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夕月

作者: 高宮

その日は土曜日だった。空には眩しい紅さが広がっており、一方で所々にある薄い鱗雲の影が際立っていた。

どこか嫌な紅さだ、と、彼は思った。短髪でスーツ姿をしている若い男性だ。右手には書類かばんが握られ、左手はスラックスのポケットにしまわれている。

彼は、ちょうど家路への道を歩いているところだった。顔には若さとは不釣合いな皺がより、薄暗さが漂っている。疲労の溜まったことを充分に感じさせる彼の雰囲気は、休日を向かえようとするそれとはまるで正反対であった。鈍い鈍い水銀のような光がただ目に宿っていた。

彼は本日、本来は休日のはずの土曜の一日を思い返した。休日にも関わらず朝から出勤し、仕事を何とか片付けたのは彼にとって良いことだった。ただどうした事か、ここ数日やたら体が重くて敵わなかったこともあり、普段以上に彼はストレスを感じていた。

「はぁ…」

ついつい漏れる鉛のような声が、さらに彼自身を縛るように彼自身の耳に響く。何故こんなにも疲れているのか、彼は彼自身に問う。原因は思いつけばきりはない。仕事の急がしさ、人間関係、ふとした些細なミス、時間がうまく使えないフラストレーション、その他その他。あれよあれよと出でる原因候補達に、どうにも彼は自嘲するしかなかった。

(こういうときは飲んで帰ろう、どうせ明日は日曜だ)

ふと彼はそう思い立ち、歓楽街の方面へ足を伸ばし始めた。

土曜の歓楽街はそれなりに賑わっていた。一時の夢を求め歩き回る人々の中に彼も自然と溶け込む。

しかし彼が周りに目をくばせば、その見る人見る人がどこかいやらしく思えて仕方がないようだった。その歓声が、その顔つきが、その派手な光が、その全てが彼は気に入らなかった。自然と彼の足は、歓楽街のにぎわしいネオンや声から遠ざかっていく。

ついに歓楽街の中心から少し離れた路地裏に彼は落ち着いた。人の姿もまばらで客引きの姿もろくになく、どこか寂れた雰囲気のする一角だった。

(この辺には…、あまり来たことがなかったな…)

そう思う反面、この空間が彼にとって居心地の良いものであったのは確かだった。どこか隔絶されたようで、関係を作るのに不思議な距離感があるような空間だった。店に入ることもできるが、無理に強制されることもない、そんな街を彼は歩いた。

(どの店に入ろうか?)

彼はぼんやりとそう考え店を見て回った。しかし入りたいという店が見つからなかった。どの看板もどこか踏み入れるには胡散臭く、どこか恐ろしくあった。

ふと彼が空を見上げた。夕暮れに空に三日月が出ていた。灰色の街の一角で見た三日月は、その赤い空とも相まってよく輝いているように思えた。しかし美しさに見とれるその反面、彼はなぜかその月が空に誰かが貼り付けたような違和感をも感じたのも確かだった。

空から目を離し、路地裏に目を移す。彼の視線は右側にある一軒の店に移った。

その店は鳥居のように赤かった。漆喰の壁を用いた木造建築で全てが赤いわけではない。にも関わらず、その赤さが彼にとって妙に印象的だった。入り口には灯篭が置かれていて、程よい光を放っていた。

(こんな一角にも洒落た店があるもんだな。よし、ここにしよう)

そう彼は思うと、ネオンのような派手派手しさのない暖かくぼんやりとしたその光に引き込まれるように、店の引き戸を開けたのだった。か細い光が輝く灯篭には、一匹の灰色の蛾が燐粉を舞わせ羽ばたいていた。



店の内部はその外面以上に赤と黒で彩られた空間だった。漆塗りの木製の机と椅子、朱色の柱が映えており、土壁の中に篭る燐光が穏やかに瞬いていた。

彼はその空間をゆっくりと見渡した。外面以上に浮世離れしたその部屋の構造は、彼の視線を動かすに充分なものだった。店の中には時間がまだ早いからだろうか、客らしい客の姿はなく、彼はどこに座ろうか考えあぐねていた。

「いらっしゃいませぇ」

そんな時だった。店の奥から幼げな声がした。そして足を擦らせるような音がして、背の低い女性が現れた。

酒を出す店にしてはその姿は幼すぎるものに思えた。身長は130cm程度で、目じりの垂れたその顔は童顔そのものだった。手ぬぐいに覆われたおかっぱ頭がその印象を助長させる。一方で彼女に朱色の着物は良く似合っているものだった。

さすがにその少女のように見える女性の姿に彼は面食らった。場所が場所である。しかしその女性は彼の驚きには何ら気がついていないようなそんな雰囲気で、ただ微笑むだけだった。一方でそのまま呆気にとられたような彼は、言われるがままにカウンター席に誘導されてしまった。

