エピローグ
広木の訪問を最後にして、誰一人我が家に遊びにこなくなった。蚊掻たちすらも。まるで申し合わせたように。
誰も野菜もお惣菜も持ってこない。モナカたちが出かけて三区の人たちを見かけると、露骨に顔をそむけられる。
ダイフクが張り切って受注していた伐採の仕事は来なくなった。ホウレンソウの出荷場ではもっとあからさまだ。
要は村八分をされた。
村八分、という言葉は知っていたが、モナカたちがそうなるとは思わなかった。
ダイフクとモナカは紙耐からの撤退を決めた。
まず松元に連絡を入れる。佐枝は多くを聞かず、こちらが至らず申し訳ないとだけ言われた。貸与された軽トラ、農機具、田んぼや畑、ビニールハウスの始末は、県南にいる長男と連絡を取るのでそのままにしておいてよいとのこと。
薬品を撒かれたあたりの田んぼはダイフクが先に稲を手作業で刈り取った。大体二メートル四方ぐらいだが、たくさん取れた。
薬品の影響を受けているようには見えぬ立派な稲だ。稲の硬い粒をあけてみるとちゃんとお米になっていた。だが何を撒かれたか不明な以上これをお米にして誰かの口にいれるわけにはいかない。この稲は廃棄処分だ。
あぜ道で焼いたがダイフクはつらそうな顔だ。モナカもつらかった。この煙は池田夫妻も畑から見ているはず。さぞや楽しい気分だろう。
残りの稲は撤退後に松元の長男が休みを利用して刈り取る。その稲は農協に卸して松元の利益になるだろう。だが無償貸与を思えば、お米が売れたとしても赤字だろう。
つくづく残念な事態になったが、紙耐でやっていけないのは明白なので仕方がない。
次に時本だ。彼はすぐにダイフクのところに来て、吊レや卸との関係悪化は農協としても困るし、思いとどまるようにと説得されたが、私たちの決意は固かった。もちろん時本にも池田がしたことは伝えている。
「……今まで田んぼに何を入れられてきたやら……妻が妊娠しましたし、私たちや子供の今後の健康を考えた上での撤退です」
時本は絶句していた。
最後にコーディネーターの阿久津と電話で連絡をとった。これで終わりだ。
阿久津に撤退を告げると残念がられた。ダイフクが事のあらましを最初から最後までいうと、紙耐以外にも近所トラブルで田舎嫌いになって撤退する人は意外と多いということを告げられた。
「村の慣習になじめない人はいますが、慣習にこだわるお年寄りの力が強いと若い人は嫌って出ていきます」
「うちの場合は近所トラブルではなく、犯罪の被害にあったのですよ」
ダイフクがそういうと阿久津は、ため息をついて電話をきった。この人はモナカたちに田舎暮らしの良さを教えてくれた。だから本当に残念でならない。
ダイフクは東京に引き返すべく住居を決め、元の職場に再就職した。モナカたちは元の生活に戻る。今までに見たのは半年かけた夢の中。
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撤退を決めた紙耐最後の日は快晴だった。ダイフクの田んぼには、数多くの赤とんぼが飛び交っていた。
引越し業者に乏しい荷物を引き受けてもらい、モナカたちは阿久津の厚意に甘え、彼の車で飛行場まで連れていってもらうことにした。アンキチは住み慣れてきた紙耐の家が気に入っていたので冷蔵庫や台所のテーブルが業者によって梱包され待っていかれると「やだやだあ」 と泣き叫んだ。でも、モナカたちは決めたのだ。その間も池田の軽トラがモナカたちの田んぼの向こうにいつものごとく駐車されているが、向うからの音沙汰はない。
マンマエのテルも引越し業者が来ているのに、窓からの低見の見物もない。撤退すると決めたらもう興味がなくなったのだろう。
そう、モナカたちは、よそ者だった。それが紙耐に住み着くなら興味の対象だが、出ていくなら関係がない。
波瀬がうわさを聞いたらしく、子どもたちを連れてきてくれた。アンキチはとても喜んだ。ミイナを早速庭の隅にある砂場に案内して遊んでいる。波瀬は一回り大きくなったツヨシをあやしながら言う。
「喪井さん……なんといっていいか、わからないわ。もっと仲良くなれたはずなのに残念ね」
