木造平屋 築○年
社長のミステリーサークルのような頭の上で鳩時計が四回鳴いた。「不動産屋 あいちゃん」で働くわたしの帰る時間がやってきた。
社長がたばこの煙をプカリとふかしてこちらを向いた。
「サナダさん、帰りに広森さんちへ寄っていってくれないかなあ」
「またですかあ」
「たのむよ。このまえ気弱な電話がはいったから気になって。出張代出すからさ」
「わかりました……」
広森さんはうちの店の斡旋で三丁目の借家に入居したおじいさんだ。四ヶ月ぐらい前のみぞれが降りそうな日に、中ぐらいのボストンバッグひとつ抱え、「空き部屋はありませんか」とふらふらになって店に入ってきた。つるつる頭のてっぺんに生クリームを絞ったような髪の毛にみぞれがのっていて、社長が思わず吹き出したものだ。社長はまたそれを思い出したのか「広森さん」とつぶやいてむせたが、すぐに口元をぬぐって居直った。
「それと岡山さんも」
岡山さんはフィリピンから孫を四人引き取ったおばあさんだ。こちらも「あいちゃん」で半年ほどまえに斡旋した一丁目のアパートに住んでいる。岡山さんは息子とフィリピン人の嫁から子守を任せられている。しかしその子たちは実の孫かどうか定かでない。
「私、息子とその子たちが血がつながっているように思えないんですの」
初めて岡山さんがうちへ部屋を探しにやってきたとき、わたしが部屋の説明をしていると、岡山さんはちょっと席を外していいですか、と遠慮がちにトイレに行って戻って来たあとそうこぼした。
「ほら、マスターキーね」
わたしが机の上を片付けていると、社長は二軒分のマスターキーを目の前に置いた。それから一回肩を回し、やれやれと応接セットのソファへ腰掛けて、お気に入りの小説を読み出した。
独居老人に死なれでもしたり、ワケありな客に夜逃げでもされては大変と、社長はときどきわたしに客の安否を確かめさせる。わたしがこの店に勤めだしてからこの慣習は続いていた。
わたしがここで働きだしたのは娘の千秋が小学校に上がった年だった。その娘も去年成人式を終えたから、ここにお世話になってそろそろ十五年が経つのかと思う。最初は奥さんも一緒に経営していたが、二年まえに奥さんは失踪した。今では社長とわたしだけの「不動産屋 あいちゃん」という居酒屋の名前のようなこの店では、ほかにも足腰の立たない犬を飼う中年女性の長田さんと五十代でひどい花粉症の独身男の熊澤さん、それと七十代半ばにして借金のかたに家を取られた奥野夫婦なども仲介していた。とにかくこの店には、事情ありげでよそで取り合ってもらえなかったような客がやってくる。駅前の大きな不動産屋や、洒落たコマーシャルしている店に押されながらもほそぼそと経営が成り立っているのには、こういう経緯があるからだろう。わたしはバッグを肩から斜めに掛けて、椅子を机の下に押し込んだ。社長に挨拶をして「不動産 あいちゃん」と書かれたガラスのドアを押し開けた。
「まいど」
入れ替わりでやってきたのは求人誌の配達業者だ。社長はなぜか求人誌を店に常備していて、部屋探しに来た客に手渡すのである。うちに来る客は部屋探しはもちろん、仕事を探している無職の人も多いからだろう。よくまあそういう客に部屋を斡旋できるものだとわたしは不安になったりするが、社長はあっけらかんとしている。
「新しい求人誌、ここへ置いておくからね。サナダさん」
社長が応接セットのセンターテーブルの上に積み上げたとき、夕立前のような生ぬるい風が舞いこんでパラパラと求人誌をめくり上げた。
わたしはドアを閉めて店の前に停めてある自転車にまたがった。振り返るとドアの向こうで社長がにんじんを刻むように手を振って、「すまないねえ」と口を動かしていた。
「あいちゃん」のある町から岡山さんと広森さんの住む隣町へは橋をひとつ渡る。岡山さんの部屋の前まで来るとドアノブに、「公園にでかけています」と札がぶらさげてあった。玄関横の台所のガラス戸が少し開いていて、覗くと部屋を横切った紐に中学生ぐらいの男の子のTシャツとスウェットパンツ、ティーンサイズのボーダーのAラインワンピース、園児サイズでウエストにギャザーの入ったワンピース、それと小さな男の子のTシャツと半ズボンが、まるで運動会のときの旗のように掛けられている。その下のちゃぶ台の上にはカップラーメンの空容器が五つ置きっぱなしになっていた。
留守だった岡山さんの家をあとにし、十分ほど自転車を北に走らせて広森さんの借家の前に来た。できたら気づかれず安否だけを確認したい。広森さんにつかまると部屋に招き入れられ、茶菓子を出され、それからアルバムを広げられて、教師時代の昔話を延々と聞かされるからだ。
こちらも同じく玄関横の小窓からのぞいて、電気のメーターだけを見て帰ろうと背中を向けたときだった。
「サナダさん」
と、声をかけられた。振り向くと広森さんが急須を持って立っていた。
「そろそろ来るころだと思ってお茶の用意してたんだよ。さあ上がって」
広森さんは玄関ドアを全開にして、これ以上ないというほど嬉しそうな顔をしていた。わたしは断り切れずに半畳ほどの小さなたたきに靴を脱いだ。
居間へ行くと座卓の上にはすでにアルバムが置かれていて、広森さんは、
「えーっと今日はどこからだったかな」
などと言う。そしてここからだっけ? と、前に見せたページを広げた。アルバムの横に置かれた菓子椀には、グラニュー糖がまぶされた黄色やオレンジや緑の小袋入りゼリーが盛ってある。羊羹をカステラでサンドしたお菓子もある。ゴミ箱にはすでにゼリーが入っていた小袋がいくつも捨ててあった。広森さんはなぜか子供みたいにお菓子ばかり食べている。
「広森さん、またお菓子しか食べてないんじゃないんですか」
と言うと広森さんは、
「そんな話はあとでいいから、さあさあ」
と、座布団をわたしの膝に押し当ててきた。
しぶしぶ座ると広森さんはわたしの湯飲みにお茶を注いだ。沸騰したてのお湯で淹れたような熱いお茶で、猫舌のわたしはすぐに飲むことができない。もう少し冷めてからと湯飲みに口を付けずにいると、「じゃあいくよ」と、広森さんは嬉しそうに話し出した。
最初に就任した小学校では六年を受けもったとかで、ふさふさ頭の広森さんと生徒の修学旅行の集合写真に続いて、子供達が走っている運動会の写真を十枚ぐらい見せられた。広森さんは中間に自分の私生活の写真を入れながら、次に受けもったクラスの集合写真と運動会の写真を交互に見せる。新婚旅行の写真、次の学年の集合写真、その学年の運動会の写真、今度は家族ぐるみの花見の写真、また次の学年の集合写真、運動会……という具合である。結局広森さんはそれを十三回ぐらい繰り返した。
広森さんの家を出たのは六時を回っていた。広森さんの家の前の道をまっすぐ西へ行くとわたしの住む町である。これから行きつけのスーパーマーケットに寄って値引きになった物を買いあさり、自宅に着くのは七時前になるだろう。もしかすると娘のほうが先に帰っているかも知れない。
通りを曲がると灯りが点いたリビングの窓が小さく見えて、娘の千秋が先に帰宅しているのが分かった。わたしは自転車のペダルをぎゅっと踏み込んでスピードをあげた。カサカサとレジ袋がはためいた。六月の夜七時はそろそろ暑い。
娘は保育園の厨房で給食を作っている調理師だ。二年前に就職したばかりなのにいつの間にか我が家の稼ぎ頭になってしまい、毎月三万円家に入れてくれている。
「また広森さんにつかまったの?」
「今日はフルコースで見せられたわよ」
言いながらわたしが割引になった弁当を食卓に並べると、娘は給食の残り物を出した。
「炒り卵と蒸しパンかあ。助かっちゃうわね」
「いい職場に就職したでしょう」
わたしは本当に、とうなずいてお茶を入れ、テレビをつけた。それから食卓についてふたりで「いただきます」と手を合わせ、食事を始めた。
「でももらってくるばかりじゃなく、たまには家でも作ってよ。結婚したらどうするの」
「大丈夫。そのときは作るわよ」
そう、娘はもうすぐ結婚するのだ。一昨年高校を卒業したばかりだから結婚はまだ早いような気もしたが、相手は一回り歳上で県庁の職員、バツイチだが次男というので、まあいいかとオーケーした。「体ひとつで来てください」と、冗談交じりに笑って言う相手の気持ちは、母子家庭の我が家にとってありがたいことだった。世間並に披露宴にかけてやれるような蓄えなどあるわけもなく、娘の自動車学校へ払ったお金を最後に貯金は尽きてしまった。
「タカハシさんっていい人みたいだね」
「ふふ、お母さんもそう思う?」
「仕事も県庁なら安心だしね。お父さんみたいに職を転々とするのはもうたくさんだ」
「彼は大学を上がってから県庁一筋で、皆勤賞ものよ」
「そりゃあいい」
わたしは炒り卵を口に放り込み、ゴクっと飲み下した。
夫、つまり千秋の父親は、一つの会社に長くて二年、そのうえ毎回違う業界に転職した。中には次の職場が決まるまでひとつき遊んだこともある。何歳になっても給料は初任給から始まり、ボーナスなどまともにもらったことなどない。一度だけ三年続いた会社にいるときのボーナスで、空き家になっていたわたしの祖母の家をリフォームした。考えてみれば奇跡だったと思う。けれどその後は転職に拍車がかかり、勤めた期間は数ヶ月単位というところだろうか。いつになっても収入は安定せず、まとまった出費に対応することが全くできなかった。たとえそれが子供の学校へ払う遠足代ぐらいだったとしてもである。そしてあげくの果てに夫は女と失踪した。