彼女は奥に引っ込むと、お盆の上に陶器の小さな器とおしぼり、枡の入ったコップと酒瓶を乗せて再び現れた。ゆっくりと足をすらせて彼の所に近づいてきた。

「お通しですぅ」

彼女がそう言って、土色の小鉢を目の前に置いた。オクラの胡麻和えが彼の目の前に姿を現した。そして盆に載せられている赤い枡に入ったガラスのコップをテーブルに置くと、酒瓶から透明な水を注いだ。ガラスのコップから水が溢れ、枡の中まで満たされていった。芳醇な香りが彼の鼻腔を突いた。

(お酒はまだ頼んでないんだけど…)

彼はそう思う反面、そのガラスのコップを自然に、反射的とも言っていいような手つきで掴み口元につけていた。端麗なすっきりとした味が口いっぱいに広がり、喉を少し焼いたような感覚が彼を襲った。鼻の奥から先へと空気が吹き抜け、頭を少し蕩かした感覚が襲った。

(…う…ンまぃな、コレ)

一連の感覚を味わった彼はそう思い、息を吐いた。肩の力がすっきり抜け去るような感覚が彼に降りてきたようだった。

ふと視線をコップから移すと、店の女性がにこにこと笑って相変わらずテーブルのそばにいたことに気づいた。彼は突然表情を改め、気恥ずかしそうな顔になった。表情にもその気が抜けたものが出ていたことに彼が気づいたからだった。

表情を改め、彼はテーブルの周りを見渡した。しかし彼が求めるものは一向に見当たらなかった。

仕方なしに彼は

「あの…メニューを…」

と、店員に訪ねた。

「あぁ、すいません。うちは“めにう”がないんですよぉ」

困ったような上目遣いで、その店員は言った。

「え?」

「そのぉ…“こぉす”料理専門でしてぇ」

「はぁ、なるほど…」

しこりのあるような生返事を彼は返した。

「あぁ、でも大丈夫ですぅ。お客様から料金は全然取りませんからぁ」

「え、あ、はぁ…」

全然取らないと言われても…、と彼は戸惑った。財布には偶々数万円ほど入っており、一人でのコース料理であればそれほど問題ではないはずだった。しかし具体的な価格を知らない以上彼が戸惑うのも無理のないことだった。

彼はもう一度よく店内を見渡してみた。居酒屋などにありがちな値札が書かれた張り紙などがあるかと思ったからである。しかし彼が期待するような札や紙の姿はどこにもなかった。

(お通しに手つけちゃったしな…。出るのは気まずいし、仕方ないか)

そう彼は思い直し、目の前に出てくる料理を楽しむことにしたのだった。

「里芋の煮っ転がしですぅ」

まず出てきたのは素朴な煮物だった。酒の方は先ほどの瓶の冷酒が注がれた。

煮物の風味と酒の味が程よく合い、田舎の風景が浮かぶような味だった。

「七草粥ですぅ」

彼が里芋を食べ終わる頃になると、続いて七草粥が出された。

彼はこれにも舌鼓を打ち、酒が進んだ。そしてこれが終わる頃になると

「こんなのもどうですかぁ?」

「おぉ、生八ツ橋ですか」

店員はそそくさと静かに近寄りテーブルに出してくるのだった。酒に甘味は合うのかと彼は思ったが、口の中で餡が酒でほぐれていくのが彼は楽しく、思った以上に酒が進んでしまった。

八ツ橋の後に一品食事を平らげた彼の目の前に

「十割蕎麦ですぅ」

ざるそばが現れた。

「おぉ…」

彼は思わず声を出した。

(何でも出てくるな…)

途中で甘味が出てきたり、その脈絡のなさはコースと呼んでいいものか、もしくはどういったテーマ性があるのかよくわからなかった。

しかし彼にしてみれば次第とそれはどうでもいいものへと移り、意識の淵に消えていった。それはこの店の食事の味わいや酒のもたらす恍惚にとってみればどうでもいい代物に違いなかったからだった。




彼はそのまま食べに食べ、飲みに飲んだ。

この店の食事の組み合わせは奇妙であるが、その料理や菓子類は彼には全て美味に感じられたようだった。彼がふと気づけば、食べ終えた料理の皿が机の上に広がっていた。茶色の皿が8枚に、赤い漆塗りの皿が16枚にのぼっており、いくらなんでも食べすぎだと思わされる量だった。

(さすがにこれ以上食べるのはな…)

彼はそう思うと、

「あの…すいません」

「あい?」

「これ、このコース料理あとどのくらい続くんですか?」

店員にそう訪ねた。

すると店員は大きな目を丸くさせて

「あれぇ、言うてませんでしたかぁ?これお客様が終わりたいときに終わるのでぇ、お声をかけていただければそれで終了なんですよぉ」

と、とぼけた声で返した。

(聞いてないぞ、そんなこと…)

