第八話・引っ越し翌日・後編
引っ越しのあいさつまわり。この日の最後は田中家だ。
「こんにちは、前に越してきた喪井と申しますが~」
ダイフクが玄関ごしに声をかけた。その間もずっと玄関内から犬の鳴き声が聞こえる。犬はどうやら複数匹いるようだ。ワンワン、キャンキャンとにぎやかだ。
「しっ、うるさいわい、静かにせんかいっ」
奥からしわがれた声が聞こえてきた。男性の声だった。玄関に通じる襖をあけたらしく玄関のガラス越しに犬がこちらの方に来て飛び跳ねているのが透けて見える。犬は小型犬らしい。白い犬と茶色の毛並、黒のぶちらしい。順番に跳ね上がって玄関下部のガラス戸をカリカリと掻いている。
どうやら犬自身は玄関を開けられないようだ。奥から男性らしき人が出てきてそのうちの一匹を胸に抱いたかと思うと玄関ががらと開いた。同時に抱っこされなかった犬が私たちのいる外側に飛び出して私たちに向かって吠えたてる。男性が玄関の戸を開けると同時に中からもわっと奇妙なにおいがした。ケモノくさいような、チーズくさいようなにおいだった
アンキチが犬にさわりたくて、「わんわん~わんわん~」と手をふりまわして抱っこからおりようともがいた。
「アンキチ、下りては駄目よ。わんちゃんに噛まれるよ」
出てきた男性はごま塩頭の六十代ぐらいの男性だった。
「こんにちは、昨日引っ越してこられた人だね」
ダイフクが答えた。
「そうです。田中さんですね? 喪井ダイフクと申します。妻のモナカと子供のアンキチです」
「子供さんはまだ小さいな、いくつかね」
「二歳です」
「うん、こいつらは噛んだりはせんよ、降ろしてやりんしゃい」
「おりるう、おりるうー、わんわんとあそぶう」
その間も犬は私たちに向かってずっと吠えていた。田中さんに抱かれたままの犬はくーんと甘えた声を出している。
私は迷ったが田中さんがにこにこしていうのでアンキチを下ろした。とたんにアンキチは足元にいた犬にさわろうとして突進する。犬たちはアンキチに触られないようにさっと後退し、それからまた吠えた。だが尻尾を振っている。犬なりの歓迎のあいさつなのだろうか。田中さんはアンキチと同じ目線になるようにしゃがんで抱っこしている犬を差し出した。
「こいつが一番おとなしいんじゃ、頭なでてみるか?」
アンキチがこわごわと犬の頭をなでた。
「わーあったかいかわいい」
田中さんは目を細めて笑った。
「だろ? これでお前たちは友達だ、仲良うしような」
アンキチが頭をなで続けていると残りの犬も近寄ってきた。こちらが危害を加えない人間と認定してくれたのだろう。アンキチは残りの犬にも順番になでてやっていた。
私が田中さんに布巾セットを差し出すと「どうも」 と頭を下げた。奥からもう一人誰かが出てきた。腰のまがったおばあさんだった。顔は失礼だが鼻を中心に巾着で絞ったようなしわだらけだ。たぶん入れ歯をしていないせいで、口元まわりがへこんでしわが凝縮してみえるのだ。だがにこにこして笑っているのはよくわかる。小柄で小さなおばあちゃんだ。足がちょっと悪いらしく、玄関の手すりにつかまってつっかけを履こうとされている。さっと履けないらしく時間がかかるようだ。おばあさんは手すりにつかまり、足につっかけを履こうとさぐりながら、こちらを見て微笑んだ。
「……誰やいな?」
田中さんがしゃがんだまま「昨日引っ越してきた喪井さんじゃ、あいさつに来てくださったんじゃ」 と大声で言った。必要以上の大声なので私たちはこのおばあさんは耳が遠いのだとわかった。おばあさんは田中さんの声がちゃんと聞こえたらしく笑顔が大きくなった。
「ほうかあ、あれまあ小さい子供もいる」
田中さんは言った。「これはうちのおばあちゃんだ。村の人からはエコばあちゃんと言われてる。今はこんなばあさんじゃがこれでも昔は看護師をしていたんじゃ。年は九十歳じゃよ」
「元看護師さん、九十歳、すごいですね!」