そんな夫とわたしが離婚して三年が経とうとしている。毎月確実に一定金額が入る娘の給料と、わたしのパート収入の七万円。今になってやっと生活が落ち着いてきた。酒、タバコはたしなむ程度、ギャンブルもせず暴力をふるうこともなかった夫と、結婚しているときのほうが生活が不安定だったというのもおかしな話である。
夕飯を済ませると娘は風呂に入った。わたしはこの間に洗い物をし、家計簿をつけはじめた。今月は思いの外の出費があったのである。いつもなら五千円ぐらいで収まるガソリン代が、タカハシさんのお宅に何度か伺ったせいでいつもより三千円ほどオーバーしていたのだ。しかもその都度茶菓子などを持参したのもこたえた。
電卓を弾いていたわたしの顔から血の気がひいた。
「終わっている――」
思わずそんな言葉が口からこぼれた。
わたしは椅子に反り返って天井を眺めた。蛍光灯の傘が食用油と埃で汚れている。ザーッと風呂場でかけ湯の音がした。どこの窓が開いていたのかカナブンが飛んできて、パチンパチンと台所の蛍光灯に当たっていた。
翌日出勤すると、社長が一人の老婆を相手に接客をしていた。店に入って行くなり社長はわたしに接客を振って、自分は応接セットのソファで小説を開いた。わたしはその客に挨拶して社長が開けていたファイルを受け継ぎ、座ったばかりの社長にお客さんにお茶を出すよう頼んだ。社長はしぶしぶ給湯場へ立って行った。
真っ白くおしろいをはたき真っ赤に口紅を塗った老婆は、水谷さんといった。水谷さんは大きめの紙の手提げ袋をふたつ椅子の脇に置いていた。
「どのような物件をお探しですか」
わたしがその紙袋から目線を戻して言うと、水谷さんは腕組みをして椅子にふんぞり返った。
「あんまり新しくない木造で、近所付き合いはそこそこあるところを。その、そこそこっていうのが肝心なんだよ。毎日顔を合わすような付き合いはいやだ、顔を合わすのは三日に一回ぐらいがいいね。しょちゅう覗かれちゃたまんないんだよ。何しろ餓死するつもりでいるから」
「えっ、餓死?」
わたしは思わず水谷さんの顔を見た。
「そりゃあまた難しい注文ですな」
ソファで小説を読んでいた社長がいきなり口を挟んだが、水谷さんがキッとにらむと、社長は肩をすくめてまた小説へ顔を埋めた。
確かに「餓死」と聞こえたが、社長はそのあと何も言わずやけに平然としている。わたしは水谷さんの顔をチラチラ見ながらファイルをめくり、比較的庶民的な地域の十件ほどを示した。水谷さんは何もなかったかのように目を細めて紙面に顔を近づけた。その隙にもう一度紙の手提げ袋に目をやると、ひとつには着替えやタオルなど生活品、もうひとつには額縁とバナナが入っているのが見えた。
「あ、それと平屋で」
水谷さんがいきなり上目でわたしを見て条件を追加した。
「はい、ちょっとお待ちください」
とっさにわたしは背筋を伸ばして、またファイルをめくり始めた。――餓死――わたしの頭の中で、その言葉がぐるぐる回っていた。
わたしが物件を探している間に水谷さんは椅子から立ち上がり、壁に貼られた物件案内を見たり町内の地図を見たりして店内を物色し、そのうち社長のいる応接セットのところに行った。水谷さんがセンターテーブルの横で止まると社長は水谷さんを見上げて、「よかったら、一冊どうぞ」と求人誌を差し出した。水谷さんはそれを手に取って社長を一瞥し、わたしのデスクの前へ戻ってきた。
「それと、ルルちゃんの写真を掛けられるいい鴨居があること」
「ルルちゃん?」
「これを飾りたいのよ」
水谷さんは紙袋に求人誌を入れ、代わりに茶トラの猫の写真の入った額縁を取り出し、
「あ、そうそう。大家さんがいい人でないこともね」
などとまた変なことを言う。もちろん中には評判の悪い大家さんもいることはいて、今日の物件の中にもたまたまそんな大家が混じっていた。
「良くない大家さんと言うと語弊がありますが……それはこちらになります」
わたしは二軒の物件を机の上に出すと水谷さんは二つを見比べて、さらに言った。
「そして少し隙間風のとおるところをね」
「はあ?」
特に最後の意味がよく分からなかったが、とりあえずその二軒は老婆の言ういくつもの条件に当てはまっていた。
「お茶をどうぞ」
接客しているわたしに代わって、社長が水谷さんの前へほうじ茶の入った湯飲みを置いた。水谷さんは湯飲みを掴んでぐるりと一回まわし、中をのぞき込んで、ポケットからハンカチを取り出して口にあてた。
「あたくし、ジャスミンティーしか飲まないのよ。下げてくださる?」
「残念ですなあ、おいしいのに」
社長はいったん肩をすくめ、差し出した湯飲みを持ち上げて一口飲んで見せた。そしてそのまま湯飲みを持って行ってまたソファに座った。ハンカチを口に当てた水谷さんの手は肉着きが薄く鳥の手のように筋張って、カラカラに乾いているように見えた。餓死。またその言葉が頭をかすめた。
水谷さんが一刻も早く入居したいと言うので、わたしは社用車で現地に案内することにした。一軒めは県道から二筋ほど入った住宅街だった。
水谷さんは着くなりたたきへ靴を脱ぎ捨て部屋へ上がり込んだ。最初にトイレのドアを二~三度開け閉めした。次に奥のふすまをガタガタ揺らした。そして急に裏口に回って、面した細い裏通りを吟味するように見渡した。
「ここはダメだ。次に連れていって」
水谷さんはそう言いつつ上がり端のわたしのところへ戻ってきた。裏道の人通りが少なすぎると言うのである。そのうえルルちゃんの写真を掛けるための鴨居の木目が気に入らないと言うのだ。わたしは風呂とトイレは別になっていることや、洗濯場が室内であることなどを説明したが、水谷さんは全く違う方向を向いたままうんともすんとも言わなかった。
次にわたしは水谷さんを隣町の借家に案内した。この辺は昔ながらの団地で、物件は三軒長屋の左端である。水谷さんはまた靴を脱ぎ捨てて上がり込み、
「う~ん、ここの木目は良いけど建物自体が貧弱ねえ。悪いけどあなた、さっきの部屋にもう一度連れて行ってくださる。とにかくアタクシとルルちゃんが安住できるところが欲しいの」
と言った。やれやれとため息をつくわたしを、水谷さんは急かし声とともに部屋から引っ張り出した。
そのあと一軒目にもどったかと思うとまた二軒目にと言われ、わたしたちは行ったり来たりした。半日ほど付き合い、結局三軒長屋の左端の借家に決めた水谷さんは明日にでも荷物を運ぶと言って、そのまま契約をして帰っていった。
わたしと社長は水谷さんを玄関先で見送って店に入った。
「へっ、今日の客は餓死だとさ」
社長が少し呆れた調子でたばこを一本くわえ、自分のデスクに向かった。やはり社長にも聞こえていたんじゃないか、と思いながらも聞き返すことなくわたしもデスクにつくと、向かいで社長が「不動産屋 あいちゃん」と書かれた茶封筒を引き出しから出した。
「不動産屋なのにあいちゃんってネーミング、変わってますよねえ。昔に飼っていた犬か猫の名前からでも取ったんですか」
と声をかけると、社長は封筒を見たまま口の脇からプカプカと煙を出した。
「逃げられた奥さんの名前だよ。愛子っていうんだ」
「えっ、そうだったんですか」
わたしの脳裏に、二年前まで社長と一緒にこの店を経営していた奥さんが浮かんできた。奥さんはギャンブルとお酒とたばこが好きな水商売風で、酒で焼けたガラガラ声でいつも社長をまくしたてていた。
「なんか生活が大変そうで、それでまあ……少し送ってやろうかと思ってね」
社長はそう言って、空の封筒の中へお金を入れる素振りをした。どうやら今までも、その奥さんからときどき金の無心の電話が入っていたらしい。
「社長、普通の封筒にお金入れちゃだめですよ」
「えっ、そうなの?」
そのたびに社長は「あいちゃん」と印刷された封筒にお金を入れて送っていたのだという。社長は「そうかあだめなのかあ」ともう一度繰り返して、椅子の背もたれにもたれてため息を吐いた。それからその姿勢のまま顔だけこちらに向けてわたしに言った。
「あ、帰りまた広森さんと、今日は長田さんちもね。出張代出すから」
今度はわたしがため息を吐いて、水谷さんの書類を引き出しにしまった。そのときふと思いついた。
「社長、今回は出張代いらないので、その代わりこの週末の金、土、日と休ませてください」
「えー、三日も。困るなあ」
「じゃあお客さんのところに寄りませんよ」
「しかたないなあ。わかったわかった」
社長はブツブツ言いながら立ち上がり、壁に貼ってあるカレンダーに、「サナダさん、休み」と書き込んだ。
わたしはショルダーバッグを肩から掛け店を出た。店の前に停めていた自転車のサドルを触ると、直射日光のあたっていたせいか目玉焼きが出来そうなぐらい熱くなっていた。わたしはそうっとまたがって、腰を浮かして自転車を漕ぎ出した。この先の橋を渡って左に曲がると長田さんち、右だと広森さんちだ。わたしは広森さんにつかまると長田さんの家に寄るのが遅くなると思い、先に長田さんの家に寄ることにした。
長田さんの部屋の前まで来るとかすかに犬の糞の臭いがしていた。呼び鈴を鳴らすと長田さんはすぐにドアを開けてくれたが、部屋の中はさらに臭っていた。彼女の肩越しにリビングが見えていて、そこでは茶毛の犬が横たわっていた。この犬はもう二年以上も寝たきりなのだ。あばら骨が浮くほどやせ細っていて、広げたおむつをお尻にあてられたままこちらを見ている。どうやらおむつの交換の最中だったらしい。犬の枕元に犬のおもちゃと食品トレーに入った水が置かれているが、果たしてあの犬はまだ起き上がって遊んだり水を飲んだりできるのだろうか。
