第十二話・田んぼに水を入れる……水路の話
ビニールハウス内で苗床をつくる。稲の苗を育てる場所が苗床。お米になる前の植物の名前が稲。稲は種からじかに田んぼに植えつけたりはしない。ある程度成長させたものを水田に植えつけていく。それが水穂。
日本で一番多く作られているお米は水田、つまり水を張った田んぼから作る。
荒おこしが終われば次は田んぼに水を入れる。これを水を張るというらしい。農家の人にとっては当たり前のことでもモナカたちにとってははじめて聞く言葉に初めてやる作業だ。
まず、水の確保が大事だ。モナカたちに貸与された田んぼにも田んぼ用の水路がちゃんと畔に沿ってあり、水を引き入れるようになっている。一部段々になっているが、山から湧水が豊富に流れている。これはとてもありがたい。ダイフクが言う。
「紙耐の湧水は香月川の上流でとても質がいいそうだ。川魚まで泳いでいるから、びっくりするね。深くなっているところにはドジョウまでいる。この季節はまだ稚魚らしいが、夏ごろには取って食べてみたらいいと松元さんが言ったよ。驚くね」
「すごいわねえ」
モナカはアンキチにドジョウの歌を教える。
どんぐり ころころ どんぐりこ
おいけに はまってさあ たいへん
ドジョウが 出てきて こんにちは
ぼっちゃん 一緒に あそびましょ
ダイフクは松元からの注意をあらかじめ受けている。下の田んぼの人も同じ水路を使うので譲り合うこと。
水はけのよいところと悪いところがあるので、慣れないうちは田んぼの状態を把握できるまで毎日巡回したほうがよいことなど。
水路の利用法については裏隣の田中家とマンマエと話し合いをするのか、と思いきや、松元は「ここらあたりでは、話し合いはせんのじゃ」 という。それで自由に水を引き入れることにした。水路からモナカたちの田んぼに水を引き入れるときに、垂直に立てる板を調節して量を加減する。念のため、ダイフクは最初に引き入れるときに田中家に一番に声をかけた。
「もし不都合なことがあったら教えてください」
田中はダイフクのあいさつに笑顔で応じる。
「マンマエはもう婿さんが早々と水を引き入れてしまったし、うちは夕方にするつもりじゃけえ、今からやるなら好きなだけどうぞ」
それぞれ水を入れる時間は決めていない、田中家は、数か所から引き入れるので、翌朝には水が張れるらしい。つまり田中家は夕方に水路を開け、夜は寝て朝一番に様子をみる。ダイフクは初心者なので朝から水を引き入れて、何時間かおきに田んぼに出て様子をみる。新しいノートを用意して、時間を確認しながら記録するつもりだ。
ところが朝の六時から水路を開けて田んぼに入れているはずなのに一向に水がはいってこない。六時に開けた時は田中もいて勢いよく水が田んぼに流れていくのを確認していたのに。
しかもせき止めていた水路の上も極端に水量が減っている。原因がわからないので、ダイフクは水路の上流をたどってみた。
天気が曇ってきたのでモナカは洗濯物を干すべきか迷っていた。紙耐の天気は変わりやすく、晴れだと思うといきなり雨が降る。それで迷ったら部屋干しと決めた。以後は干してから雨に降られて洗濯のやり直しはない。
部屋干しは二階の寝室だ。インターホンをつけても、ほぼ毎日蚊掻たちがアンキチ目当てに遊びに来るので、プライベートなものは二階に置く。
二階には六畳間が二つ。ふすまで仕切ることができるが、狭く感じるので開け放している。南側と北側にそれぞれ窓があるが室内干しでも南側と決めている。
田んぼは家の正面から見て裏側つまり北側にある。
南側にの窓に円形の物干しだなを取り付けて下着から干した。だが田んぼが気になり、何度も北側の窓から水量を確認する。