田中さんはうれしそうに笑った。エコばあさんはもっとうれしそうなしわくちゃの顔をして、玄関から出てた。やはり足が悪いようで壁伝いにくる。そして視線はアンキチからはずさないで眺めている。子供が好きなのだ。田中さんは続けた。
「私たちは三人家族で、わしの奥さんは桃園温泉の道の駅の販売員をしちょるので帰りが遅いんじゃ。息子夫婦は県南で働いている。孫も三人いて盆と暮れには帰ってくるけえ。この子とも仲良うしてくれるじゃろ」
「そうですか」
やっとつっかけが履けて外に出てきたエコおばあさんはアンキチを見て相好を崩して「かわええコやの、名前は?」 と聞いた。
「あんきち~」
本人が答えた。アンキチはもう三匹の犬たちと仲良くなって順番に頭をなでてやっている。おばあさんがアンキチに近寄って頭をなでた。同時にプンとおしっこの強い匂いがした。おばあさんはもう一度名前を聞いた。
「かわええコやの、名前は?」
「あんきち~」
「そうかそうかアンキチくんか。ほいであんたたちは?」
「喪井です」
「そうかそうか、この子の名前は」
「アンキチです」
この辺で私たちはこのおばあさんが呆けているとわかった。そしてこの家のきみょうな匂いは多分このおばあさんから出ているのだった。おばあさんはアンキチの顔をにこにことして見つめている。アンキチはおばあさんを見ない。犬ばかりかまっている。
男性が言った。
「あんたたち、農家は初めてなんじゃろ? 移住者でここでがんばるんじゃろ」
ダイフクは男性をまっすぐ見つめて「そうです」 と返事した。男性、いや田中さんは何度もうなづき「あんたたちは若い、農家は体力がいるし、キツイ仕事のわりには儲からん。若い者が敬遠するのは当たり前じゃ。だが敢えて挑戦するということはエラいことじゃ、がんばりんしゃいよ」
私たちは田中さんの激励の言葉を素直に受け取った。
「有難うございます、がんばります。こちらも農家のようですが、ご指導を仰ぐことがあるかもしれません。なにとぞよろしくお願いします」
田中さんは何度もうなづいた。
「わしらはのう、県南の方からこの紙耐に三十年前から引越ししてきたんじゃ。おやじが公務員で定年退職と同時に百姓をするとか言ってな。だから移住ということではあんたたちと似たようなもんじゃ。わしの母親のこのエコばあちゃんだって移住直後から村の診療所で七十歳になるまで看護師をしていたし……まあすぐこの紙耐には溶け込めた方じゃな」
「まあ田中さんも元移住者、心強いです!」
私は思わず声をあげたが、田中さんはダイフクと私を交互に見ながらゆっくりと言った。
「……ここらはわしらを含めて老人世帯が多くて面食らうことも多かろう。昔から紙耐に住んどるものが一番偉いんじゃという変わった人もいるがそういうのは関わりあわんように気をつけんしゃい」
私たちはここであれ、と思った。だが人間関係はどこへいってもついて回る。だからそういう人もいるだろうと「わかりました」 と言った。田中さんはもっと何か言いたそうだった。あごをくいっとしゃくって私たちのずっと後ろに見える小高い畑を目で示した。
「特にあの畑にいつもいる……あいつら夫婦に気をつけんしゃい」
「は、はあ? 今は誰もいないようですね」
「何をいいよる、軽トラがちょっと見えるじゃろ。どこでも軽トラが止まっていれば人がいるということじゃ。だがあの畑を見てごらんよ。パッと見には畑の中に人がいるかいないかもわからんじゃろ。このあたりの家は全部農家だが普通は畑に囲いはしない。だがあいつらだけは泥棒を用心してあんなに高い柵をこさえて畑にしている……」
「はあ……あの、よくわかりませんが、あの畑の人にもいずれ見かけたら挨拶しておきます」
「挨拶してもあいつらの態度は変わらんじゃろ。あいつらの畑はあそこにしかない。マンマエのテルさんとこから借りている。わしらは移住して三十年じゃがあいつらは十年前にこの紙耐に移住してきたんじゃ、あいつらの家は遠い。だけどあそこしか畑が借りられんのじゃ。あいつらは、のう……」