彼は驚きそう思うも

「あはは…、そうだったんですか…」

表面ではそういった素振りが見えないようなんとか取り繕った。

しかし代金がいくらになるかと考えれば、少々寒気がしたのも確かだった。目の前の皿の数と飲んだ酒の量を思えばのことだった。

「じゃあ、お勘定おねがいします」

「あぁ、終わりですねぇ。わかりましたぁ」

彼が勘定を切り出すと、店員はにこやかな顔になった。

しかし店員はいつまで経ってもそこを動こうとはしなかった。元々この店はレジはおろか伝票すら置いていなかったが、彼女はそれ以前に一向に金を催促するような素振りを見せなかった。

「…あの?」

「あい?」

奇妙に思い

「……お勘定は…?」

彼がそう訪ねた。

「え?」

とぼけた顔をして店員が返事を返した。

「いや…、お金の支払いですけど……」

「いぇ、お代はもう頂きましたからぁ」

再度勘定を切り出した彼に、店員は相変わらずの笑みでそう返した。

さすがに彼はこの言葉には驚いた。

(払ったか…?払った記憶がないんだけど…)

だがもしかしたら、酔いつぶれるかもしれないから食事の途中で区切って支払いをしたのかもしれない、とも彼は思った。

(もしかして相当酔ってるのかな俺…)

自分自身のした行動があやふやになり、自信がいまいち彼の中でもてずに漂っていた。しかしやはり彼は払った記憶は彼の中にはないように思えた。

「えっと…本当に、ほんっとうに、俺、払いました?」

「あい。頂きましたぁ」

再三の確認を彼はし、店員は当たり前のような調子でそう返した。

嘘も気遣いも特に何もないような彼女の調子を見て、彼は首をひねるものの払うものを払ったのだと納得せざるをえなかった。

「えぇと…、じゃ、じゃあご馳走様でした」

「あい。ありがとうございましたぁ」

彼はテーブルを立ち、荷物を持った。そして引き戸を手にし、店を出た。

(いいのかなぁ…、絶対払ってないと思うんだけど…)

幸福な食事と艶のある酒の味の残り香とは相反しているわだかまりを抱えつつ、彼は家への歩みを進めた。店の前の灯篭近くに蛾の姿が地に落ちていたことに、彼は気づくことはなかった。




ふと彼が空を見上げると赤い夕焼け空が広がっていた。そしてぼんやりと優しく微笑む夕月の姿がそこにはあった。

(あぁ…休日出勤だったけど、こんな美味い食事にも出会えたし、たまにはいいこともあるもんだな…。)

月を見上げてしみじみと彼はそう思った。その空の赤さは、彼が店に入る前に見たそれとは別物のように穏やかな明るさがあると彼には思えた。

(気分しだいで見るものは変わるものだなぁ)

浮ついた気分が鼻から抜き出て、彼はついつい笑顔になってしまう。その上機嫌さを振りまきながら、彼は灰色の一区画の出口へと足を向かわせていった。

辺りはすっかりネオンの歓楽街に移っていた。家路へ向かうために彼は呼び込みを無視しつつ、しかし余裕のある足取りで道を進んでいた。

(そういえば俺、あの店にどのくらい居たんだろう?)

ふと彼はそう思った。結構な量の食事と酒を飲んだのに、目の前に広がるのは店に入る前に見た光景と同じように見えた。携帯電話を上着のポケットから取り出し視線を落とす。

その瞬間、携帯壊れたのかな、と彼は思った。携帯電話に現れたその表示は、日曜日の午後5時代を指していたからだ。

首を捻り、彼は携帯で117番を押した。時報で時間くらいは確認しようとふと思いついたのだ。しかし彼の耳に入ってきたのは

「……午後5時11分34秒をお知らせします…」

携帯の時刻表示とまったく時刻の狂いがないという音声だった。

さすがに彼は混乱した。妙な動悸が彼を締め付けていた。

インターネットにアクセスし、曜日と時間を確かめる。しかし結果は日曜日の午前5時代だった。

ワンセグに切り替えTVを見れば、それは日曜5時代の番組が映し出された。

(どういうことだ)

彼の体から妙な汗が出ていた。先ほどの浮ついた気分はすっかり吹き飛んでしまっており、視線の先が定まらない様子を呈してしまっていた。

彼の脳内に彼女の言葉が不意に思い出された。

(お代は“もう”いただきましたからぁ)

お代とはなんだったのか。払った覚えのないお代とは、それは。

(そんな馬鹿な)

彼はそう思った。あまりにも馬鹿げていて現実的ではない仮説が彼の頭に浮かぶ。

しかし携帯電話が示す事実。食べた料理の数は24皿分。

どうしようもない胸のつかえが彼を支配し、乾いた笑いが彼の表情にあふれ出てくる。彼は改めて空を彼は見上げた。そこには店に入る前に彼が見たものとは異なる夕月の姿がただあったのだった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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