その言葉はモナカの心に響かない。御礼の言葉は述べた。波瀬はラインをしようといったが断った。こちらから連絡をすることはないだろう。
波瀬が去った後、驚いたことに北本がミライを連れてきた。モナカは北本と会話をかわしたことは、ほぼない。婦人会にも入ってないので、どういう人か知らない。いつも鋲のついた黒い服を着てタバコをふかしている。まだ幼いミライにも黒い服しか着せない。北本はくわえ煙草のまま、モナカの家の庭先に来た。そして車から降りずに聞く。
「出ていくのだって?」
「はい、残念ですけど」
「そっか、私コレだけを言いにきた。紙耐に限らず田舎はどこもクソだから。あなたたちはよく頑張ったと思うよ」
モナカは北本がなぜそういうのか、わからなかった。北本はくわえ煙草をしたまま片頬をあげてニヤリと笑う。でもその笑いは、池田ヨンの笑いでもなく、蚊掻たちの困ったような笑い方ではなかった。単純におもしろがっている。
モナカは北本に間の抜けたことを聞いた。
「あなたはどこかに行かないの、ここが気に入っているの?」
「私は紙耐に根っこを下ろしたままの波瀬さんや広木さんとは違う、またとっくに出ていった矢駄さんとも違う」
どう違うのかと問えば傍観者だという。
「いずれ私もどっかへ行くけどね、旦那の懲役が解けるまでここにいる」
「ち、懲役……」
「そうさ、だからそれまでは、ここにいる。一度あのクズ夫婦からゴミ出しで難癖をつけられた時は、私が出向いて玄関のガラスを壊してやった。あのクズにはそのくらいの覚悟でやらないと効き目はない。おかげで静かに暮らしているよ。
特にあんたたちが移住してからは私らには目もくれないようになったから。この半年弱、うちは平和だったさ」
「……池田さんの家の玄関のガラスを壊した……す、すごいですね。それで警察には通報はされなかったのですか」
「紙耐にいる田舎ものは警察との関わり合いはハジになるとかで、自動車事故と殺し以外には通報はしない。ははは」
北本の目は笑っていない。モナカはどう反応すればよいかわからない。だけど池田ヨンを大人しくさせるには北本のような毒をもって毒を制すみたいな思い切った行動が必要なのかも。が、モナカには無理だ。
まだ暑いのに北本は長袖の黒い服を着ている。少しだけ手首までまくったところから極彩色のタトウーが見えた。この人はモナカよりもずっと若そうなのに一体どういう人生を送っているのだろうか。
北本は東京へ戻る道中に食べなよ、といってラムレーズンのチョコレートをくれた。アンキチにはまだ食べさせていないものだ。でも押しつけがましくない。北本のあっさりとした親切に、モナカもさばさばとした態度がとれた。
ちょっと凄味のあるお姐さんといった風情だが、もっと仲良くしたらよかったかも。北本は言うだけ言うと、さっさと車の方向を変えて去った。
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その一時間後には阿久津が迎えにきた。ようやく東京に戻るのだ。
アンキチは阿久津の車を見ると、モナカが何も言ってないのに大声で泣き叫んだ。
「やだー、ひっこしはやだー」
モナカが、いくらあやしても泣き止まぬ。
「ダイフク、手伝ってよ、アンキチが……」
ダイフクは二階にいると思っていたがいない。納屋かな、と思ったが、納屋にはすでに鍵がかかり入れぬようになっている。
家を含めて鍵類はみんな玄関のポストに入れていく約束だ。
「ダイフク、どこにいるの?」
ダイフクはビニールハウスと田んぼの間のあぜ道に座っていた。しかも正座。あぜ道の不安定なところに正座している。頭は深く垂れている。
ダイフクは泣いていた。深く垂れた稲穂の群れに向かって謝っている。
「すまない。お米にしてあげられなくて、本当にすまない。ここまで育ってくれたのに、ぼくだって、ぼくだってうれしかった。カエルもツバメもみんなぼくの田んぼに来てくれて、ぼくはうれしかった。みんなすくすくと育って。お米ももう取れそうなくらい黄色く硬くなっている。それなのにぼくは東京へ戻る。本当にすまない」