アンキチを笑顔で見下ろしていたおばあさんが振り返って言った。
「ほんまに、あいつらが来てから紙耐はぐちゃぐちゃになった……わしゃ呆けてもあいつらからいじめられたことは忘れんぞえ。ほんまに悪い人間っておるんじゃ。だけど誰も何も言えんのじゃ」
おばあさんは田中さんが声を落として話をしたのに、今の話が聞こえていたのだ。息子さんがいうほどどうやら呆けてはいないらしい。
話が変な方向に言って私たちはめんくらった。移住者というなら、私たちと同じではないか、また当の田中さんだって数十年前に県南の方からきた移住者だという。なのに田中さんは十年前に移住してきたらしいあそこの畑にいる夫婦をあいつら、と呼び捨てにするのである。いったいどういうことなのだろうか。ダイフクがきっぱりと言った。
「田中さん、このお話の内容はきたばかりの私たちにはわかりません。いずれまたお伺いすることもありましょうが、今日はこの辺でおいとまします。今後ともよろしくお願いします」
ダイフクの気持ちは私には手にとるようにわかった。田中さんはきっとあの畑を使っている人とトラブルをおこしているのだ。だが私たちは昨日引っ越してきたばかりの移住者だ。何もわからない段階、諸事情もわからない段階からはどちらの味方もできないだろう。
私たちは田中さんとその母親に何度も頭を下げた。田中さんは母親には聞こえないように「うちのばあちゃんは呆けているさかい、迷子になったらうちに知らせてや。わしはみんなにこう言って頼んでまわってんじゃ」 と言った。
そのおばあさんは呆けているかもしれないが、正確が穏やかで優しい人だというのはわかる。アンキチからは終始視線を外さず笑顔を見せていた。小さなかわいい子供が大好きなのだ。アンキチはきっとかわいがっていただけるだろう。
私たちは犬と離れたくないアンキチの手を引っ張って、田中家を辞した。
田中家の敷地を超えて三十歩も歩けばもう私たちの裏庭になる。とても近いのだ。この小さな散歩の合間にも草むらからつくしが見えて私は感動した。
「ダイフク、見てよ。このつくし……。春の到来を告げるとかいうけど、実際に生えている本物を見たのは初めてよ。やっぱり紙耐は自然が豊かなのね! 明日にでもつくしを取って煮物に挑戦してみるわね」
「そうだな、つくしかあ。ぼくもちゃんと食べたことないや。いやさ、歓迎会でも出たのかもしれないけど酔っぱらっていたしな。覚えてないや」
「うふふ……」
表にまわって玄関の前に出たら私たち三人は同時に足を止めた。
玄関の戸の前には大小の袋があり、それぞれお米や、玉ねぎニンジン、じゃがいもが山となって置かれていたのだ。
「まあ、誰がこんなにたくさん……!」
「どうやら複数の人たちらしいな。じゃがいもの袋がスーパーのロゴいりのビニール袋や紙袋にはいっているよ。何人かがばらばらに持ってきたのではないかな? みんなうちが鍵をしめて留守にしていたのでここに置いていってくれたんだろうよ」
玄関のコンクリートのところにはラップでくるまれたさつまいもが置いてあった。ラップの内側には水滴がついている。さわるとまだ暖かい。すぐに食べれるようにふかしたものを持ってきてくださったのだ。
「名前も書いてないけど紙耐の誰かだよ。いい人たちだなあ」
「そうね、こんなこと都会でされたらちょっと恐いけどここなら大丈夫よね、いただいても平気よね」
「うん、大丈夫だろう。よかったなあ、いい人たちばかりでよかったなあ」
私たちは玄関の鍵を開け、ビニール袋に入っている隣人たちの心づくしの野菜を有り難くいただいたのだ。最後にまた玄関を閉めるときに空を見上げる。すぐに一番星を見つけた。今日も天気はよかったから、これからまた星空ショーが見れるだろう。それから私はマンマエの藤期さんの窓を見た。そこには誰もいなかった。ほっとした。昨日のように見られてはいない。私はそっと玄関を閉めた。
その日はそれで終わった。




