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名も無き筆は、やがて名を持つ

掲載日:2026/05/11

カーター子爵家の三女、リリアーヌは、社交界ではほとんど知られていない娘だった。


姉たちは誰もが振り返るほどの美貌を持ち、華やかなドレスをまとい、笑顔で人を惹きつける。


対してリリアーヌは、淡い茶色の髪に控えめな顔立ち。選ぶ衣装も流行とは無縁で、落ち着いた色合いばかり。


だが、彼女には、ひとつだけ突出した才能があった。


「こちらで、よろしいでしょうか。アルフォンス様」


差し出した文書を、向かいに座る婚約者である伯爵家長男、スタンリー・フォン・アルフォンスが受け取る。


整った顔立ちと、穏やかな物腰で知られる青年。


「相変わらず見事だな、リリアーヌ。これなら問題ない。僕の役に立てて誇らしいだろう」


彼は軽く目を通しただけで、満足げに頷いた。その文書は、本来彼の仕事だった。


彼自身が書くべき、領地運営に関する報告書や商談の契約書、ひいては外交文書まで。実際には、そのほとんどをリリアーヌが書いている。


だが、アルフォンスには中身を理解する気も、そして理解する能力すらも持ち合わせていなかった。

ただ従順で便利な駒だ、そうアルフォンスは考えていた。

そして、それがどれほど大切で、失えばどうなるのか。彼は、まだ何も理解していなかった。




始まりは些細なことだった。

「文章を書くのが苦手でね。手伝ってくれないか?」


そう困ったように笑ったアルフォンスに、彼女が手を貸した。それだけだ。


最初は添削程度、やがて代筆になり、今ではほぼすべてを任されている。丸投げと言っていい。


「君の文は、人を動かす。君のおかげで僕の評価は高い。君も僕の役に立てて誇らしいだろう」


事実、リリアーヌの書いた文書は優れていた。


論理的で、無駄がなく、それでいて冷たくならない。相手の立場を自然と考慮した言い回しは、相手に安心感を与える。


彼の上司もその洗練された出来に満足し、そしてさらなる期待をしていた。


結果として、


「アルフォンス様は優秀だ」、「若いのに見事な手腕だ」、「外交の要となっている」


そんな評価が、彼に集まるようになった。


リリアーヌは、それでよかった。婚約者が評価されること。それは将来の安定につながる。自分は裏で支えればいい。そう思っていた。


あの日までは。



王家主催の夜会。リリアーヌはいつものように壁際に佇んでいた。


ふと視線を上げると、アルフォンスが一人の女性と話しているのが見えた。


アーノルド侯爵家長女、セレスト。


数代前に国の危機を救った名門アーノルド家という地位と、それにふさわしい美貌、そして才覚を持つ令嬢。

白銀の髪に青い瞳、まさに才色兼備という言葉がふさわしい女性。


「貴方があの文を書いているのですね。研ぎ澄まされた文書で敵をも味方に変える手腕、我が国になくてはならないものです」


彼女の声が、かすかに耳に届く。


リリアーヌは一瞬だけ息を止めた。


だが、


「ええ、もちろんです。国のため民のためになっていることを誇らしく思います」とアルフォンスは、迷いなく答える。


リリアーヌは視線を落とした。


それでいいのだ。彼が評価されるなら。彼が望むなら。それでいい。


数週間後。


アルフォンスは、リリアーヌを呼び出した。


「君との婚約を解消したい」


あまりにもあっさりとした言葉だった。


リリアーヌは、少しだけ瞬きをした。


「理由を、伺っても?」


