である雲龍会の下部組織、井錆組からであった。次第に金が払えなくなっていった男を井錆組のしたっぱ共がこき使い、ある物を運ばせていたという。それは大量の医療用のモルヒネであった。剤形は注射剤もたまに見かけたそうだが、錠剤が圧倒的に多かったらしい。
男はもちろんそれが何に使われるのかを知らなかったし、井錆組の者もほとんど知っている者はおらず、一握りの幹部だけが何らかの計画に携わっていたと見て間違いなさそうである。また事務所から遠く離れたマンションの一室へスーツケースいっぱいのそれを毎週のように運んでいた男にとって、莫大な金が動く計画であることは容易に想像がついた。
ある日いつものように運搬を終え、エレベーターの方へ向かうとちょうど、誰かが上がってくるところであった。男はとっさに見つかるまいと、エレベーターの入り口とは反対側にある非常階段へと身を隠し、カゴから降りてくる者を待った。
しばらくするときっちりとスーツを着込みネクタイを締めている男が2人降りてきた。1人は知っている男だった。井錆組の事務所で数回見かけたことのあるやつだ。彼らは談笑しながら各部屋へとつながる通路を歩いていく。
そしてはっきりと、男はこう聞いた。
「こうして天下のマトリがうちの組についているんですから、恐いものなしですよ」
そのときは男も自分が何を聞いたのか、聞いてしまったのかまったくの無自覚であったと話していたらしい。1週間もしないうちに忘れてしまうような、危うい記憶だったにちがいない。そうとすれば柘植はかなりのお手柄である。何しろ彼がこのシャブ中の運び屋を逮捕したのは、男が「マトリ」という言葉を聞いた数時間後だったからである。
クスリがきれたのだろう、大声を出し歓楽街で暴れているところを民間人に通報され、その場で逮捕された彼は、目の前にいる柘植という男がマトリと呼ばれるものであることをまず認識する。それは自分たちや井錆組の敵であるはずの存在だということは、彼のぐずぐずの脳みそでもすぐに分かったらしい。
男は拘置所の取調室で、柘植に取引を持ちかけたのだ。マトリとヤクザが共謀して何かを企んでいることは黙っておいてやる、そちらさんで煮るなり焼くなりすればいい、その代わり俺のことも見逃してくれ、と。
アホか、って小突いてやったけどなと言うと柘植はへへ、とよく分からない照れ笑いをしていたが、すぐに険しい顔になり、辺りをぐるりと見回してからいっそう小声で俺に耳打ちした。
「正直、どう思う。俺は、あの男はそんな大それた嘘吐けるタマじゃねえと思っている。とすると、考えたくはないが、この中に裏切り者がいることになるよな」
なるほど、それで念のため鴇冬の耳に入らないようにしたというわけか、と俺は半ば感心していた。柘植は筋肉バカだという俺の考えは、改めなくてはならないらしい。
俺も想像したくなかったが、柘植はもしかしたら鴇冬がその男の言うマトリである可能性も捨てきれない、と踏んでいるのである。この様子だと竹若部長にもまだ話していないだろうから、俺はよほど信頼されているのだなと少し気恥ずかしくなった。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
「そのシャブ中から直接話を聞いたお前がそう言うんだから、俺はそれを信じるよ。ひとまず様子を見てみないか。怪しいやつが特定できるようなら竹若部長に報告すればいい」
こう言った自分自身を、俺は何度呪っただろうか。あの時、すぐに竹若部長に相談していれば結果は変わっていたかもしれない、そう思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
柘植から話を聞かされた2日後、シャブ中だった運び屋の男が死んだ。移送された先の留置所で枕カバーを首に巻つけた状態で発見され、自殺と判断された。
そしてその次の日、柘植が自殺した。自宅アパートのベランダで首を吊っているところを発見された。部屋にはタイプ打ちの遺書が残されており、仕事が辛くて耐えられないといった内容だった。
会うたびに独り身の俺にこれ見よがしに写真を見せてきた娘へのさようならも、結婚当初から毎日愛妻弁当を持たせてくれている、と部内でも話題になった自慢の愛妻への感謝も何も記されてはいなかった。
もちろん彼の死は部内の誰もが納得のいかないものであったが、悲しみにくれる仲間たちを見て俺は、疑心暗鬼に取り憑かれていた。この中に必ず柘植を殺したやつがいる、俺はそう確信していた。