充満している糞の臭いが鼻をついてわたしの目に涙が浮かんできた。だが彼女は長時間この中にいるのでおそらく麻痺しているのだろう。玄関に立っているわたしに長田さんは屈託のない笑顔で、ごきげんいかが、と声をかけてきた。
「おかげさまで元気です。毎日暑いですね」
とわたしが返すと長田さん汗をぬぐって、
「あ、ちょっと待ってくださいね」
と、思いついたようにリビングに入って行き、犬の頭の上にある窓を開けた。それから犬にも「ちょっと待ってね」と言い、犬の頭を撫でて戻ってきた。
長田さんは玄関マットの上に正座し、わたしににっこりと笑いかけた。わたしもつられてほほえんだ。しかし長田さんは何を話すでもなく、ニコニコしてわたしを見上げているだけだった。
「お天気いいわねえ」
「ええそうですね」
わたしも特に話があって来たわけでもないので、ただ愛想笑いしつつときどき涙をぬぐった。
――シュー、シュー――
そのときである。さっき開けた窓から年配の女が顔を覗かせ、いきなり部屋の中へ向けてスプレーを噴射してきたのだ。
「まただわ、あの女!」
飛び上がった長田さんは、ものすごい足音を立てて窓に駆け出していった。
女が部屋へスプレー缶を投げ込んでそのまま逃げ出すと、長田さんは窓から体を乗り出し、「ばかやろー」と怒鳴った。そしてせわしなく室内を見回したかと思うと、とっさに犬のおもちゃを掴んで外へ投げた。長田さんは女の逃げて行った方向に拳を振り回した。
「なんだか分からないけど、ときどきあの人やってくるのよ」
女の後ろ姿に向かって何度も拳を振り回していた長田さんは、投げ込まれたスプレー缶を拾って玄関へ持って戻ってくるとまたわたしの前に正座して、ほほほ、と笑った。見ると長田さんの手に握られているのは消臭スプレーの缶だった。わたしはいつも穏やかな長田さんの豹変ぶりにそれ以上言葉をかわすことができなくなり、挨拶だけしてドアを閉めた。
外に出ると長田さんの部屋の前では相変わらず犬の糞の臭いがしていた。自分にも臭いが移っているような気がして、Tシャツの胸元を引き寄せて臭いをかいでみたがよく分からなかった。次に行くのは広森さんの家だ。まあいいか、と思って自転車にまたがると、塀の陰からこちらを見ているさっきの女がいた。女はわたしと目が合った瞬間体を翻して走って行った。女は途中で対向してきた自転車の男にぶつかりそうになったが、それをかわしてさらに駆けていった。キーンコーンと鳴り始めた五時の時報と、自転車の男の「ばかやろー」とが重なって聞こえた。
広森さんはやはり家の前でわたしを待っていて、自転車を停めるが早いか「さあさあ」と背を押され、部屋に招き入れられた。案の上広森さんのところで足止めされて遅くなり、スーパーの半額弁当を買って帰ると、ちょうど家の庭で車から降りた千秋に会った。
弁当を食卓に広げお茶の用意をして、千秋が席につくのを待った。
「やっぱり出て行くの?」
「彼の職場が遠くなるからね」
千秋はハンガーに掛けたジャケットにブラシをかけ、洋服ダンスへしまった。
その週の土曜日はうちとタカハシさんの親族の顔会わせだった。週末わたしが休みを取ったのは、近くの料理屋の二階を借りて食事会を開くからだった。休む理由を社長に聞かれ、わたしが食事会の話をすると社長は言った。
「もうそんなに大きくなったんだねえ、千秋ちゃん。子供がいない僕にはまるで我が子のようだから、食事会に出席したいなあ」
いったいどこが我が子のように思うのか理解に苦しんだが、そんなことを言って食事会に着ていく服を見繕い始めた社長を、わたしはあわてて阻止したものだ。
「遠くなるって言ったって、ほんの十分ぐらいでしょう。ここで一緒に住めばいいじゃない」
「でも彼が気を遣うでしょう」
部屋着に替えた千秋は、これ――、とバッグから給食の残り物を出した。今日は油琳鶏とみかんプリンだ。わたしがまず油琳鶏をひと切れ口に入れると、千秋が「味はどう」とわたしの顔を覗き込んで尋ねた。自分が作ったのだと言う。「おいしい」と答えると、千秋が今度は「これ見て」と、一枚のパンフレットを差し出した。ライトグレー地に淡いピンクのラインが入った壁のマンションの写真が載っている。その下に三LDKの間取りも載っている。駅前の大きな不動産屋さんで決めてきたふたりの新居だそうだ。
「人生の門出に、うちの店の仲介では嫌だよな……」
わたしは油琳鶏を噛みながら体をひねって六畳間に目をやった。六畳間には千秋の荷物が積まれている。ふと、「衣類」と書かれた段ボール箱からセーターがはみ出しているのが見えた。去年一緒に買いに行ったミントグリーンのセーターだ。
「暑い、暑い」
千秋がゴムで長い髪を束ね、食卓脇の扇風機スイッチを入れた。それからキッチンへ行って蛇口をひねり握っていたハンカチを濡らした。千秋は絞ったハンカチでうなじを冷やしながら食卓に戻り、油琳鶏を口に入れた。うん、おいしい、と満足そうに言う。
千秋の首筋に後れ毛が貼りついている。この子のうなじってこんなにきめ細かで白かったっけ? この子は今年何歳になったのだったっけか――。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
わたしは椅子を少し引いて背筋を伸ばし、半額弁当のふたを開けた。おかずはエビフライだった。材料費の節約なのかいつもなら三尾入っているところが、二尾しか入っていない。
「食べる?」
「うん、ありがと」
わたしは二尾入っているエビフライのうち、一尾を千秋の弁当の上に乗せた。これまでエビフライが三尾のときでも千秋に分け与えたことなどなかったのだ。昔から親はお腹がすいていても我慢して子供に食べさせるものだと聞いていたが、わたしは自分がお腹がすいているとどうしてもそれができなかったのだ。けれど今日はわたしが一尾で娘が三尾だ。いまごろになってようやく親らしいことができた自分に少し満足した気分になった。
「サナダさん、今日は広森さんちと……それと水谷さんちもね」
社長はこの前休みをあげたでしょうと、恩着せがましくまたお客さんの家に寄るよう言ってくる。
「あの休みは前の訪問の代償ですよ」
と言い返したが社長はもうたばこへ火を点けて、お気に入りの小説をめくり始めていた。こうなると社長にはもう何を言っても動かない。わたしはしかたなく帰り支度を整え店を出た。
水谷さんの家の前まで来ると、近所の子供たちが数人集まってカードを出し合って遊んでいた。わたしは子供たちをよけて自転車を停めた。野良猫が子供たちの横でポテトチップスをもらって食べていた。
水谷さんの家の呼び鈴を押すとドアの向こうから、「開いてます」という声が小さく聞こえた。わたしがドアノブをひねって小さく挨拶し玄関へ入ると、水谷さんはすでに玄関にスッと立っていた。靴箱の上に洋皿を水盤代わりにして花が活けてあって、素人目に見てもこれはただの思いつきで活けたのではなく、「ナントカ流」なのだろうと思える。わたしが活け花をしげしげ見ると水谷さんは体を翻して、
「さあ上がって、あちらへ座って」
と、わたしを居間へと促した。
通された居間のテーブルの上には手編みのレースのテーブルセンターが敷かれ、飲みかけの紅茶が置いてあった。やがて水谷さんが白いレース柄のカップを持ってきてわたしの前に置いた。水谷さんがそのカップに紅茶を注ぐと、ジャスミンの香りがふわっと舞った。
「どうぞ、あなたも召し上がって」
水谷さんはそう言うと小指を立てて飲みかけの自分のカップの取っ手を持ち、金色の縁に唇をあててするすると紅茶をすすって見せた。そして、あたくしこれしか飲まないのよ、とあごをしゃくらせた。その拍子にきゅっと首に筋が入る。
「水谷さん、少し痩せられました?」
と、わたしが聞いても何も答えず、水谷さんはまたジャスミンティーをすすった。
水谷さんの部屋のタンスは白い木製でデコレーションケーキのようなごてごてした彫刻が施されている。ドレッサーも白で、金色に光った化粧品の容器がいくつも並べられている。すぐ隣の部屋は寝室ではシンデレラ姫が眠るような天蓋のついたベッドが占領していた。どれを見ても高価そうで、いささかこのアパートには不釣り合いなのだ。そして鴨居にはルルちゃんの写真が入った額が掛けてあって、その横のフックになぜかバナナが入ったネットがぶら下げてある。
「なにじろじろ見てるの」
「え、いえ、高そうな物ばかりだなあと思いまして」
「高そう、じゃなくて、高いのよ。アタクシお金持ちなのよ」
じゃあ金持ちがどうしてうちの店なんかの世話になったんだ? そんなことを考えつつ出されたジャスミンティーに口をつけると、ちょうどいい具合に冷めていた。
「ちょっときてちょうだい」
わたしがジャスミンティーを味わいながら飲んでいると、水谷さんがいきなり立ち上がりわたしの手を引いた。
つれていかれたのは台所だった。水谷さんは片方の手を腰に当て、胸を反らしてもう片方の手で冷蔵庫を指した。
「もう五センチ奥に置きたいの」
「このままでもじゅうぶん使えるじゃないですか?」
「だめだめ、見てごらん。このままだと向こうの窓に手が届かないでしょう」
「そこの窓、開ける必要ないじゃないですか」
けれど水谷さんはどうしても五センチ右に移動させたいと言って譲らない。言っているうちに自分はもう冷蔵庫に手を当てて、わたしに一緒に押すように言った。しかたなくわたしは水谷さんと冷蔵庫を押した。