「正直に言おう。私はもっと高みを目指せる。私のいるべき場所はここではない。」

と彼はまっすぐに言った。


「セレスト様が、私を評価してくださっている。侯爵家との縁は、伯爵家にとっても利益になる。聡明な君ならわかるだろう」


つまり。お前は不要だ、と。遠回しでもなく、明確に。


リリアーヌは数秒、沈黙した。そして、静かに頷いた



「承知いたしました」


「驚かないのか?」


「いえ。アルフォンス様のご判断ですもの。間違っていることなどないでしょう。」


その声は、あまりにも穏やかだった。


アルフォンスは、わずかに眉をひそめる。


「未練はないのか?婚約破棄だぞ、捨てられた令嬢となってもよいのか?」


「はい、未練などございません。」

それは嘘ではなかった。少しだけ、寂しさはあるがそれ以上に、理解していた。


彼が実力だと思っているものの正体を。

私に依存しなければ、この人は何もできないことを。

それが何を意味するのかを。

リリアーヌは悟っていた。


婚約はすぐに、そして正式に解消された。その後、アルフォンスとセレストの婚約が発表され、社交界は祝福に包まれた。


「才ある者同士の結びつきだ」、「わが国はこれで安泰だ」

そんな声が飛び交う。しかし、リリアーヌは、それを静かに聞き流していた。


そして、運命の日が来る。


大規模な商談。

失敗すれば外交問題にもつながりかねない重要な契約。


これまでなら、リリアーヌが文書を整えていた案件だったが今回は違う。


アルフォンス自身が、すべてを用意しなければならなかった。


だが、

「問題ない。今まで通りにやればいい。私は優秀だ。」

そう思っていた。



しかし、結果は想像以上に悲惨なものだった。


文書は稚拙で、要点が不明確だった。

責任の所在も曖昧で、読み手に不信感を与える、敬意に欠き、あまつさえ侮辱したと受け取られかねない表現すら含まれる内容だった。何かあれば国家間の問題となりかねなかったのだ。


「これは、どういうことですか!」


重苦しい空気の中で、大国の大使が言った。


「これが貴国の真意ですか、アルフォンス殿。我が国を侮辱しているとしか思えません。」


セレストの声は、冷え切っていた。


「い、いや、これは。その。」


アルフォンスの言葉は、続かない。

説明する力が、ない。

その瞬間、すべてが露呈した。これまでの輝かしい功績は彼の力ではなかったことが。


その日を境に、評価は一変した。

王家の必死の弁明により何とか事なきを得たものの、国家間の信頼は傷ついてしまった。


「ここまでひどいとは。では、これまでの文書は誰が書いていたのだ?」

「婚約を解消して乗り換えたと聞いていたが、まさか」


疑念はすぐに噂となり、そして社交界での確信へと変わる。



数日後。


アルフォンスは、再びリリアーヌのもとを訪れた。


「頼む」


かつてと同じ部屋で、彼は頭を下げた。


「もう一度、力を貸してくれないか」


リリアーヌは、静かに彼を見つめた。


「君の力が必要なんだ、よりを戻すのも悪くないだろう。君にとっても最善の選択のはずだ」


その言葉に、彼女は少しだけ目を細める。


そして


「お断りいたします」


きっぱりと告げた。


「なぜだ!」


「婚約者ではございませんので。あなたは私を便利な道具としか見ていなかった。感謝の言葉もなく、自分の利益のために私を簡単に切り捨てた。そのようなあなたを再び支えるなどと誰が思うのでしょうか。あなたが必要なのは私という人ではなく、便利な道具ですから。それはご自身がよくわかっているのでは」


