第七話・引っ越し翌日・中編
紙耐は人口千人を切る本当に過疎な田舎の集落ではあったが、それでも「村」 としての機能はかろうじてあった。というのは形だけに過ぎない役場にあたる、紙耐振興センターもあり、簡易ではあるが郵便局も小さな農協の支店も、定価販売だがなんでも屋さんもあったのである。
細々と暮らすには生活には支障なかった。
私たちは閉庁ぎりぎりに振興センターに滑り込んだが、住民票受付カウンターには誰もいず、奥の机に二人の男女が座って何かの作業をしていた。
私たち家族を見るなり、その二人は「ああ、新しく来られた移住者さんですね。紙耐にようこそ」 と陽気に話しかけてくれた。ダイフクは丁寧に頭をさげて「喪井ダイフクです。転入届をお願いします。こちらは妻のモナカと子供のアンキチです。今後ともよろしくお願いします」
女性の方が先にカウンターによってきた。受付女性の名札には藤期とあった。ベリーショートで青い制服を着ている。四十歳代に見えるがよくわからない。女性ながら体つきががっちりしていて何かのスポーツマンな感じだった。彼女は私たちをまっすぐに見て大きな声で尋ねた。
「住民票の異動届はこちらです。身分証明などもっておられますかね」
「はい、運転免許証があります」
「ここに見本がありますので、それを見ながら書いてください」
ダイフクが書いている間、私はアンキチを抱っこしてあやしていた。もう一人の男性職員もこちらによってきた。背は高いが頭は禿げている。鼻の横の法令線は深く、そり残しのひげも真っ白で定年前な感じを受けた。名札にはセンター長小倉とある。
「移住のご家族さんですね、私はここの振興センターの代表の小倉太郎です。よろしくお願いします。それと隣にいるのが藤期広木ですが私たちが常時ここに詰めていて、あとの職員はここから車で四十分かかりますが町民センターから通っています。外回りには保健師などいますので各種相談予約などはここの振興センターまで連絡いただけたら個別に対応します」
「わかりました」
やがてダイフクが書類を書き上げると藤期という女性が受け取りチェックをした。彼女はチェックが終わると気さくに話しかけた。
「東京から来られたのですね、ここは田舎ですがよいところでしょ? 私たちは同じ区になるので、行事でも一緒になります。よろしくお願いしますね」
すると小倉センター長が言った。
「わしもこの紙耐出身だがずっと北部から来てるから家は遠いがな。だけどこの広美ちゃんは役場勤めで近所だからなんでも相談するとええ、気の善い女じゃけえ、頼りになるぞ」
「こちらこそよろしくお願いします」
私たちは頭を下げた。
国道沿いの振興センターから車で我が家につくまで五分もかからない。だがもう夕暮れになっていた。
「やれやれ長い一日だったな、だけどあそこ見てごらんよ。田んぼの荒起こしっていうのをしてるだろ。ぼくらもアレをしないといけないから早く片づけをしないと間に合わないよ」
「田んぼの荒起こしって何のことなの?」
「田んぼに水をはってから、田植えをしないといけないけど、その前段階にあたるらしい。田んぼの土をほぐして、空気を含ませておかないといけないらしいよ。お米を作るということは、田んぼを作るということだ。田んぼの土から準備を始めておかないと農作業にならないらしいよ。ぼくも初めてづくしでよくわからないけど」
私は遠目にトラクターで土を掘り起こしている人を見た。トラクターの後ろから土がはねとんでいる。要は土をかき混ぜているのだろう。
「あれが荒起こし。トラクターの操作がいるのよね、大変そう」
「昔は牛を使っていたらしいが、今機械がしてくれるからな、何とかなるだろう」
「さあ、あと挨拶まわりだが前の藤期さんと田中さんところは今日のうちにやってしまおうよ。家のすぐ前と裏の人は明日以降にまわすと遅いことになるよ」
「そうね、じゃあ今から布巾セットを出すわ」
私たち三人は軽トラを庭に置くと家に入らず布巾セットを持ってまず前の藤期のテルちゃんとやらがいる家に向かった。屋号はマンマエらしいが、我が家にも覚えやすくて都合のよい屋号だ。細い小道が続き、わきには畑がある。畝はあるがまだ何も植えられていない。その奥が庭だ。つつじで作られた生垣のある結構大きな農家だった。庭はやはり広く我が家の十倍はあるだろう。松の胴には全部一本ずつ丁寧に寒さ除けの藁が巻かれていた。庭のしつらえからして、素人目にもちゃんとした庭師をいれているか、相当庭いじりが好きな人ではないかと思った。
私たちが庭先に出るとあちらはすでに私たちの行動を把握してたかのように、玄関の前に立って待ってくれていた。年は七十才前後で白髪交じりの髪を短く刈り上げている。グレイの小さな花模様のワンピースを着ている。
まずダイフクが足をとめて「こんにちは」 とあいさつした。すると藤期のテルちゃん、は、にっこりと笑った。私たちからはまだ気軽に名前は呼べないので、藤期さんと言うことにする。藤期さんははっきりした声で話しかけてきた。
「はい、こんにちは。東京から新しく移住してきた人ですね」
「そうです。喪井と申します。私はダイフク、妻はモナカと言います」
「お子さんの名前はなんですか」
