第一話 喪井家の三人・前編
第一話 喪井家の三人・前編
喪井モナカは二十九歳の女性。夫の喪井ダイフクも二十九歳。彼らは職場結婚だった。モナカは初婚、ダイフクはバツイチ。
ダイフクには二歳になったばかりの男の子がいる。名前はアンキチ。前妻の子で離婚時に彼がアンキチの親権を取った。前妻は浮気相手とすぐに再婚をするため、子どもはいらないと言ったそうだ。
故にモナカはダイフクと結婚すると同時に二歳児の母親になった。そしてこの子には喘息の持病があった。大きな発作を予防するため朝夕の粉薬がかかせない。
モナカは都内の貿易会社の受付事務、ダイフクは同じ会社の営業マン。彼は子どもの熱でよく有休をとる印象だったが、離婚時にモナカの住むアパートの隣に引っ越してきた。偶然だがこれも何かの縁でモナカがアンキチと朝夕のあいさつをしているうちに、懐いてくれた。そのうち、ダイフクが残業の時はモナカが保育園の送迎をするようになった。
アンキチを介して話してみると共通の話題が多い。年をとったら田舎で自然に親しみながらゆっくりと過ごしたいと思っているのも一緒だ。二人とも時間に追われることのないスローライフにあこがれを持つ。
……朝起きてまず朝日の光を浴び、近隣の山や海を眺めながら歯を磨いて顔を洗う。そこへ飼っている犬や猫がよってきて朝のあいさつをかわす。無農薬の野菜を使った手作りのご飯を食べる。
朝のゴミ出しの曜日や満員電車や仕事の段取りは考えない。味のない野菜や果物、加工物、冷凍食品、たくさんの添加物の入った安価な食事はしない。
そういう生活ならアンキチの体質改善にもなるだろう。おおらかな自然はアンキチの体力作りにもきっとよい影響を与えてくれる。
海では泳ぎを、山では登山を楽しみ、天候が悪ければ家で読書。
近所には優しいおじいちゃんやおばあちゃんがいる。近所付き合いも程よい距離だ。
田舎は不便だけどその分お互い助け合いの精神が生きているので都会よりもずっと暮らしやすかろう。
モナカたちが早くに両親をなくし頼れる親戚がいなかったというのも大きかった。理想の生活を実現させるために、結婚することにした。そしてモナカたちの部屋には田舎ぐらし関連の本で埋もれるようになった。
家族だけのささやかな結婚式をあげるため式場の予約に行った。区役所の管轄になる公民館の部屋だと安くあげられる。その日はイベントをやっていて、式場の隣の部屋で田舎暮らしをすすめるセミナーをしていた。モナカたちはセミナーを聞き、終了後に個別相談もした。結論として彼らは、担当者と意気投合して、過疎地に農業就業者として移住することになった。
行き先はその阿久津なる男性担当者の一押しの場所。モナカたちにはあまり軍資金がないので移住するにあたり、一番条件がよいところを選んでもらった。
そこは山地が連なる中国地方の県境で紙耐という。聞いたこともない小さな集落で、地図を見ると標高が六百と高く四方山で囲まれた隠れ里のようなところだ。集落の人口は百人。平均住民年齢は七十歳。現地では若い移住者を切望している。
この紙耐には電車は通っていない。国道が村の真ん中を突っ切り、運転ができれば二時間ほどで県庁のある市内の中心に行ける。アンキチのために大きな病院に通院できるアクセスのよさも魅力だった。
また居住用の農家と広い田畑を三年間無償で貸してもらえる。もし、だめだったら三年でやめたらよい。終生住む意思があれば、格安の値段でその土地と田畑が入手できる。
三年。
三年間農業をお試しでやってみてだめだったらまた都会に戻って会社勤めをすればいい。担当者は臨機応変に気楽にやっていけばよいという。
今にして思えば、モナカたちのその覚悟の甘さが、村人の一部の反感を買い、あのような事態を引き起こした。
だけど当時はそれなりの希望は持っていた。モナカたちは紙耐で夢と希望をもって田舎暮らしをはじめた。