移動させ終わると水谷さんは冷蔵庫のドアを開けた。
「ところが今ではこのざまよ」
中にはミネラルウオーターのペットボトルが一本と、ジャスミンティーの葉の瓶しか入っていない。わたしが呆然と見つめていると、水谷さんは「ふふん」と鼻息を吹いてドアを閉めた。
水谷さんは冷蔵庫をよけて窓を開け閉めし、「まあいいわ」とつぶやいた。そのあとまた居間へつれられていき、冷めたジャスミンティーを飲みながらルルちゃんの生い立ちを聞きかされたのだった。
四時の広報と同時に水谷さんのアパートを出た。水谷さんのアパートの横の路地を左に曲がって左へ行くと広森さんの住むアパートだ。
広森さんの部屋の前まで来るとわたしはなるべく音を立てないように自転車を停めるのだが、どういうわけかいつも感づかれる。今日も、
「あ、サナダさん、入って入って」
と背後から聞こえて、振り返ると広森さんが玄関を掃除しながら待っていた。
部屋に招かれると今日もすでに座卓の上にはアルバムと茶菓子が用意されていて、お茶は相変わらず飲めそうもないぐらい熱かった。座布団はいつも同じの朱色の唐草模様で、これがなんだかわたし用になってきているような気がする。わたしが座布団に腰を下ろすと、広森さんはわたしの斜向かいに座った。この前の続きだから、たしか今日は中学校の教頭に赴任したというところからである。
広森さんは広げたアルバムの写真を一枚説明するごとににじり寄ってきた。たまに一呼吸おくとわたしを見つめて、
「お菓子どうぞ」
と声をかける。今日の茶菓子は野菜の形をした一口カステラだ。わたしはその一呼吸のたびにカステラをひとつだけ口に入れるのだが、そのたびに広森さんは嬉しそうな顔をする。そしてわたしにとっていい具合に冷めたお茶に口をつけようとすると、広森さんは冷めたのを見つけて熱いお茶に入れ替えてしまうのだった。
そんなのを十五回ぐらい繰り返した頃、西の窓から見えていた夕日が見えなくなって柱時計が六回鳴った。広森さんは気がつくとわたしの真横にまでにじり寄って来ていた。ちょうど定年前の校長室で写った、今のつるつる頭に近い広森さんの写真を見せられていた頃だった。
わたしがいとまごいをすると、広森さんはまだいろいろ食べ物があるからとわたしを引き留めた。そして茶箪笥の下の扉を開けるとするめの袋を出して、
「サナダさん、ちょっとこれを噛みちぎるように食べてみてくれないかい」
と下足を一本取り出した。それから「早く」と言って、するめを噛みちぎる素振りをした。
しかたなくわたしはそのするめを指先でつまんで口に運び、糸切り歯でぐいっと噛みちぎった。咀嚼しているあいだ広森さんはわたしの口元から目を離さず、そのするめを飲み込むとまたもう一本差し出してきた。そして袋の半分を食べきったあたりで広森さんはゴソゴソと茶箪笥をさぐり、次に草加せんべいを出してきた。
「広森さん、きちんと食事を摂ってますか」
「なあに、そんなことはもうどうでもいいんだよ。それにこっちがもう言うこと聞かなくてね」
広森さんは「イー」と、歯をむいて自分の入れ歯を見せた。
「さあ、せんべいを食べてみてくれないかな。バリバリと、なるべく音をたてて」
カステラをいくつも食べたのと、するめの咀嚼でわたしのお腹はいっぱいだった。けれど広森さんはさあさあとわたしの手にせんべいを持たせてくる。しかたなくわたしはそのせんべいをほおばった。広森さんはいつもはしょぼしょぼさせている目を大きく見開いて、(と言ってもせいぜい覆い被さった上まぶたをやっと押し上げるというぐらいなのだが)背中をむずむずさせながらこちらを見ていた。それから「おいしいかね」と満足そうに聞いた。
千秋はその週の土曜日に、タカハシさんの運転するワゴン車に荷物を載せて本格的に引っ越していった。スペースが半分空いた食器棚の奥から、離乳食を食べさせていたときのお椀とスプーンが出てきた。あれから二十数年が経ったなんてなんだか信じられないような気持ちになった。
三日ぶりに現れた客である年配の夫婦を現地に案内し、戻って来て契約を交わした。そのあと「不動産屋 あいちゃん」と手書きされたガラスのドアを押し開けて、帰って行く夫婦にお辞儀をして見送った。社長はソファに座ったまま、求人誌いらなかったのかなあ、とつぶやいていた。
客が帰って行った方向を見ながら、やれやれと腰を伸ばして肩を回していたところへ社長が話しかけてきた。
「今月で三件目だね。うちはサナダさんでもってるね」
何をのんきなことをと呆れて振り返ると、社長がピースサインを出していた。わたしはピースサインを出している社長の前を通りすぎて、自分の席にドカッと腰を下ろした。
「サナダさん、ピースピース」
社長はわたしが脳天気にピースを返すと思っている。けれどわたしは社長をチラッと見ただけで、すぐさっきの契約書に目を落とした。チェックを始めると家賃の引き落とし用口座の記入用紙に捨て印が押されていなかった。
記入漏れ箇所に鉛筆で印をしているとき電話が鳴った。いつもならわたしが出るところなのだがキッと社長をにらむと、「おお、こわい」というふうに社長は首を縮込めて受話器を取った。
電話は大家さんからだった。長田さんの隣の部屋の人から苦情が出ていると言う。犬の糞の臭いが漂ってきて洗濯物に付くと言うのだ。きっとこのところの暑さで長田さんが窓を開けっ放しにしているせいに違いない。大家さんはどういう客を仲介したんだとずいぶん怒っていて、社長はひとまず謝って電話を切った。
受話器を置いたとたんまた電話が鳴ったので、社長が続けて取った。今度は広森さんの息子さんだった。社長は背中を丸くさせくぐもった声で「一回伺ってみます」と言い、静かに受話器を置いた。
「なんだったんですか」
「広森さんが最近部屋に帰っていないようだって」
「この前はいましたよ」
「いつのこと?」
わたしはカレンダーを見て呻った。
「うーん、四日前です」
「四日前……」
社長がぽろりと言った。そしてわたしの顔をじっと見たかと思うと、いきなり鼻歌を歌い始めた。社長の場合、切羽詰まっているのか詰まっていないのかよく分からない。社長は歌いながらふらふらと給湯場へ引っ込んで行ってしまった。
本当のところ、わたしはあまりに茶菓子を勧めてくる広森さんにうんざりしていたのである。あの湯飲みを触れないほどの熱いお茶も苦手だった。けれどその広森さんが部屋に帰っていないと思うと、出されてくる茶菓子を見て「もう食べたくない」と思ったことに少し罪悪感を感じる。
「サナダちゃん、ほうじ茶飲む?」
「ありがとうございます。飲みます」
言いながらわたしは引き出しから資料を出して、広森さんが書いた契約時の状況のページをめくった。――二十年前に中学校教師定年。妻、数年前に他界。息子一人、隣町に住む。前の職業は高校教師。それとご丁寧に、「好物、羊羹」と追記してある。
「あ、猫舌なんであまり熱くしないでください」
わたしが付け加えると、社長は給湯場から手だけを出してオーケーサインをした。
わたしたちはそのあと広森さんの部屋へ向かった。社長が持っていたマスターキーで鍵のかかったドアを開けると、座卓の上にメモが一枚置かれているのが目に入った。社長はそのメモを手に取った。
――サナダさんへ。すみません。茶菓子がないのでおもてなしできません。
と書かれている。「ご丁寧に」とつぶやきながら、わたしと社長はため息をついた。
店に戻ったわたしは店に帰ってメモを見直していた。社長は相変わらず接客用の応接セットの一番大きいソファを陣取っている。ソファの肘掛けを枕にして寝っ転がっている。三つあるうちの一番大きいソファは、完全に社長の寝どころになってしまったと言っていい。社長はさっきまで天井を見ていたが、今は外を見て店の前の道を行き来する人の足や自動車を見ている。
「広森さんどこへ行ったんでしょうね」
わたしの問いかけに返答がない。
「長田さんもあんなんだし」
重ねて言ったが社長はなおもぼうっと外を見ていて、伸びをしたかと思うと一回あくびをした。
「もう少しお客さんを選んだほうがいいんじゃないですか」
わたしは小言っぽく言ったがそれでも社長は何も言わなかった。たまりかねたわたしが「聞いてますか」と重ねると同時に社長が、
「――だって」
と口を開いた。そして胸ポケットからたばこを出してポンポンとたたき、
「しかたないよ、こういう性分なんだから」
と、頭を出したたばこを引き抜いて口にくわえた。それから小説を開け、またふあっとあくびをして、流れてきた涙をぬぐってページをめくった。
社長そのページを見たままで言った。
「サナダさん、ボクもう不動産屋辞めるよ」
「えーっ、どうしたんですか」
わたしは帳簿を付けている手を止めた。
「今までギリギリで頑張って来てたけど、広森さんが夜逃げしたでしょう。それを大家さんが知ったらうちとはもう取引しなくなるだろうし」
社長は小説のページをまた一枚めくってあくびをした。よくもこう立て続けにあくびが出るものだ。目をこすり、イテテ、涙がしみちゃったなどと言っている。確かにうちが仲介をする客は家賃の払いが悪かったり部屋を汚すなどそんなのが原因で、取引してくれる大家さんは減りつつある。
「まだ夜逃げしたとは限らないじゃないですか」
「いやいや経験上あれは夜逃げだね。広森さんはもう帰って来ないよ」
よっと、と社長は勢いをつけて起き上がると自分のデスクへ行って、レジ代わりの手提げ金庫を開けた。そして一万円札を数枚掴んで「不動産屋 あいちゃん」の茶封筒に入れた。
