第十話・大自然の中で生活する
引っ越しして早くも数週間がたった。季節は四月の終わり。
ダイフクは、よく働いた。モナカはその補佐だ。といっても、まだアンキチは二歳で手がかかる。
ただ紙耐に来てからアンキチは一度も熱を出してない。そして喘息のぜえぜえという発作もない。これはとても良いことだった。
東京にいた時は保育園に入れていたので、いずれこちらでも保育園を探しつつ、どこかでパートの仕事も探すつもりだ。
アンキチの喘息治療のための病院確保も心配だったが、朝夕飲む発作予防の粉薬は慢性疾患扱いで九十日分処方が出る。車で一時間かかるが県立中央病院への紹介状もいただき、万一の大発作に備えて吸入薬ももらっている。
この吸入薬はぜいぜい、という咳の発作が出たら吸わせると気管支を広げてくれる。だが発作がないにこしたことはない。空気の良いところだからやはり健康に良いのだろう。このまま発作が起きなければそれでよい。三カ月に一度の通院ですむなら、紙耐のような医療へき地でも大丈夫。
パートの仕事をさがすつもりだが、紙耐の生活に慣れてからと決めている。モナカたちは移住者なので特例として農業が軌道にのるまで必要な助成金や税金などの優遇措置を受けることができる。家や田んぼの無償貸与があっても、食費や衣類等に使う現金収入はない。
モナカたちの貯金や退職金をあわせて七百万円ほどあったので、二年は貯金を切り崩して生活するつもりだ。現金収入が望めないのは不安だが。
田舎暮らしと書くと余裕がありそうで、マイペースで働いて、休みたいときは休める、イメージがあった。都会の会社事務員として働いていた時よりは体力はいるが、新鮮だ。
あれもこれも自分でしないといけない。だけど身体を動かして働くのは楽しい。草むしりでも夢中になっていると、アリの行列や見たことのない虫が飛び出したりしてびっくりする。
モナカの借りた家の話をもう少ししよう。
元は茅葺屋根であったらしい。しかし、あれは本当に手間暇がかかるらしく、メンテナンスも萱ごと替える都度、大勢の人手がいる。今は誰も萱を育てないし、老人世帯が多い紙耐では手伝いの人員の確保すら難しい。よって茅葺は消滅した。
だからスレート建ての屋根だったが経年の変化のためにさび除けのペンキがはげて、めくれている。また庭先のヒノキの大木が屋根におおいかぶさるようになっていて、洗濯ものが乾きにくい。
そのヒノキの木から、乾いた球状の種がとんできてこれも庭先に山積みになっている。また家の中に隙間風がはいってくるので、畳の部屋の寝室でさえ、毎日掃除しないといつのまにか部屋の片隅に土ぼこりが溜まる。
ダイフクが荒起こしを続けるのと同時進行で畑も作る。稲の苗を育てないといけないので、ビニールハウスの準備もある。ダイフクはモナカより多忙だ。
モナカは家のメンテナンスを担当することにした。ペンキをもってあちこちのはげたところを塗る。それと草むしりだ。家周りにはコンクリート沿いに短い雑草がたくさん生えている。四月のはじめにきたころより、急に気温が上がり雑草が生えてくる。
ダイフクが田んぼや裏庭で畑の開墾をしている間、モナカは洗濯と草むしりをする。それが日課になった。
一通りやったら今度は二階から手の届く範囲からのこぎりで邪魔な木の枝を切っていく。のこぎりは納屋のすみに置いてあった。
枝切りは簡単そうだが、のこぎりでは切れない。ずっと手をあげて、ぎこぎこしていたら見かねた蚊掻たちがチェーンソーを貸してくれた。
八十八歳という小柄なおばあさんが身体半分隠れるようにしてチェーンソーを持ってくる姿はシュールだった。だが見かけと違って若いモナカたちよりずっと頑丈だ。