ダイフクは、田んぼの向う側にある池田の畑の前だ。そこまで水路は続いているがダイフクはそこから動いていない。モナカはつぶやく。
「あそこで何かあったのかしら」
モナカは気になって干すのをやめた。畑には軽トラが止まっている。ということは池田がいる。だが誰もいない。ダイフクは畑に向かって何か説明しているようだ。
ちょっと嫌なものを感じて、アンキチの手をひいて田中家を通って突き当りを右に曲がって池田の畑に向かった。ぽつぽつと雨が降り出した。ダイフクは畑に向かって話しかけている。
「池田さん、出てきてもらえませんか。そちらの川から水を引いているのはよいのですが、こちらにも水を回せるようにしてほしいのです……」
モナカはダイフクに寄り添う。池田の畑はぐるりと青い網が張られ中の様子が見えぬ。だが人がいるのはわかる。
足元の通路と網目の畑の間には水路がある。その中に機械が沈んでいてそこからポンプがでてホースにつながっている。つまり池田はモナカや田中家、マンマエより上流にあるので、池田が水を使いたいと思えばいつでも使える。
だが水中ポンプからホースにつないで畑に水を入れてはいるが、そんなに必要だろうか。
事実水路から水を引き入れてはいるが、どこかにざあざあ水が出ていく音がする。あの中は畑だろう、田んぼではない。いったい池田は何をしているのか。
「池田さん、ちょっと話だけでもできませんか」
いきなり網目の境目がぱっと裂けて池田が出てきた。
「さっきからうるさいのう。都会ものは、ようも人のことを気安く呼びつけるものじゃ」
池田はダイフクたちの顔を見ないで横向きのまま言った。
それから水路にまたがるように足をかけ、ホースの端にあるスイッチをひねる。そして水中ポンプを一気に引っ張り上げた。とたんに水量が増えた。池田は動力源をつかって水を汲み上げていた。
ダイフクはゆっくり言葉を選びながら池田に告げる。
「紙耐では水は順番に使うと聞いています。あなたの畑は上流にありますし、最初から使っているならいいですが、次に私に水を使わせてほしいのです。だからいつごろ水路を使ってもよいかと聞きたいだけです」
「そんな話し合いなんかこの紙耐にはないわ。これから暑くなっていく一方なので、朝夕の水やりは必要じゃ。いつ水路を使っていいか決められん」
「それでは池田さんのいないときに使えばよい、ということでしょうか」
「畑でも水は大量にいる。文句をいっても仕方なかろう」
話が嚙み合っていない。しかも池田は誰の顔も見ず、ひとりごとのようにつぶやく。
池田は重たげな水中ポンプをかかげて軽トラに積み込む。かなりの力持ちだ。それから運転席に乗りエンジンをかける。最後までモナカたちの顔を見ずに畑を去った。
その軽トラには水中ポンプとクワしかない。
急に雨が強くなってきた。モナカたちは池田の軽トラが田中家の前を通り、モナカたちの裏庭を通って見えなくなるまで見送る。
やがてダイフクは急ぎ足で水路に向かう。
「田んぼに水がいくか見回ってくる」
モナカもアンキチの手をひいて駆け足で家に戻る。しかし、玄関に入ると雨がやんだ。山の中の天気は予測がつかない。二階にあがってきた窓から田んぼを眺める。
池田の畑はさきほどまでいた田んぼの水路より一メートルほどの高さがある。その畑から水が流れていた。遠目に見てもびちゃびちゃになっているのがわかる。
モナカたちの田んぼに水をいれるために用水路をせき止めたのは二時間ほど前だ。池田はずっと自前の畑に水が全部いくようにした。畑にそんなにたくさんの水は不要なはずだ。なぜそんなことをしたのか。
池田が畑にいない間は、水路から水を引き入れ続けた。池田の意図は不明だがまた同じことをやりそうだ。
天気は快晴になった。そして昼ごろには田んぼの水位があがってきた。時折モナカは二階の北窓から様子をうかがう。