それで十分だった。 


アルフォンスは言葉を失い、ようやく理解した。自分が何を失ったのかを。その大きさを。


リリアーヌは、ゆっくりと立ち上がる。

「どうぞ、ご自身の力でお進みくださいませ。あなたは優秀なのでしょう。できますよ」


その声は、変わらず穏やかだった。

しかし、二度と私は彼を支えることはない。あなたを支える私はあの時消えたのです。



その後。

アルフォンスはセレストからも見限られ、婚約は解消。


伯爵家内での立場も大きく揺らぎ、かつての評価は跡形もなく消え去った。


一方でリリアーヌは。

その才能を正式に評価され、とある貴族家から招かれることになる。


彼女はもう、誰かの道具でも影でもはない。自分の名、リリアーヌとして書く。それが、彼女の選んだ未来だった。


リリアーヌが新たに仕えることになったのは、辺境に広大な領地を持つ公爵家だった。


王都から離れたその地は、華やかさこそないが、武勇に優れ、実務を重んじる堅実な家風で知られている。


「貴女がリリアーヌ嬢ですね」


執務室で出迎えたのは、公爵家嫡男で次期当主、レオニードだった。長身で、整った顔立ち。だがその印象は華やかというより、静かで鋭い。


「お噂はかねがね。あなたの書いた文書を拝見しました。簡潔で、正確で、そして読み手を選ばない。見事です。」


無駄な言葉を使わない人だと、リリアーヌはすぐに理解した。


差し出されたのは、彼女がこれまで書いた様々な書類の写しだった。


「恐れ入ります」


「一つ、確認させてください」


レオニードは真っ直ぐに彼女を見る。


「これらはすべて、あなたが?」


「はい」


迷いなく答える。


その瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。


「ならば安心だ。我が公爵家は武勇に優れ、辺境を守っているが、優秀な文官を求めている。筆頭書記官のセバスは優秀、信頼は厚いが年には勝てぬ。次の柱が必要だ。」


「それにしても彼はもったいないことをした。自ら大切な支えを投げ捨てるなど」


それは、リリアーヌに対する期待と信頼の言葉だった。



公爵家での仕事は多忙を極め、要求は厳しかったが、成果として現れることが何より楽しく、そして充実していた。


誰かの影ではない。リリアーヌという一人の人間として評価され、リリアーヌの名で仕事をする。プレッシャーはあるものの、それがこんなにも心地よいものだとは思わなかった。


「リリアーヌ嬢、この案件を頼めるか」


「承知いたしました」


レオニードは、必要以上に干渉しない。


だが要所では必ず判断を下し、責任を引き受ける。だからこそ、彼女は安心して職務に専念することができた。


一方、その頃。


アルフォンスは完全に行き詰まっていた。


「違う、こんなはずでは。」


机に向かい、何度もペンを走らせる。だが書き上がるのは、どれも稚拙な文章ばかり。以前は自然にできていた配慮が、まるで思いつかない。


「なぜだ!」


答えは明確だった。最初から、彼にはなかったのだから。考える力も、文字にする力も、何も。なかったのだから。


かつて彼を持ち上げていた者たちは、もういない。


「期待外れだった。誰かに書かせていたのだろう。偽物が。」

そんな声が、隠すことなく向けられる。貴族社会は実利を求める。不要と判断されればあっという間に逃げていってしまう。

そして追い打ちのように届いた知らせ。


リリアーヌが公爵家に迎えられた。


「は?」


思考が止まる。


伯爵家よりも、はるかに上位の存在。


「なぜ、あいつが?」


理解できない。いや、本当は理解しているが、それを認めたくないだけだ。


数日後。

アルフォンスは衝動的に、公爵家の屋敷を訪れた。


「リリアーヌに会わせろ。私は元婚約者だぞ。会う権利がある!」


門番に告げる。

 