「アンキチ~」
私たちが答えるより先にアンキチが名乗った。とたんに藤期さんは、ははは、と声を出して笑った。
「なんてしっかりしたお子さん!」 とほめた。アンキチが抱っこを嫌がったので私が下ろすと同時に走り出した。新しい場所には何にでも興味を示す。
「わーい、ここ、おもしろーい」
アンキチは庭先にあるすぐ横の小屋に入っていった。すると藤期さんはあわてて「そっちへ行くと危ない、そこは井戸小屋じゃけえ」 といったので私たちはアンキチを確保して抱っこした。そこは確かに井戸小屋でテレビの時代劇でしか見たことのない丸い井戸があった。四角い木で作られた重そうな蓋があったが、蓋の真ん中にも穴があいていて、太い荒縄でできたひもが通されている。アンキチならすっぽり入って井戸の底まで落ちてしまいそうな感じだった。私たちがアンキチをしっかり抱いて小屋から出てくると藤期さんが心配そうに言った。
「危ないでえ、うちの家はもう小さな子供はおらんけえ、蓋もそのまま開けている。危ない危ない」
「すみません、」
「アンキチちゃんと言ったが、まだ二歳ぐらいか。いたずら盛りだったら、うちも気をつけるわな。昔は小さい子供が井戸に落ちたりする事故もけっこうあったが、うちの井戸も立派な現役じゃけえ、使わないときは子供が入らないように鍵をかけるようにする」
「まあすみません。こちらには来ないようにしつけますので」
「いやいや、当たり前のことじゃけえ……歓迎会には行けなかったがこれからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
そこへワゴン車が一台入ってきた。庭の隅にある屋根のある駐車場に止めると男女が下りてきた。藤期さんが言った。
「あれは私の娘夫婦じゃ、娘は福祉センターの給食に、婿さんは福祉センターの介護職員じゃ」
娘さんは藤期のテルさんにそっくりだった。年は四十代はじめくらいか。なんとなく先ほど会った振興センターの藤期広木さんと印象が似ているので聞くとやはり「親戚じゃ」 という。
藤期さんは広木さんの名前を言って誇らしげに告げた。
「あの子はのう、この紙耐の誇りなんじゃわ。あの子はのう全国どころか世界でもスキー選手では有名なんじゃ。高校生の時にすでに国体で一位じゃわ。外国の大きな大会も何回も出てるし、冬季オリンピックも何回もいっちょる」
オリンピックという言葉が出て私たちは驚いた。
「まあ、じゃああの振興センターにいた藤期さんはそんなに偉い人だったのですか、びっくりしました。道理でがっちりした体形をされてました。スポーツ選手さんだったのですね」
マンマエの藤期のテルちゃんは満足そうにそして得意げに言った。
「そうじゃろ、そうじゃろ。だけどあの子は偉そうなそぶりもみせんじゃろ。とても良いコなんじゃ。この紙耐の名前もあげてくれたし、振興センターでもよう働きなさるが県のスポーツ大会の役員もしているし、婦人会の会長もしているんじゃ」
マンマエの藤期さんは世界的に? 有名なスキー選手と親戚だという誇りをもって胸を張っていた。すぐ横にきた四十代ぐらいの娘が顔をしかめた。
「お母さんったら、会ったばかりで広木さんの自慢話をするの? びっくりされているじゃないの。長話だったら中に入ってもらえば? ねえ喪井さん、立ち話もなんじゃけえ、奥に入りなさる? 今からしたくするけえ、よかったら晩御飯を食べていかれるかしら」
私たちはあわてて断った。うれしい申し出だが初対面で上がり込んでは失礼だろう。
「いいえいいえ、すみません。仕事でお疲れでしょうに、またの機会にします」
「そうか。じゃあ困ったことがあれば近所じゃけえ、相談してくださいよ」
「ありがとうございます」
「うちの庭は広いじゃろ。亡くなっただんなが庭師みたいな真似事をしたんで、紙耐では……」
「お母さんったら、もうおいとまされるのよ?」
どうやらマンマエの藤期さんは厳しい人かと思えば逆に人懐こそうで親切な人だった。屋号でなくテルちゃんと親しげに呼ばれていたが、そんな感じだろうなと思わせる人だった。娘さんもよい人そうだった。娘婿だと言われた人は寡黙でこちらには会釈をよこして家に入ったがすぐにつなぎのある服に着替えて外に出てきた。井戸小屋に入ったと思ったら長いホースをひきずって出てきた。どうやらこれから庭の木々に水をやるつもりなのだ。
帰るときに娘婿さんは黙って再度こっちに会釈をよこしてきた。娘さんとテルさんは並んで見送ってくださった。
今度は家の裏手側にある田中家だ。東京でも多い苗字の「田中」 さん。屋号はあるのだろうか、それともないのだろうか。ここもまた大きな家だった。大体紙耐には集合住宅の類はなく、マンションももちろんない。近づくと玄関の奥から犬の鳴き声が複数聞こえてきた。私たちの近づく気配を察して唸り声をだしている。どうやら番犬か数匹いるようだ。
う~、わんわんっ
「あっここのおうち、ワンワンいる? ワンワン? ワンワン!」
アンキチがすぐに反応して走り出そうとしたが、私はアンキチを止めて抱っこした。アンキチは嫌がったが、どんな犬かわかるまではアンキチを近寄らせない方がよいだろう。