第九話・引っ越し翌々日
翌朝、モナカが朝食の支度中、ダイフクはアンキチのおむつを変えながら言う。
「移住してからもう三日たった。早いなあ」
モナカは笑って返事をする。
「先週まで東京にいたのにね。ところで今日は何をするの?」
「うん、今日は農協の人と松元さんから荒起こしのレクチャーを受ける。九時開始だ。悪いけどお茶の用意を頼む」
「わかったわ。いよいよ農作業の開始ね」
「最初にトラクターの操作から教えてもらわないと」
「ケガだけは気をつけて」
「ああ、アンキチにはトラクターや機械類に近寄らせてはならない。ケガのないように気をつけてくれ」
「わかっているわ」
今朝のメニューは、ごはん、焼き卵、キャベツサラダ、それと昨日の夕方に玄関に置いてあった、山菜の煮物や漬物だ。それらは辛く好みの味ではないが、文句は言えぬ。
九時頃に来ると言っていたが、松元たちは八時半にはもう来た。農協の人はKUBOTAというロゴが大きくかかれた帽子をかぶっている。KUBOTAというのは、トラクターや田植え機、稲を刈り取るコンバインなどの機械類を売っているらしい。
農協が取次をするらしく、松元が専門家をよこしてくれるよう頼んでくれた。いずれモナカたちの農業が軌道に乗れば、農協との取引も必要だ。その顔つなぎも兼ねているのだろう。担当者は時本と名乗った。モナカと同じ年の二十九才で桃園温泉に住んでいる。
農協の支店も紙耐にはなく、桃園温泉にあるという。
モナカはトラクターなるものを初めて間近に見たが、前輪より後輪の方が大きく申し訳程度に屋根がついている。昔は田んぼをクワで一回一回地道に根気よく掘り起こしていた動作をこの大きな車輪でがーっと一気にやってしまう。
車体が赤くアンキチは「とらくたあ」 と何度も言って喜んでいた。
「とらくたあにのりたい」 と主張したが危ないのでダメだ。アンキチは泣いた。
大きくなったらいくらでも乗せてやる、それどころか運転して働いてもらわねば。早く大きくなれとモナカは、泣き顔のアンキチを抱いて頬ずりをする。小粒のチョコレートでアンキチの機嫌を取りながら、操作法を学ぶダイフクを見守る。
時本はダイフクにトラクターの運転席に座らせ、熱心に教えた。松元も横で聞いている。ダイフクの顔は真剣だ。やはり何事も最初が肝心だ。モナカたちは農家になる。まずはコメ作りの基本から習う。
やがてトラクターはモナカたちが借りた田んぼの中に入った。端の方から荒おこしをする。端の畔沿ってトラクターをゆっくり進ませる。
モナカたちが見守っていると松元がこちらに来た。モナカは改めて松本に礼を言う。
「何から何までお世話になります。近所の人からも、野菜や漬物をいただきました」
「いやいや、この紙耐は住民の数は減るばかり。若い人が居つかず農家は減るばかり。このあたりは標高が高いので、良質のコメがとれるのにもったいない。若い人にどんどん農業に興味をもってもらわねば。コメつくりもまた国つくりの基本じゃ」
「はい……」
松元は真剣だ。モナカも松元の熱意に答えたい。今年はまったくの初心者だから学ぶことは多い。いずれ収益をあげたら、農地も広げ牛も飼ってみたい。そのころにはアンキチも大きくなってモナカたちの手伝いをしてくれるだろう。
そこへ前触れなくモナカの庭すぐに、軽トラが通りすぎた。乗っているのは田中ではない。年配の夫婦のようだが、顔がよく見えぬ。。裏庭から先の人家は田中家のみ。道も細い。どこへ行くのかと思えば右折して畑の方へいった。モナカはあの軽トラの持ち主が田中のいう「あいつら」 とわかった。
軽トラは道がなくなるところで車を止めた。畑の広さは百坪ぐらいだろうか、田中のいう二メートルはあるスチール棒を立てて、その間に青い網目模様の縄のようなもので畑を囲んでいる。そのため中の様子が見えない。軽トラは田中の家からは見えなくても、モナカの家からは見える。
ということは、あちらからも、モナカの様子が見えることになる。挨拶ぐらいはしておくべきだろう。
松元はモナカの心を読み取ったように「行こうか」 と言った。
二人で軽トラが通った道を歩く。アンキチもついてきた。