「これなら喪井さんでも扱える。使ってみんしゃい」
こわごわと使用したが、慣れたらこれほど便利なものはなかった。しかし危ない。足元をアンキチがうろうろするので、心配だ。
また腕をあげたまま、枝切りしていると木の粉が目に入って涙が出る。服の中にも入ってちくちくする。
半日がかりでやり遂げて、返却できたときはほっとした。
夜は早く寝るようにする。このあたりには娯楽施設はない。夜は真っ暗闇。移住初日の降るような美しい星空が見えるが、その余裕がないぐらいすぐに寝てしまう。
しかし夜にねずみが出現するらしく、天井から音がする。まるで誰かがあるきまわっているかのよう。ネズミ除去シートを設置すると翌朝大きなねずみがひっかかってもがいていたり。ゴキブリがいないかわりに紙耐ではネズミがでる。ゴキブリよりはかわいらしく、小さいころに飼っていたモルモットを思い出す。だが野生のネズミだ。ペットじゃない。寝ているアンキチをかじられても困る。
蚊掻たちが猫を飼えとアドバイスをする。
「猫はええ。勝手にネズミをとって喰いよらあ。このあたりではみんな猫を飼いよら、冬に抱いて寝たら暖かいし、一石二鳥じゃけえ」
しかしモナカたちは猫の毛はアンキチの喘息に悪いのではないかと心配で断った。
見たことのないムシの出現にも悩んだ。特に洗濯物によく付いてくるカメムシ。モナカは嫌いだ。カメムシ専用の殺虫剤を常備しておく。蚊やハエなどの虫よけを購入したが、それでもなお、
変な虫が出現して困る。モナカは大きなゲジゲジやムカデを生まれて初めて見たが、生理的にだめだった。
見た瞬間、大きく叫んだ。
畑にいたダイフクが驚いて家の中まで土足で飛び込んできた。
モナカの声は裏の田中家まで響いたらしい。田中夫妻ともども「どうしたんならあ」 と様子を見に来てくれた。
「なにい、ゲジゲジィ? 喪井さんは大きい声を出せるんなあ、これなら強盗が来ても助けてあげらあな、だけどゲジゲジぐらいは慣れてくれんとなあ」
と笑われてしまい恥をかいた。
ムカデはあまりに恐ろしくて記憶が飛ぶ。平たい胴体にみっちりと細長い脚が……それが居間の押し入れに入った。ダイフクが探しても見つけられない。
「絶対に退治して、でないとこの家に住めない」
モナカはそう言ったが見つからない。ダイフクが諭してくる。
「あれは害虫じゃなくて益虫らしい。生きたまま油漬けにしたらやけどの治療とかにもなるよ」
話を変えよう。
モナカはドラマで見た「大草原の小さな家」 のローラ・インインガルスが送った暮らしにあこがれる。この話はアメリカの開拓史に添った実在の話らしい。ローラは主人公の女の子の名前でモナカは夢中で見た。家族が仲良しで隣人たちも良い人ばかり。
モナカたちは紙耐の住民になった。大草原の小さな家のようなところではないが似たような暮らしだ。つまり大自然と共存して楽しく生きていくのだ。
体を使う毎日は刺激的だ。ダイフクとアンキチはまだ四月だというのに日焼けしてきた。ダイフクは最初の数週間は全身筋肉痛になり湿布だらけの身体で夜は死んだように寝た。でも最近は筋肉がついてきてたくましくなった。アンキチは狭かったアパートと違い、広い庭が我が領地とばかり毎日走り回る。
モナカたちは、ホームセンターで砂を買い、アンキチのために小さい砂場を作る。アンキチは毎日、おもちゃのスコップとお皿の上に雑草のご飯を大盛りにして作った。そして毎日遊びに来る蚊掻たちにそのご馳走をふるまう。
また午後には、田中家のエコばあの犬と遊ぶのも日課になった。こうして日常のサイクルが決まりつつあった。