「はいこれ」
社長はわたしの目の前にその封筒を差し出して言った。
「なんですか」
「いまはこれしかないんだ」
社長はわたしの手を取って、「はいこれ」と手のひらに茶封筒を押しあて、さらにぎゅっと握らせた。社長いつになくまじめな顔をしている。奥さんが出て行った次の日の顔とよく似ているのである。
また電話が鳴った。同時に社長が茶封筒を押し当てていた手の力を抜いた。わたしが社長の手をすり抜けて受話器を取ると、いきなり水谷さんの一言目が飛び込んできた。
「サナダさんはいるかい」
その声は相変わらず尖っている。いつもよりさらにいらだった調子だった。
「わたしですが、どうされましたか」
「あんたとこはネズミが出る部屋を紹介するのかい」
「はあ、なにぶん築年数が経っていますのでそういうこともあるかも知れません」
「なんだって? 人ごとみたいに」
「いやそう言うわけでは……」
「ああもうあんたの話は聞きたくないね。アタクシが聞きたいのは、あんたとこが紹介する部屋はネズミが出るのかってことなんだよ。出るのかい、出ないのかい、どっちなんだい」
水谷さんはたたみ掛けるように言ってこちらが口を挟む隙も与えない。「とにかくすぐに来ておくれ」と言って乱暴に電話を切った。
「今のは水谷さんだねえ」
あまりの大声に電話に出ていなくても相手が誰か分かるほどの声だった。そして社長はどこで見かけたのか、水谷さんが痩せてきているのを知っていた。やはり水谷さんが痩せてきているというのはわたしだけが感じたのではないようなのだ。
社長がポケットから出したたばこを一本くわえて火を点けた。そしていったん大きく息を吸い込んで、顔をしかめてプウッと煙を吐く。
「それで何があったの」
「ネズミが出たからすぐ来いって」
「ああ、なんだあそんなことか。サナダちゃんも水谷さんのお守り大変ね」
社長はそう言って灰皿にたばこを押しつけた。それこそ水谷さんが言うように人ごとである。わたしは不通音が聞こえている受話器を置き、社長をにらんで脛を蹴ってやった。
「あいたた、何するの」
「自分の胸に聞いてください」
わたしの言葉に社長は首を傾げながら足を引きずって行って、応接セットの一番大きいソファにドサッともたれ込んだ。わたしは「不動産屋 あいちゃん」のドアを思い切り閉めて店を飛び出した。
水谷さんの部屋に着くと彼女はすでに玄関に仁王立ちしていた。
「あのう、どうされました……」
おそるおそる尋ねると、水谷さんは隣の六畳間に向かって目配せした。水谷さん越しにのぞき込むと茶色く傷んだバナナがまだぶら下がっていて、畳の上にはガラスの破片が一面に散らばっていた。
「あ、ルルちゃんの写真の額縁が割れてるじゃありませんか」
指さすわたしを水谷さんがにらみつけた。ネズミが額縁のひもを食いちぎったせいで落ちてきたのだと言う。水谷さんは眉間に二本深いしわを寄せ、こめかみに青い血管が浮き上がらせてキーキーと訴える。のどがひっきりなしに上下に動くたび、ぴりぴりと首の筋が張った。とにかく感情が高ぶっていてこちらから声をかける余地がない。しかたがないので収まるまで待つしかないとわたしはうつむいていた。
ところがそのあと水谷さんは、「だいたいあんたの店は客に思いやりがない――」と怒鳴ったとたん倒れ込んできたのだ。わたしはとっさに水谷さんの体を支えた。
水谷さんの体は白くぶよぶよの水袋のように手応えがなく、奥のほうにあるかないかのような細い骨が触れただけだった。まるで人の体と思えない質感のなさである。
「水谷さん、また痩せられました?」
とわたしが聞くと、真っ青の顔の水谷さんは何も答えずわたしの手を振り払った。
「横になったほうがいいんじゃないですか」
尋ねるわたしに水谷さんは目を剥いて鼻の穴を膨らました。
「とんでもない! 横になったりしたらネズミにかじられちまうじゃないか」
「いくらなんでもそんなことはないでしょう」
わたしはつい笑い出しそうなのを我慢しながら言ったが、水谷さんは真剣そのものである。そしてその膨らんだ鼻の穴をひくひくさせて、わたしの手を引っ張ったのだ。
水谷さんがわたしを連れて行ったのは寝室だった。ネズミは寝室の押し入れから出てきたのだと言ってベッドと押し入れの間に座り込んで、食いちぎられたふすまの唐紙を指さし、
「ほら、あんたもここへかがんでみな」
自分の横の畳をたたいて言った。わたしがしぶしぶ座って、ああここですか、と力ない返答をすると、水谷さんはわたしをじっと見た。
「あんたも今日はうかない顔をしてるね、何かあったのかい」
「はあまあ」
しかし浮かない顔はわたしより水谷さんのほうに思える。
「聞いてやるから、言ってごらん」
「いや、別にたいしたことじゃないので」
本当に、水谷さんに聞いてもらっても仕方のないことなのだ。
「言ってごらんって、ほら」
そんなやりとりを繰り返しているうち水谷さんの顔が険しくなってきた。これはそろそろ言わないとまた感情的になってきそうだと、わたしは観念して話すことにした。
「うちの店、たたむって社長が勝手なこと言うんです。わたし無職になっちゃいます」
「なんだ、それだけのこと?」
「それだけって、わたしにとっては一大事ですよ」
わたしはムッとして言い返したが、水谷さんは、はいはいと適当な返事をしながら押し入れのふすまを開けた。
押し入れの中はクローゼット仕立てになっていて、裾にレースが着いたブラウスやファーのコートや黒のサテンのワンピースなどが掛けられていた。水谷さんはその掛かっている洋服をよけて顔を突っ込んだので、話を聞いてもらおうとわたしも水谷さんのあとをついて顔を突っ込むと、上からシフォンのネグリジェが頭に落ちてきた。四つん這いになった水谷さんはさらに奥に進んでいく。そして何か見つけたのか、「あれだわ」とひとりごとを言った。わたしのことなどもう全く眼中になさそうなのだ。
「わたし、だって独りだし食べていかないといけないし・・・・・・」
たまらなくなって水谷さんの背中に向かって大声で言うと、水谷さんが振り返った。
「食べるものがなければ食べなければいいじゃないの。簡単なことでしょ。アタクシなんてもう何日も食べてないわよ」
「え、食べてない?」
「そうだよ。食べる心配しなくていいから楽でいいわよ」
水谷さんは自分の頭に落ちてきたシルクのショールをぬぐった。ふとわたしの頭の中に、初めて店にやってきて、「餓死するつもり」と言ったときの水谷さんの顔が思い浮かんだ。
結局わたしはそのあと居間に戻ってジャスミンティーを出され、水谷さんからルルちゃんとの生活のエピソードを延々と聞かされた。それからまた食器棚の移動を手伝わされた。解放されたのは「あいちゃん」での勤務時間を一時間半も過ぎていたのだった。
まさか本当に餓死するつもりなのだろうか、と道々考えながらわたしがタイムカードを押しに店に戻ると、社長がソファでいびきをかいていた。センターテーブルの上にはお茶の残った急須と、飲みかけのお茶が残った湯飲みが置いてあった。脳天気そうな社長の寝顔を見ているとわたしが無職になったのがにわかに信じられず、かといって手にはお金の入った茶封筒を受け取ったときの感触がしっかり残っていて、なんだかきつねにつままれたような気分だった。わたしはセンターテーブルの上の求人誌を一冊手に取って、社長が枕にしているソファの肘掛けを蹴った。社長の体が一瞬ビクッと動いて、腹の上に置かれていた手がだらりと滑り落ち、「あいちゃん」とひとこと寝言を言った。
家に帰って、夏仕様にした家具調コタツの上に茶封筒と求人誌を投げ出した。コタツの前に座って封筒の中身を見ると、いつものパート代の二ヶ月分が入っていた。わたしはコタツの上の求人誌と一万円札を見比べた。つまり猶予は一ヶ月ということなのだ。
見比べていると、ふとコタツの天板の角にマジックで落書きされた猫の絵を見つけた。いつの間に描いたのか、「千秋画」と添えられている。娘が隣の市の新居へ引っ越していってそろそろ十日になるのに今まで気がつかなかった。わたしはシンナーの代わりに除光液を持って来てティッシュでこすった。絵はこびりついていてなかなか消えなかったが、十分ぐらいこすり続けるとようやく消えた。けれど一緒に天板の塗装もはげてしまい、わたしは「あー」と声を上げて仰向けに寝っ転がった。
蛍光灯カバーに小さな虫の死骸がたまっている。横向きに寝返るとテレビの下には埃がたまっていた。家の前の道を、向こうのほうから走って来たスクーターが駆け抜けって行った。
――サナダさん、すみません。茶菓子がないのでおもてなしできません。
広森さんの泣きそうな顔が浮かんだ。
――そんなことはどうでもいいので、部屋に戻ってください。
――そういうわけにはいきませんよ。
――広森さんが戻ってくれないと、うちの店がつぶれるんです。
――でもサナダさん、すみません。茶菓子が……。
「そんなのいいんですってば」
つい叫んでしまって、自分の声に驚いた。
自分の声の余韻が消えると時計の秒針の音が聞こえてきた。続いてお腹がグウッと鳴った。時計を見ると六時過ぎだった。いい加減夕飯のおかずを買いに行かねばと茶封筒をのぞいた。ここから電気代を払い、電話代を払いと、指折って数え、しかたがない広森さんも社長も悪気があったわけじゃないと思い直して、わたしは財布に千円札を一枚入れた。
