第26話「ただいま」
第26話です。
長い戦いのあとにあるのは、
勝利でも栄光でもなく――
ただ、帰る場所だった。
春の風が吹いていた。
まだ冷たいが、どこか柔らかい。
雪はほとんど溶け、地面には湿った土が見えている。
レニングラードの街は、静かだった。
完全な平和ではない。
だが、あの絶え間ない爆音は、もう聞こえない。
「……」
アーニャはゆっくりと歩いていた。
手には、小さな袋。
今日の配給。
少しだけ増えていた。
それだけで、季節の変化を感じる。
「……」
ふと、足を止める。
遠くに人影が見えた。
兵士たちだ。
何人かが、街へ戻ってきている。
「……」
その光景は、珍しくなくなっていた。
戦いから帰ってくる者。
だが――
その中に、“あの人”がいるとは限らない。
「……」
視線を逸らす。
期待してはいけない。
何度もそう思ってきた。
何度も裏切られてきた。
「……」
それでも、目は動く。
無意識に。
人の顔を探してしまう。
「……」
違う。
また違う。
知らない顔。
知らない誰か。
「……」
胸が少しだけ沈む。
慣れているはずなのに。
慣れたくない感情。
「……」
そのとき。
一人の兵士が、足を止めた。
少し離れた場所で。
こちらを見ている。
「……?」
アーニャも、自然と足を止める。
視線が合う。
距離がある。
顔ははっきりとは見えない。
だが――
「……」
胸が、強く鳴る。
理由は分からない。
ただ、何かが引っかかる。
「……」
兵士が、一歩近づく。
ゆっくりと。
迷うように。
「……」
アーニャも、動けない。
ただ見ている。
その姿を。
「……」
距離が少しずつ縮まる。
顔が、見えてくる。
汚れている。
やつれている。
それでも――
「……」
見間違えるはずがない。
「……アレクセイ?」
声が、自然と出た。
かすれるような声。
「……」
その名前を聞いて。
兵士――アレクセイが、止まる。
そして、少しだけ目を見開く。
「……アーニャ」
小さく、返す。
それだけだった。
⸻
二人の間に、風が吹く。
言葉が続かない。
何を言えばいいのか、分からない。
「……」
アーニャは一歩、近づく。
足が震える。
それでも止まらない。
「……」
アレクセイも動く。
同じように。
ゆっくりと。
「……」
そして――
手が触れる距離まで来る。
止まる。
見つめ合う。
「……」
変わっていた。
お互いに。
外見だけじゃない。
何かが、確実に変わっている。
「……」
アーニャは手を伸ばす。
少しだけ迷って。
それでも、触れる。
アレクセイの腕に。
「……」
温かい。
ちゃんと、生きている。
「……」
その瞬間。
何かがほどけた。
「……っ」
アーニャの肩が震える。
「……」
涙が、こぼれる。
止められない。
「……」
アレクセイは何も言わない。
ただ、そこにいる。
「……」
やがて、ゆっくりと。
アレクセイも手を伸ばす。
そして――
アーニャを抱きしめた。
強く。
離さないように。
「……」
言葉はいらなかった。
それだけで、十分だった。
⸻
どれくらいそうしていたのか、分からない。
時間の感覚がなかった。
「……」
やがて、アーニャが少しだけ離れる。
涙を拭う。
「……おかえり」
ようやく言えた。
ずっと言いたかった言葉。
「……」
アレクセイは、少しだけ目を細める。
そして――
「……ただいま」
静かに返した。
⸻
二人は並んで歩く。
ゆっくりと。
壊れた街の中を。
「……」
言葉は少ない。
何を話せばいいのか、まだ分からない。
「……」
それでも、沈黙は苦しくなかった。
むしろ、心地よかった。
「……」
同じ時間を、生きてきた。
違う場所で。
違う戦いを。
「……」
アーニャがふと聞く。
「……怪我は?」
「……かすり傷だ」
短く答える。
嘘ではない。
だが、全部でもない。
「……」
それ以上は聞かない。
聞けない。
「……」
代わりに、少しだけ笑う。
「……無事でよかった」
それがすべてだった。
⸻
家に着く。
扉を開ける。
変わらない空間。
少しだけ荒れているが、それでも――
「……」
帰る場所。
「……」
アーニャは鍋を火にかける。
いつものように。
スープを作る。
「……」
アレクセイはそれを見ている。
静かに。
「……」
湯気が立つ。
あの日と同じように。
「……」
アーニャが振り返る。
「……少しだけ、いいもの入ってるの」
小さく言う。
少しだけ誇らしそうに。
「……」
アレクセイは頷く。
「……楽しみだ」
それだけ。
⸻
二人は向かい合って座る。
スープを口にする。
温かい。
薄い。
だが――
「……うまい」
アレクセイが言う。
本音だった。
「……ほんと?」
「……ああ」
短いやり取り。
それだけで、十分だった。
⸻
窓の外には、春の光が差し込んでいた。
まだ弱い光。
それでも、確かにそこにある。
「……」
アーニャはその光を見る。
そして、アレクセイを見る。
「……」
失ったものは多い。
戻らないものもある。
それでも――
「……」
ここにあるものも、確かにある。
温もり。
時間。
そして――
この人。
「……」
アーニャは小さく笑う。
「……これからも、ちゃんと食べてね」
「……ああ」
アレクセイも、少しだけ笑った。
⸻
戦争は、まだ終わっていない。
だが――
この場所には、確かな日常が戻り始めていた。
それは小さくて、壊れやすい。
それでも。
二人にとっては、十分だった。
読んでいただきありがとうございます。
戦いの先にあるもの――
それは、帰る場所と、待ってくれている人でした。
よければ感想などいただけると嬉しいです。