稲穂はダイフクに向かって垂れ下がりダイフクにむかって揺らいでいる。
まるで本当に行ってしまうのか、私たちを置いて行ってしまうのか問うように。きちんと列をつくってダイフクに向かって頭を下げている。稲穂の整列に目がくらむようだ。
いきなり頭上でトンビのピョロロロローという鳴き声がした。トンビが二羽、頭上高く舞っている。
「ダイフク……稲穂が行かないでくれと言っている……トンビどころか山も畑もビニールハウスの中のホウレンソウも……ねえ、もう一度」
ダイフクは正座を崩さず、少しだけ頭をあげてモナカに言う。
「それは言わないでくれ。会話が成立しえない人たちと同じ空気を吸って暮らしていくのは無理だ。
会話が成立しえない人と生活圏を共有するなら、都会で暮らす。君とアンキチとお腹の子のためだ。だがぼくの育てた稲穂や作物には悪いことをした、だから彼らに謝っていく」
田んぼの稲穂の整列の向こう側に池田の軽トラが見える。向う側の畑で池田夫婦は勝利の凱歌をあげているだろう。
庭先に杖をついたエコばあちゃんが来ようとしていた。足元はもうよれよれだ。よちよちと歩くエコばあちゃんを田中夫妻が支えていた。犬も後をついてくる。
エコばあちゃんの哀しげな声が風に乗って聞こえる。
「ああ、あれはアンキチくんの泣き声か。本当にここから出て行くのか。なんてことじゃ。また若い人が出ていきなさる、なんてことじゃあぁ……」
ダイフクが吹っ切れたように立ち上がる。
「では去ろう、東京に戻ろう」
モナカも立ち上がり、庭にまわって阿久津の車に乗り込む。庭の隅には蚊掻たちが来てくれていた。蚊掻たちは三人で身をよせあうように固まっている。
モナカを見て頭を下げたが言葉は出なかった。エコばあちゃんは泣きながらアンキチの手を握って放さない。田中が叱るとやっと手を放した。モナカは最後だからと、アンキチに好きなだけ犬を触らせてやった。
だが阿久津の車に乗せようとするとアンキチは再び狂ったように泣いて暴れた。
「やだやだ、ここにずっといる。ばあちゃんと遊ぶの、木登りするの、砂遊びもするの。アンキチはここにずっと住むの」
エコばあちゃんは顔中くしゃくしゃになってわんわん泣きだすと蚊掻たちも泣き始めた。田中夫婦は鼻をすすった。
上蚊掻がしゃがれた声で叫んだ。
「すまん。わしらが不甲斐ないのじゃ、わしらがいけんのじゃ。喪井さん、ほんまにすまん」
裏蚊掻が上蚊掻の口を押えた。そしてそのままの姿勢で頭を下げた。その頭は二度と上がらなかった。阿久津が車のエンジンをかける。
「じゃあ、車を出しますね」
坂道を下って細い村道を辿ると国道に出る。
国道に出るまでの間。ぽつぽつと家があるが、驚いたことに皆がそれぞれの庭先に出てモナカたちを見送ってくれた。控えめに小さく手を振ってくれている。
モナカたちのいる車を見送ったと思うと、そっと目のまわりを拭っているのをバックミラーで見た。
モナカたちが尻尾を巻いて出ていくのを喜ぶ人ばかりだと思っていたので意外だった。モナカとダイフクは顔を見合わせたぐらいだ。
」」」」」」」」」」」」」
それから……。
それから東京に帰り、新しい再スタートを切った。
東京の空は狭い。そして暗い。
あの広がりを見せる山の景色と朝の空気のおいしさは東京にないものだ。
モナカたちは田舎に暮らした。
それはもう過去の話になった。
モナカは翌年無事女の子を産んだ。アンキチは紙耐のことは忘れてしまったようだ、保育園に通うとアニメのおもちゃや、がちゃがちゃに夢中になり、カードを駆使して勝負をかける子になった。田舎料理よりもジャンクフードを好む子になった。
そして喘息がまた出だした。
モナカは娘をおんぶしてアンキチを病院に連れていく。病院はいつも混んでいて待ち時間は平均二時間だ。それから薬をもらって買い物をして帰ると一日がつぶれてしまう。
ダイフクは営業の仕事に戻った。肌の色は白く戻り、髪もきっちり櫛の目を入れてネクタイをしめて毎日満員電車に揺られて会社に行く。
モナカたちはもう二度と田舎に戻らない。