スーパーマーケットで、買い物かごに鶏肉とコロッケとスポーツドリンクを入れレジに向かうと、夕飯の買い出しの時間で長蛇の列ができていた。わたしの前の五十代半ばの女の人とその前の女の人が、お互いのカゴの中を見合わせながら「その挽肉、私のより安いじゃないの」だの、「ついさっき肉類は割引のシールを貼りだしたわよ」とだのというようなやりとりをしている。「じゃあ私も貼ってもらってくるから、この場所とっておいてね」と、後ろのほうの女がカゴを床に置いて売り場へ走っていった。わたしも自分のカゴの中の鶏肉を見て、これも貼ってもらってこようかしら――、などと考えた。
「サナダさんじゃありません?」
ふいに後ろから声をかけられた。振り返ると岡山さんが立っていた。岡山さんの手には片方に末っ子の男の子、もう片方には大きなレジ袋が二つ下げてられている。大きなレジ袋の中身はカップラーメンやスナック菓子やジュースで、底のほうに納豆のパックが透けて見えている。
「お買い物たいへんですね」
「食べ盛りが多いですからねえ」
岡山さんは言っていったん末の子の手を離すと、白くてウエーブのかかった白髪をなでつけた。それからまた男の子の手を取ってその男の子を見つめた。
「三歳でしたっけ?」
ええ、と岡山さんは小さくうなずいた。確かに、少なくともこの子は岡山さんに似ていないように思う。
「もし時間がおありだったら、ちょっとうちに寄って行かれません?」
岡山さんは慌ただしいスーパーマーケットの中で、ゆらゆらと立っているように見えた。
部屋に入れてもらうと下から二番目の女の子がひとりで留守番をしていて、岡山さんを見るなり言った。
「ババア、お腹すいた」
岡山さんが女の子へ駆け寄って、前にかがんでその子の口を押さえた。
「違うでしょ。おばあちゃま、でしょ」
「……オバア」
「おばあちゃま!」
少し色黒だが、目がぱっちりしていて可愛い。横でだまって見ていたわたしに岡山さんは、バツが悪そうに笑った。
「ごめんなさいね、誰が使ってたのか、変な言葉を覚えてしまって」
「うちの娘も小さいときはそんなのでしたよ」
わたしがそう言うと岡山さんは、あらそう、と少し笑った。
さっきまで西日が射していたであろう岡山さんの部屋は暑かった。岡山さんは子供達に今買ってきたばかりのジュースをコップに入れて渡し、そしてお菓子の空き箱から折り紙を出して、「お行儀よくしてね」と言い添えた。
岡山さんはわたしには麦茶の入ったコップを持ってきてくれた。
「暑いでしょう。扇風機つけますね」
岡山さんはお盆をちゃぶ台に置いて扇風機のスイッチを入れ、扇風機の頭をこちらに向けた。生ぬるい風がわたしの顔に当たりだす。岡山さんの額に縮れた白髪が貼りついている。
「特にね、お話があったわけじゃないんですの。たまには大人の人とも話したくなっただけですの」
何も聞かないうちに、岡山さんはひとりで言った。
「そんなときありますよね」
「サナダさんもありますか」
「ありますとも」
わたしがそう言うと岡山さんはポケットからガーゼのハンカチを出して額の汗をぬぐい、嬉しそうな顔をした。
少しずつ岡山さんの亡くなった旦那さんの話が出て、わたしの別れた旦那の話になっていった。岡山さんは途中で、「若い人はこういうのがいいでしょう」と、ポテトチップを菓子椀に入れて出してくれた。コップの麦茶が減ってくると空にならないうちに注ぎ足してくれた。もっと話が進むと岡山さんは、最近パッチワークに没頭しているのだと話しだした。タンスの引き出しから手作りのバッグを出して見せてくれ、友達が余り布をくれるのだと言った。お礼にその布で作ったバッグをプレゼントしたいのだが、彼女は目が高いから、自分の作ったものなどには見向きもしないだろうと気弱に笑う。
「そうそうそのお友達がね、先日すごい場面に遭遇したんですのよ」
「すごいと言いますと?」
岡山さんはチラッと後ろを振り向き、子供たちが折り紙を折っているところを見た。そしてまたこちらに向き直ると背中を丸めて、わたしにこう耳打ちした。
「真夏だったんですけど、朝の五時だと言うのに掃き出し開いていて、扇風機がパラパラ回っていて、不思議に思った私のお友達がそっと家の中を覗いたらしいんですの。そしたら……」
岡山さんはそこまで言ってゴクッと唾を飲んだ。
「そしたら?」
わたしもゴクッと唾を飲んだ。
「その家のおばあさんが台所に倒れていたというんですの。はだけた浴衣から見えた胸はあばらが浮き上がっていて、それでほら歌にもあるでしょう、お腹と背中とくっつくぞって。あんな感じにお腹がぺっちゃんこになってたんですって」
「・・・・・・ぺっちゃんこですか」
岡山さんは下からわたしを覗き込むようになって、声をひそめて続ける。
「ええ、ぺっちゃんこ。それで足の親指がネズミにかじられてたんですって」
そこまで言って岡山さんは、ぐっと声を絞って手で口を覆った。
「その人、餓死していたんですのよ」
「えっ!」
ふとわたしの目の前に、デコレーションケーキのようなタンスやきらきら光る化粧びんが置かれたドレッサーが浮かんできた。そしてその向こうには天蓋のあるベッドがあって、そこで誰かが横たわっている。目を凝らすと羽毛ふとんに沈んで横たわっているのは水谷さんではないか。水谷さんのお腹はぺっちゃんこにへこんでいる。
「それで夏場だったし、そのおばあさんは腐りかけてたそうですの。裏の通りまで何とも言えない臭いがしてきてたって言ってましたわ」
――べちゃ――。
そしてベッドに向かって一歩踏み出だしたわたしは何かを踏んづける。足下にレジ袋が放置されているのだ。どうしてこんなものが? と思って袋を開けると、傷んだバナナが入っている。傷んだバナナは何とも言えない腐敗臭を放つ。袋の底に小さな穴があったのか汁がしみ出していて、カーペットは茶色く変色している。
「お嫁さんは隣町に住んでいたらしいんですが、仲が悪くて様子を見に行くことが全くなかったんですって。私のお友達がたまたま通りかかって覗かなかったら、見つけるのがもっと遅くなったんじゃないかしら」
――水谷さんの背中の下にもそんなシミが付いてはいまいか。そっと体を起こしてみれば・・・・・・。
「サナダさん、どうかされました?」
岡山さんに声をかけられて、わたしはハッと我に返った。
「あ、いえ、なんでもありません。それでどうなりましたか」
「それでお嫁さんが、このばあさんは死んでまで人に迷惑かけるってぼやいて、後片付けもしなかったって言うんですの。結局そういうのを片付ける業者に頼んだんですって」
業者にねえ、と岡山さんは繰り返す。
「そのうち、私もそうなりかねませんわ」
そう言って岡山さんは目を潤ませ、ガーゼのハンカチで目頭を押さえた。
ふいにさっきまで折り紙をしていた二番目の女の子が近寄ってきた。
「ババ、あたしが片付けてあげるよ」
末の男の子も駆け寄ってきた。
「ぼくも」
岡山さんは最初少し戸惑っていたがウウッとうなったかと思うと、
「あなたたち……」
と言葉を漏らして、ふたりの孫を強く抱きしめた。
不動産屋をクビになったわたしはもう水谷さんの家に行く義務はないのだが、もう一度水谷さんちを覗きに行ったほうがいいかなあ、という気持ちになった。
仕事を探し行ったついでにと、あれから何度か水谷さんの家の前までは行ったものの、部屋を覗く勇気はなかった。今日も近くで買ったコロッケを買い物かごから出し、ご飯を茶碗によそい「いただきます」と手を合わせた。箸で一口大にちぎって口の中に入れたコロッケは売れ残っていただけあってパサパサで、あまり噛まずにお茶で流し込んだ。パサパサのコロッケは続いて食べる気持ちになれなかった。
――年齢不問って書いてあったくせに。
同時に面接に行ったホームセンターの店長の顔を浮かんだ。わたしはホームセンターの求人広告をくちゃくちゃに丸めて、コロッケと一緒に流しの横の生ゴミの袋に入れた。
夕方とはいえ閉め切っているとさすがに汗がにじんできて、エアコンをつけ、Tシャツの首筋を引っ張って風を入れながら汗を乾かし始めた。見上げると送風口の横に小さなシールが貼られていて、消費電力が書かれている。
「あらいやだ、これ○ワットもあるじゃないの」
わたしは慌ててエアコンの電源を切った。
けれどこのままではべたついてたまらないので、汗を流すのにシャワーを浴びることにした。風呂場へ入って蛇口をひねり、勢いよく出てきたお湯で頭を濡らした。シャンプーを振りかけ、髪の毛をかき回すように洗った。それから仰向けになって目をつむり、頭からシャワーをかけた。泡が頭のてっぺんから胸や背中をつたって、するすると脚のほうへ流れ落ちていく。
――しかしこれにも水道代とガス代がかかっているな。
これ以上安易に浴びてはいられないような気がしてきて、わたしはもう一度背中からシャワーを浴びて、仕上げに顔をバシャバシャッと洗った。
風呂場から出て体を拭いて、千秋が残していったTシャツと短パンに着替えた。こころなしか短パンがきつかった。千秋が引っ越しって行ってからというもの、売れ残りのコロッケばかり食べていたから太ってしまったのか。わたしはぽっこりとした下っ腹をさすって考えた。しかし今日は半額になったコロッケを買うことができたが、果たしてこれからもこのコロッケにありつけるだろうか。お金はもうほとんど残っていない。
生きている限り将来の心配をしないといけない。わたしにとって将来とはなんだろう。年老いたときの生活か、五ヶ月後にやってくる冬の灯油の値段か、明日の食事のメニューか?