軽トラはモナカの裏庭とそれに続く田中家の前を通過しないと畑に行けない。田中家の左右も田んぼだ。田んぼと田んぼの間には畔があり、沿うように小さな川が流れている。のどかな風景だ。
田中家の後方遠くでトラクターが動いている。ごま塩頭が動いて田中だとわかった。
松元が説明する。
「喪井さんの裏庭から山の手前のここらあたり。この田んぼまでが貸し出した土地じゃ。この道から向う全部が田中さんのもの。あの山の中腹にある囲いがしてある畑がマンマエのもの。それを池田が借りている」
「池田さんとおっしゃるのですね」
「……そうじゃ」
「はい」
アンキチは、はしゃぎながら歩く。田中の家の前までくると昨日のエコばあの頭が窓越しから見えた。犬が家の前を通りかかる人間を認めたのか家の中から吠えた。まったくあの三匹はよい番犬だ。アンキチは「わんわんところへいく~」 と言ったがアンキチだけ田中の家にあがらせるわけにはいかない。犬の動作で家の前に誰かが通ったのがわかったらしく、エコばあが顔を見せた。
「だれですか」
松元が大声で言った。
「わしじゃ、喪井さんとこに様子みにきただけじゃで、前を通らせてくんしゃい」
「村長さんか、それでそこの人はあんたの娘と孫かあ?」
「違う。そこに越してきた喪井さんじゃあ」
エコばあ昨日会ったばかりのモナカを忘れていた。だが無邪気なエコばあの笑顔が好きだ。モナカは叫ぶ。
「よろしくお願いします」
モナカたちは、池田の畑の前に来た。道もそこで止まっている。あとは野原だ。田中家から先の道は、私道で個人で作ったものだろう。ステンレスのポールとポールの間に、青い網が二重にかかっていて、外から何をしているのかわからぬようになっている。
松元は網の外から池田に話しかけた。
「おおい、松元だがこっちに出れるかあ、新しい移住者さんが挨拶に来られとるけえ」
しばらく無言だったが「おおう、じゃあそっちへ行くぞ」 という声が聞こえた。
どういう仕掛けなのか網目の境目がぱっと割れて初老の男性が姿を現した。
松元がモナカを紹介する。
「新しく来た喪井さんの奥さんじゃ、あっちに時本くんとトラクターを動かしているのが旦那さん。仲良くしてやってくれ」
「わかった」
池田は、モナカをちらっとみて会釈した。昨日田中が「あいつら」というので身構えていたが、いたって普通の人だ。
「奥さんもそこにいるんじゃろ、出てこれないのか?」
すると池田が断った。
「忙しい。今日は昼から町に出て買い物するけえ、急いじょる」
松元は肩をすくめた。
それで終わった。
池田の奥さんは出てこない。モナカと実際に対面したのはずっと後になる。この池田夫妻がモナカの田舎嫌いのきっかけになった人間だ。その時はまだそんなことになるとは思わない。
モナカは池田とていねいに会釈して松元と来た道を引き返した。
JAの時本は午前をダイフクの指導に費やし、午後は次の約束があるとかで支店に帰った。ダイフクは荒起こしを続け松元も夕方にまた見に来てくれた。
蚊掻のおばあさんたちも、ダイフクの働きぶりを見て褒めた。そして、お目当てのアンキチを順番に抱っこして頬ずりをする。
松元から無償貸与されたトラクターは二十馬力。
馬力というのは、文字通り馬一頭の力をいうらしいが、数字で示すと「七五キロの物体を毎秒一メートル動かす力」 をいう。もちろん馬力が高いほど力がでるが、その分コストが高くなる。
もし二百馬力のトラクターであれば、北海道などの広大な農地ではとても有力な使いでのあるものになる。しかし、このあたりでは田んぼが狭くしかも山岳地帯なので段々になった田畑も多い。だから小回りの利くものが繁用される。つまり、二十から三十馬力のトラクターが一番使い勝手がよいらしい。
モナカたちに貸与された五反の土地は、通常は一日あれば荒起こしができる。しかしダイフクは初めてだったので、一日かけて四分の一がやっとだった。
空気も良いし山からくる風も気持ちよい。モナカは日差しはまだ冷たいものの、つくしをアンキチと一緒に夢中で取り、蚊掻たちからテンプラにしたり、煮物にするとおいしいと教えてもらう。
のどかな田舎の日々……この時が一番よかった。