四隅の下方から田んぼの色が黒く湿ったようになり、水位があがって田んぼらしくなるのを眺めるのはうれしかった。
夕方、案の定、池田は軽トラで畑に来た。そして朝にやったことを繰り返した。モナカたちはそれを見た。
遊びにきた蚊掻たちも池田のことを次げても何も言わぬ。「田んぼに水が入ってよかったのう」 とだけ言う。
ダイフクは夜に田中家を訪問して、池田のことを相談した。だが、田中は一言だけ告げたそうだ。
「あいつらはそういうことをする。気にしては、米は作れんぞ」
モナカは、その話を聞いて好きなようにさせるのは、変じゃないのと言ったがダイフクも首を振る。
「田中さんは、なるべく関わりたくない様子だった」
「蚊掻さんたちも池田さんのことは何も言わないのよ」
「まあいい。朝夕は池田さん、夜は田中さんが水を使うなら僕たちは昼間に使えばいい。なんたって僕たちは新入りだから、遠慮すべきだろう」
「そうね」
そこへ松元さんが田んぼの水の様子を見に来た。ダイフクが池田のことを言ったら困った顔をする。
「ではあの人が来ない時を見計らうしかないな」
モナカたちは顔を見合わせた。だが突っ込んで聞ける雰囲気ではない。池田は水が必要なので水路を使っただけだ。来たばかりのモナカたちに嫌がらせをしたと決めつけるのは早いだろう。
その夜はすっきりしない気分で就寝した。だが明け方にインターホンの音で起こされた。時計を見ると午前五時。
ダイフクが玄関を開けると、田中がいた。田中は全身ずぶぬれだ。昨夜から降っていた雨がまだ続く。その上田中の下半身は泥だらけだ。
「喪井さん。水路に大きな石が入って詰まっちょる、今から取り除くが一人じゃ無理じゃ。手伝ってくれ。田んぼに水が入らないと困るじゃろ」
「水路に石……すぐに出ます」
モナカも会話を聞いてすぐに着替えて階下に行く。アンキチはよく寝ていたのでそのままだ。
現場の水路には確かに石が詰まっていた。モナカたちが水を入れるすぐ上の水流に。
そこだけ溜まりになっているが、そこに大人がやっとかかえるだけの大きな石が三つもある。そのあたりは水があふれて洪水のようだ。
このままだとモナカだけでなく、この水路の下流を使う農家も困る。水を確保することは上流の水路を利用するものの務めだ。
田中が水路に直に入り、ダイフクは田中の指示で棒をもってきてテコの要領で石を出すことにした。
田中の奥さんも出てきて手伝う。もちろんモナカも。履いていたパンツがみるまに濡れて重くなる。水も冷たい。奥さんはカッパを来て軍手をはめている。
奥さんは困ったようにつぶやく。
「私は出勤前におばあちゃんの世話もあるのに、困るわ」
この石は自然に転がってきたものではない。誰かが故意に放ったものだ。その誰かは、池田としか考えられない。
池田は軽トラを使い、真夜中に大きな石を持ち込んで放ったのか。 協力者もいたのだろうか。
四人がかりで石は、無事とりのぞけた。石は一時的に田んぼの畔に置く。雨が止んだら田中は山に捨ててきてやると言った。
ダイフクは田中と別れるときに質問をした。
「こういうことってよくありますか」
田中は黙って首を振る。
「言えばハジになるけえ、誰も何も言わんよ」
ダイフクがもう一度質問をした。
「またこんなことがあったら警察に行きましょうか」
田中はダイフクをじっと見た。
「喪井さんはまだ来たばかりじゃけ、わからん。警察はな、こういうのはミンジといってな、相手にはせんよ」
モナカたちは無言で帰宅した。それからすぐに熱いお風呂をわかして入る。アンキチはまだ寝ていた。その日は一日雨だった。その翌日も雨だった。
雨のせいか池田は畑に来なかった。モナカたちの田んぼには無事水が張れた。それはよかった。