――食べるものがないのなら食べなければいいじゃないの。
ふと水谷さんの言葉がよぎった。いかにも理にかなっている単純な答えではないか。水谷さんの言うように食べずにいたら行き着く先は「餓死」になるだろうが、実のところそれが一番悩まなくていい手っ取り早い方法な気がする。冬は寒くてお腹が空くとつらいが、暑くて胃がまったく食べ物を受け付けない、そうめんすら食べる気になれない真夏ならきっとそのまま「餓死」の流れに乗れそうな気がする。いま六月だからどれだけ節約してもお金は七月末ぐらいまでしか持たないだろう。けれど逆手に取ると餓死のタイミングとしてはバッチリなのである。そう決めておけば、将来に対して気をもむことがなくなるように思えてきた。するとわたしは、生きるために人はもがくと思っている神様の裏を掻いてやったような気がして小気味良ささえ覚えた。
そのとき着信音が鳴ってわたしは携帯電話を出した。千秋からのメールだった。独立するといろいろ要り用でこれでは安心して子供も産めない、と早くもぼやいているのである。さらには、やっぱりタカハシさんに我慢してもらってそこに住めば良かったなどというのだ。わたしが「わたしがいなくなったら住めばいいじゃない」と返すと、「そういう手もあるわねえ、笑」と千秋は返してきた。
メールはそれで終わったので千秋たちが本当にそうするかは分からないが、同居に気遣う婿もわたしがいなくなったらここに住むかも知れない、とわたしは思った。
また、踏んづけてしまった傷んだバナナを思い出した。
――真夏だと死体の傷みが早いだろうな。
するとやはりわたしの最期はどこか別のところで迎えなければならない。しかしそのどこかは、あまり近所付き合いがありすぎてもいけない。それは餓死する前に誰かがわたしの異変をかぎつけて食べ物を持ってくるかも知れないからだが、かといって全く近所付き合いがないと今度は死体をなかなか見つけてもらえない。二~三日ぶりに近くを通りかかった人にひょいと覗いてみつけてもらえるぐらいがベストなのだ。そして通りかかったときに、プン、と、なにか腐ったような臭いが分かるよう、鉄筋コンクリートではない、木造で少し隙間風が通るぐらいの建物がちょうど良いように思う。
わたしは裏が白の新聞広告とペンを持ってきて、心置きなく最期を迎えるための家の条件と間取りを考え始めた。南に掃き出しがあって、台所横の勝手口は裏の道に面していて――。思い浮かべたとおりにさっと間取りが描けるのは、「不動産屋 あいちゃん」で培った特技である。そして、タカハシさんとうまくいっている千秋にはこの策略を絶対悟られてはならないと、ひとりでうなずきながらペンを走らせた。
描き上がったその紙を持って、さっそく駅前の不動産屋へ向かった。道々、「あんまり大家さんがいい人だとなんだか心が痛むな」と考えながら自転車を漕いだ。橋にさしかかったころ真っ赤な夕焼けが見えて、カラスが帰っていくところに遭遇した。橋の中間まで来て自転車を停め欄干から川を覗きこむと、魚群とまではいかない十数匹の小さな魚がつーっと泳いでいった。プワーンと音が聞こえてきて体を起こすと、豆腐の移動販売の軽自動車がゆっくり近づいてきていた。走って来た年配の女の人が手を上げてその車を呼び停めた。
「まいどあり」
威勢良く降りてきた男は思ったより若い。うちの婿とそう変わらないぐらいの歳に見える。
「豆腐一丁と飛竜頭二つ」
女が言うと豆腐屋の男は「へい」と返事をして、手慣れた手つきで豆腐と飛竜頭を掴んで袋に入れた。どこからかお風呂を焚いているときのようなにおいがしてきて、お腹を空かして家にたどり着いたときの台所の灯りを思い出した。
ここがうちの商売敵か、とちょっと不愉快な気持ちで駅前の一番大きな不動産屋のドアを押した。正面カウンターにいるまだ学校を卒業して間もないぐらいの女の子が、「いらっしゃいませえ」とにこにこしながら挨拶してきた。ドアが開くと同時に小説片手の社長がボワっとたばこを吹かしたり、能面顔のわたしが挨拶していた「不動産屋 あいちゃん」とはえらい違いである。わたしが少し戸惑っていると、
「お部屋をお探しですか」
と、女性店員はすかさず声をかけてきた。
小さくうなずくと女性店員は「こちらへどうぞ」と重ねて言って、小さなブリザーブドフラワーの置かれたデスクの前へ案内した。
「条件は」
「民家の多い団地内がいいです。それと部屋は一階にしてもらえますか」
「ご予算は」
「古くてもいいので、できるだけ安く」
女性店員はふんふんと相づちを打ちながらピアノを弾くようにパソコンのキーボードをたたき、表示された画面をわたしのほうへ向けた。
「こちらなどどうですか」
画面には鉄骨建築と書かれたベージュの壁のコーポが二つと、鉄筋コンクリート建築でサーモンピンクのマンション一つが並んでいた。どれも間取りは一LDKだ。わたしは画面とデスクの脇のブリザーブドフラワーと女性店員の顔を順番に見た。
「二LDKは欲しいんですけど。そうねえ、借家でもいいわねえ」
今更見栄を張ってどうするんだ、と思ったが、あまりみすぼらしいところで最期を迎えるのもむなしい。
「ではとっておきのをお見せします」
店員はまた検索し直すと、新しい画面をわたしに見せてきた。少し首を傾げて返事を待っている。わたしが「そこ、お願いします」と言うと、店員は大きくうなずいた。
女性店員の運転する派手な会社名のロゴの入った軽自動車へ乗った。道行く人がときどき振り返ってわたしたちの乗った車を見ている。ベビーカーを押した母親がこちらを指さして、「コマーシャルでやってるよね」と子供に話しかけているようだ。女性店員はそれが聞こえているかのように、得意げに背筋を伸ばして運転していた。「あいちゃん」もこれぐらい有名ならつぶれずに済むだろうに、と考えて、同時に社長がソファで寝っ転がっている姿も思いだした。ふとドアポケットを覗くと中に宣伝用のポケットティッシュが三つ入っていて、わたしは女性店員の目を盗んで三つともバッグへ入れた。
わたしたちはE町の団地にある鉄骨二階建てのコーポの前で車を降りた。E町と言えば客を案内して何度もやって来たことがあった。けれど実際客になってみてここに立つと、初めて来たどこか異国の地のような感じがする。店員はプリントアウトしてきた紙を一枚めくり、一階の左側の部屋だと言った。
女性店員が鍵を開けた。入ったとたん真っ白の壁に陽が反射して、わたしはとっさに目を覆った。「ここはやめておきます」思わず口から出ていた。
「もう少し古いところはありませんか」
「弊社の取り扱ってる中では古いほうです」
「もっとこう、隙間風が通るような」
すると女性店員はわたしの手を引いて壁を触らせ、目を合わせて微笑んだ。
「大家さんがいい方ばかりでいつもお客様のためにときちんと修繕されています。よってそのような物件はございません」
「そう、大家さんがいい人なんですね……」
わたしは目を合わせたたまま苦笑いした。
そのあと別の不動産屋へも行ったが、なかなか思うような物件は見つからなかった。帰りに相変わらずスーパーマーケットへ寄って半額の唐揚げを買った。二つ目の角を曲がったところで自転車の前に猫が飛び出してきて、わたしは慌ててブレーキをかけた。猫も驚いて民家と民家の間へ飛び込んだ。猫の飛び込んだほうを覗くと、ずっと向こうまで涸れた側溝が続いていた。猫も振り返ってわたしを見ていたが、そのうちお尻を振りながら側溝の中を駆けていった。
猫を見送って顔を上げると、薄暗くなってきた町並みのなかに小さな灯りが見えていた。その灯りをバックに社長手書きの「不動産屋 あいちゃん」の文字が浮かんでいる。自転車を押して店に近づいて行くと、応接セットのソファに座っている社長の姿があった。社長はたばこを片手に小説を読んでいる。社長は一ページめくって、口からポワンと丸い煙の塊を出した。わたしは「不動産屋 あいちゃん」のドアを押した。
「すみません、部屋を探してます」
社長は今頃誰だとうっとうしそうにこちらを見たが、わたしと分かると少し驚いた顔をした。そしてすぐいつもの顔に戻してたばこを灰皿に押しつけ、無愛想に「いらっしゃいませ」と言った。
デスクの上はほこりだらけで、センターテーブルの上には飲みかけのお茶やコンビニ弁当の空が置きっぱなしだ。社長の目はもう小説に戻っている。
「愛想悪い。だから駅前の不動産屋に負けるんですよ」
「自分もそうだっただろう」
社長は小説の紙面から目をそらさず言った。
「駅前の不動産屋は可愛い女の子が言うんです。いらっしゃいませえ、ってね。社長も言ってみてください。わたし、今日はお客なんですよ」
仁王立ちしたわたしが言うと社長はしぶしぶこっちを向いて作り笑いした。
「いらっしゃいませえ。どんなお部屋をお探しですか」
わたしはそんな取って付けたような挨拶に、そのうちプッと吹き出してしまった。
ようやく社長は小説を読むのをやめ、向かいのソファへ座るように促した。わたしはソファの上の新聞を横へよけて腰を下ろした。
「そこそこ近所付き合いがあって」
すると社長は少し身を乗り出して聞いてくる。
「それで?」
「古い平屋で」
社長は条件を聞きながらゆっくり腰を上げ、物件を綴じたファイルの棚の方へ歩いて行った。
社長は棚から一冊のファイルを持って来ると、センターテーブルの上へ広げた。そして指先をちろっと舐めてぱらぱらとめくりだす。社長はぼそっと「三軒ありますよ」と言った。
「それで隙間風が通って」
「二軒あります」
「それで、大家さんがあまりいい人でないところ」
「一軒ありますよ」
社長は最後に残った物件のページをこちらに向け給湯場へ入って行った。わたしはその背中を見て考えた。――なんだか前にもどこかで聞いたような条件じゃないか?