当然、通されない。


「お引き取りください。リリアーヌ様はあなたにはお会いになりません。これ以上騒ぐとしかるべき処置を取らせていただきます。」


自分は、もうその程度の存在なのだと、二度と受け入れてはもらえないのだと、アルフォンスは現実を見せられてしまった。


「そこを何とか。私にはリリアーヌしかいないのです。」


根負けしたのかしばらくして応接室に通された。



しかし、現れたのは、リリアーヌではなかった。


「彼女に何の用だ」


低い声。振り向くと、そこにいたのはレオニードだった。


「私は公爵家嫡男、レオニードだ」


名乗りだけで、場の空気が変わる。


アルフォンスは思わず背筋を伸ばした。


「リリアーヌに、話が」


「お前の話など必要ない」


即答だった。


「彼女は忙しい」


「だが!」


「君は」


 レオニードは一歩近づく。


「彼女を切り捨てたのでしょう?」


その言葉に、アルフォンスは言葉を詰まらせた。


「今さら何を求めるのです?」


静かな声だった。だが逃げ場はない。


「私は」


何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。謝罪か、弁明か、それとも。


「帰れ、お前にリリアーヌを会わせることはない!」


アルフォンスは、何も言えずにその場を後にした。


やり取りを、リリアーヌは別室で聞いていた。


「ありがとうございます。」


「問題ない。」


レオニードは短く答える。


「会いたくはなかったのだろう」


「はい、全くもって。」  


即答だった。迷いは、もうない。 


「ひとつ、よろしいですか」


「何でしょう」


「リリアーヌは」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


「これから、どうなりたい?」


それは仕事の話ではなかった。リリアーヌは少しだけ考える。そして、ゆっくりと答えた。


「誰かの代わりではなく、自分の仕事としてに書きたい」と。


レオニードは小さく頷く。


「それなら」


彼は机の上の書類を一つ手に取った。


「この家でずっと、君の名で書いてほしい」


その言葉は、自然で、優しかった。


リリアーヌは、少しだけ微笑んだ。


「はい」


その日から。彼女の書く言葉は、さらに多くの人を動かしていくことになる。


かつて影だった少女が、今や名を持つ筆となったことを。



一方、アルフォンスの失墜は、もはや誰の目にも明らかだった。


公爵家を訪れて追い返された。その噂は、あっという間に広まった。


「公爵家にすがったらしいぞ」

「元婚約者に助けを求めたとか」


嘲笑は、隠されることすらない。伯爵家の屋敷でも、空気は冷え切っていた。


「お前には失望した」


父である伯爵の言葉は、短く、そして重かった。


「これまでの評価は、すべて虚像だったということか」


「ち、違います!」


「言い訳は不要だ」


叩きつけるような声。


「結果がすべてだ。お前は結果を出せなかった」


アルフォンスは歯を食いしばる。かつてなら、反論できた。だが今は、何もない。


「しばらく謹慎だ」


「え」


「その間に、自分の身の振り方を考えるんだな」


事実上の追放だった。部屋に閉じこもる日々。机の上には、書きかけの文書が積み上がる。だが、どれも完成しない。


「どうして書けない」


ペンを握る手が震える。


「前はできていたはずだ、私の力があればこの程度のこと」


違う。以前は、彼女がいた。

いや、彼女がすべてだったのだ。

その事実が、ようやく身に染みる。



数週間後。


伯爵家に、ひとつの決定が下された。


「アルフォンス。お前を廃嫡する」


その言葉に、彼は顔を上げた。


「は?」


「グレゴリーを後継とする」


「なぜです、私は長男です!後継となる権利が!」


「まだわからんのか」


 伯爵は冷ややかに言い放つ。


「家を傾けた者に、継がせるわけにはいかないだろう。」


商談の失敗は、想像以上に大きな損失を生んでいた。


家の信用は落ち、取引は減り、収益は明らかに悪化している。そして王家からも目をつけられてしまった。


「お前には、もう任せられん。生活は保障してやる。これからは領地の外れにある別邸でおとなしく過ごせ」

 

それは、彼にとって終わりを告げる一言だった。


数か月後。


アルフォンスは。湖畔の古びた別邸にいた。


伯爵家を追放されたわけではない。だが、与えられたのは名ばかりの役職と、わずかな資金だけ。実質的には追放だった。


「こんなはずでは、どこで間違ったというのだ」


誰もいない自室で、彼は呟く。

かつては、華やかな社交界で称賛されていた。未来は約束されていた。侯爵家との縁談さえあった。


それが今は、


「リリアーヌ、すべては君が」


無意識に名前がこぼれる。


あの時、切り捨てなければ。あの時、認めていれば。

だが、もう遅い。そう理解する。



その頃。


公爵家では、ひとつの大きな契約が成立していた。


「見事だ」


レオニードは書類を閉じる。


「ここまで洗練された契約は久しぶりに見た」


それは、リリアーヌがまとめた契約書だった。


複雑な利害関係を整理し、すべての関係者が納得できる形に落とし込んでいる。


「恐れ入ります」


だがその声は、以前より少しだけ柔らかい。


「これで、我が公爵家の流通は安定する。そして、国の安定にも繋がる」


「はい。長期的にも利益が見込めるかと。」

 

彼女は裏方ではない。この場において、明確な価値を持つ主役だ。


「リリアーヌ」


「はい」


「リリアーヌがいて助かっている」

その言葉は、静かではあるが、確かな重みがあった。

その言葉に、そして名前で呼ばれることに彼女は目を見開いた。


かつて。似たような言葉を、別の誰かから聞いたことがある。


だが、その重みは、まるで違った 


「ありがとうございます」


「君とは言葉だけでなく、何気ない日常も共に紡いでいきたい」


「はい、私もです。」


やがて、社交界では、ひとつの常識が生まれる。


優れた文書は、リリアーヌによるもの。

紛い物は静かに消えた。


そして、すべてを失った男がいた。


辺境の片隅。


アルフォンスは、今日も文を書いている。誰にも読まれない、稚拙な文章を。


かつて、自分のものだと思い込んでいた力を追い求めながら。

だがそれは、もう二度と手に入らない。


なぜなら、それは最初から、彼のものではなかったのだから。


レオニードとリリアーヌという夫婦の物語は永遠に続く


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