しばらくすると社長が盆の上に湯飲みを載せて戻ってきた。
「どうぞ」
目の前へ置かれた湯飲みにはいつものほうじ茶が入っていて、もうもうと湯気が立っている。わたしはふうっと息を吹きかけて唇の先ですすった。
――あたくし、ジャスミンティーしか飲まないのよ。
そうだ、初めて水谷さんがやってきたとき、同じような条件を出していたではないか。そして水谷さんは豪語していたとおり、社長の出したほうじ茶には手を付けなかった。ほんとうにジャスミンティーしか飲まないようで、わたしが水谷さんの家へ行ったときもジャスミンティー以外出されたことがない。
「今からそこへご案内しましょうか」
「お願いします」
わたしが口元をぬぐいながら言うと、社長は分からないぐらい小さく笑みを浮かべた。
隣町にある築四十年の借家の前に、「不動産屋 あいちゃん」とペンキで手書きされた社用車を停めた。車を降りて建物の裏手に回るとやっと人がひとり通れるぐらいの小道があって、誰かがたびたび通るのか土が踏み固められている。台所の窓はよく見ると斜めに歪んでいて、きちんと閉められているのに隙間から家の中が見える。大家さんがあまり手直ししないのか、トタン張りの壁にはところどころ錆びがきている。
社長が裏口を開けて入り電気を点け、掃き出しのカーテンを開けた。外はすでに真っ暗で、果たして日当たりがいいのか悪いのかさっぱり分からない。
「あっちが南だよ。遮るものがないから洗濯物がよく乾くよ」
社長が黒々とした窓を指さした。けれどよく考えてみたら日当たりも洗濯物も、もうどうでもいいのである。
「好きなように使ってもらっていいよ」
社長が部屋の壁やふすまや天井や、それからどこか分からないところを見つめながら言った。わたしが小さくうなずくと、社長はわたしの目の前に契約書を差し出した。
この借家へ来て三日め、わたしは戸を閉め切って寝っ転がっている。汗で濡れた前髪が額に貼りついて気持ちが悪かった。今日は朝から何も食べていない。しかしもはや成長期でない体はそれほど要求しないようで、子供の頃のような耐えがたい空腹感はない。さすがに水を一滴も飲まないと言うわけにはいかないが、食欲だけならなんとか乗り越えられそうな気がした。
頭の上の扇風機が生ぬるい風を送ってきていた。掃き出しに面した六畳間はがらんとしていて、なんだか霞がかかっているように見える。ぼんやりと部屋を見ていると、水谷さんの部屋が思い出されてきた。漆喰がはがれ落ちそうな壁にぴったり貼りつけて置かれたドレッサー、その横にはデコレーションケーキのようなタンス、隣の四畳半では天蓋の付いたダブルのベッドが占領していた。押し入れの中は服だらけだった。そんなふうに水谷さんはいろいろなものを持ってきていたが、わたしが持ってきた家財道具は扇風機と冷蔵庫と布団、衣類も着替えぐらいなのだ。なのにいっこうに不自由を感じない。つまりいかに今まで不要なものに囲まれて生きていたのかということだ。
扇風機の羽根が回るのを見ていると、電子レンジの中で回るスーパーマーケットのコロッケが思い浮かんできた。今ある食べ物は冷蔵庫にある期限切れの刻み昆布と冷凍みかんがひとつである。けれど電気もそのうち止まるだろう。するとあの冷凍みかんも解けだして、やがて指で押さえただけでつぶれるだろう。
わたしは溶け出した冷凍みかんと傷んだバナナをい浮かべつつ、動けるうちに畳の上に大きなゴミ袋を敷き詰めておこうと考えた。そして換気扇を点けて部屋の中の空気を外へ出しておかなくてはいけないとも思い、起き上がって台所へ行った。
台所へ行くと冷蔵庫の電気コードがかじられているのが見つかった。表面のビニールが剥けて中の導線が見えているのだ。ゴミ袋のある流しの下を開けると、ごま粒のような糞が至る所に落ちている。
――親指がかじられてたんですって――
ふいに、わたしの顔をのぞきこんだときの岡山さんの顔が浮かんだ。
ネズミの糞をよけてゴミ袋を掴んで立ち上がったとき、一瞬立ちくらみがした。そのあと玄関ドアを叩く音が聞こえたように思ってそちらを見た。しばらく見ていたがドアの郵便受けやドアノブが動くような気配はなくしんとしていて、気のせいかな、と思ってまた六畳間に戻った。
ゴミ袋を敷き詰めてその上に横たわったとき、また音がした。どうやら気のせいではないとふらふら歩いて行って玄関を開けると、ドアの向こうに社長が立っていた。
「広森さんが戻って来たよ」
社長はするめの袋をわたしの前に差し出した。社長がいつものようにソファで寝ていると、いきなり広森さんが店に入って来たのだと言う。袋にはぎこちない文字で、「サナダさんへ」と書かれている。わたしは袋をそっと掴んだ。
「茶菓子を買いに行っていたというのは本当だったんですね」
「なんでも買い物の途中で道に迷って、部屋に帰れなくなったらしいんだ」
三日間隣町をさまよって公園で倒れていたところをどこかの青年に助けられ、病院に運ばれて、一週間も入院してたというのである。
「広森さんはさまよっていた三日間、何も食べていなかったそうだよ」
食べるにも持っていたのはするめとせんべいだったから無理だったのか、しかしよほど切羽詰まればなんとか食べることもできたであろう。わたしがするめの袋を見つめていると、社長が小さく顎をしゃくって「食べれば」と言った。
急にわたしのお腹がグウッと鳴った。チラッと社長の顔を見ると社長が「やせがまんせず食べちゃいなよ」と言う。
「いえ、わたしはもう食べ物は・・・・・・」
と封を開けるのをためらっていると、
「それで、もう一回店をやろうと思ってね・・・・・・」
と、社長が寝癖ではねた髪をなでつけて言った。それから、
「また手伝ってくれないかなあ。ほら、うちはサナダさんで持ってたから」
と少し決まり悪そうにわたしを見て笑った。
「ふふ、しかたないですねえ」
ようやくわたしはするめの袋の封を切ることができて、げそを一本掴んで口に放り込んだ。
ひさびさの食べ物だった。けれどしばらく何も食べていなかったせいか、うまく噛めないのである。そんなわたしに社長は「ほらしっかり噛んで」と広森さんのように煽ってきた。何日かぶりに食べるするめはとてもおいしく、ぎゅうっと奥歯に力を入れると唾液が一気に溢れてきて、わたしは思わずむせてしまった。
ああなんだ、人生なんて本当の少しのきっかけで生きたり死んだりするのだな、とわたしはするめの袋に書かれていた広森さんの字を見つめた。
今日店にやってきた客は、猫を抱いた中年男だ。男は大事そうに猫を赤ちゃんを抱くときのスリングに入れていた。探している部屋の一番の条件は、猫が出入りができるような壁に穴が開いているということだ。
社長はファイルを広げていくつか物件をあげ、その中からM町の借家を見せた。男は猫と一緒にそのページを覗き込み、端をつまんで前のページと何度も見比べて言う。
「なかなか良さそうですね」
そのうち猫がページの端っこを噛み始めたので、「案内しましょうか」と言いながら社長はファイルを取り上げた。
男が物件を是非見てみたいと言うので、三人で社用車に乗ってでかけた。猫はスリングに入って抱かれたままだった。それにしてもおとなしい猫である。普通なら怖がって車になど乗らないものだ。
M町の借家があるのは町中より少し外れたところだ。敷地に余裕があるので小さな家庭菜園がついている。車から降りた社長は玄関に回って錠を外し、ベニヤ板のドアを開けた。 部屋の中からかび臭い空気が流れ出てきた。先に社長が上がっていって、雨戸を揺すりながら開けた。外の陽が入ってベージュの壁に混じっている粒がきらきら光り、畳は茶色く日焼けしている。続いて猫を抱いた男とわたしが部屋に上がると、畳半畳ほどの玄関のたたきは三人の靴で足の踏み場がなくなった。
「どうですか? 家賃もお安いですよ」
と、社長が振り返った。男は部屋をぐるりと見渡し首を傾げた。
「壁に穴がないですけど」
「ああそれね。ほらこの部屋は土壁でしょう。かなり古い建物ですから、ちょいとそこらをぶち抜いてしまってもかまいません」
「ちょっと社長」
わたしが肘で社長の脇腹を突っつくと男は壁に近づいて行ってしゃがみこみ、耳を当ててボンボンと叩いた。
「なるほどこれなら抜けそうですねえ。よし」
男はすっと立ち上がったかと思うと、勢いよく壁を蹴りつけた。社長が言うように、一回蹴りつけただけで南の掃き出し横の壁に猫の頭ぐらいの穴が開いた。社長はにっと笑い、契約書を男に差し出した。
「こことここへ名前と、それでここへ印鑑を」
もう何度と見た、「不動産屋 あいちゃん」の契約書である。
男が記入し終わると社長は「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。少しは駅前の不動産屋の女の子を見習うつもりもあるらしい。それから社長は契約書を小さくたたんでポケットへ押し込んだ。
帰りがけたたきに立って振り返ると、男に抱かれている猫と目が合った。男が開けた穴がちょうどわたしと猫の延長線上にあって、そこから家庭菜園が見えた。そして前の住人が作っていたのだろう、熟れすぎて今にも落ちそうなトマトがひとつぶら下がっているのである。
玄関ドアを開けると焼き魚のにおいがしていた。台所の窓ガラスに引っ付いて、気の早い蛙が鳴いている。