表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熱くて寒い奇跡  作者:
29/29

第26話「ただいま」

第26話です。

長い戦いのあとにあるのは、

勝利でも栄光でもなく――

ただ、帰る場所だった。


春の風が吹いていた。


まだ冷たいが、どこか柔らかい。


雪はほとんど溶け、地面には湿った土が見えている。


レニングラードの街は、静かだった。


完全な平和ではない。


だが、あの絶え間ない爆音は、もう聞こえない。


「……」


アーニャはゆっくりと歩いていた。


手には、小さな袋。


今日の配給。


少しだけ増えていた。


それだけで、季節の変化を感じる。


「……」


ふと、足を止める。


遠くに人影が見えた。


兵士たちだ。


何人かが、街へ戻ってきている。


「……」


その光景は、珍しくなくなっていた。


戦いから帰ってくる者。


だが――


その中に、“あの人”がいるとは限らない。


「……」


視線を逸らす。


期待してはいけない。


何度もそう思ってきた。


何度も裏切られてきた。


「……」


それでも、目は動く。


無意識に。


人の顔を探してしまう。


「……」


違う。


また違う。


知らない顔。


知らない誰か。


「……」


胸が少しだけ沈む。


慣れているはずなのに。


慣れたくない感情。


「……」


そのとき。


一人の兵士が、足を止めた。


少し離れた場所で。


こちらを見ている。


「……?」


アーニャも、自然と足を止める。


視線が合う。


距離がある。


顔ははっきりとは見えない。


だが――


「……」


胸が、強く鳴る。


理由は分からない。


ただ、何かが引っかかる。


「……」


兵士が、一歩近づく。


ゆっくりと。


迷うように。


「……」


アーニャも、動けない。


ただ見ている。


その姿を。


「……」


距離が少しずつ縮まる。


顔が、見えてくる。


汚れている。


やつれている。


それでも――


「……」


見間違えるはずがない。


「……アレクセイ?」


声が、自然と出た。


かすれるような声。


「……」


その名前を聞いて。


兵士――アレクセイが、止まる。


そして、少しだけ目を見開く。


「……アーニャ」


小さく、返す。


それだけだった。



二人の間に、風が吹く。


言葉が続かない。


何を言えばいいのか、分からない。


「……」


アーニャは一歩、近づく。


足が震える。


それでも止まらない。


「……」


アレクセイも動く。


同じように。


ゆっくりと。


「……」


そして――


手が触れる距離まで来る。


止まる。


見つめ合う。


「……」


変わっていた。


お互いに。


外見だけじゃない。


何かが、確実に変わっている。


「……」


アーニャは手を伸ばす。


少しだけ迷って。


それでも、触れる。


アレクセイの腕に。


「……」


温かい。


ちゃんと、生きている。


「……」


その瞬間。


何かがほどけた。


「……っ」


アーニャの肩が震える。


「……」


涙が、こぼれる。


止められない。


「……」


アレクセイは何も言わない。


ただ、そこにいる。


「……」


やがて、ゆっくりと。


アレクセイも手を伸ばす。


そして――


アーニャを抱きしめた。


強く。


離さないように。


「……」


言葉はいらなかった。


それだけで、十分だった。



どれくらいそうしていたのか、分からない。


時間の感覚がなかった。


「……」


やがて、アーニャが少しだけ離れる。


涙を拭う。


「……おかえり」


ようやく言えた。


ずっと言いたかった言葉。


「……」


アレクセイは、少しだけ目を細める。


そして――


「……ただいま」


静かに返した。



二人は並んで歩く。


ゆっくりと。


壊れた街の中を。


「……」


言葉は少ない。


何を話せばいいのか、まだ分からない。


「……」


それでも、沈黙は苦しくなかった。


むしろ、心地よかった。


「……」


同じ時間を、生きてきた。


違う場所で。


違う戦いを。


「……」


アーニャがふと聞く。


「……怪我は?」


「……かすり傷だ」


短く答える。


嘘ではない。


だが、全部でもない。


「……」


それ以上は聞かない。


聞けない。


「……」


代わりに、少しだけ笑う。


「……無事でよかった」


それがすべてだった。



家に着く。


扉を開ける。


変わらない空間。


少しだけ荒れているが、それでも――


「……」


帰る場所。


「……」


アーニャは鍋を火にかける。


いつものように。


スープを作る。


「……」


アレクセイはそれを見ている。


静かに。


「……」


湯気が立つ。


あの日と同じように。


「……」


アーニャが振り返る。


「……少しだけ、いいもの入ってるの」


小さく言う。


少しだけ誇らしそうに。


「……」


アレクセイは頷く。


「……楽しみだ」


それだけ。



二人は向かい合って座る。


スープを口にする。


温かい。


薄い。


だが――


「……うまい」


アレクセイが言う。


本音だった。


「……ほんと?」


「……ああ」


短いやり取り。


それだけで、十分だった。



窓の外には、春の光が差し込んでいた。


まだ弱い光。


それでも、確かにそこにある。


「……」


アーニャはその光を見る。


そして、アレクセイを見る。


「……」


失ったものは多い。


戻らないものもある。


それでも――


「……」


ここにあるものも、確かにある。


温もり。


時間。


そして――


この人。


「……」


アーニャは小さく笑う。


「……これからも、ちゃんと食べてね」


「……ああ」


アレクセイも、少しだけ笑った。



戦争は、まだ終わっていない。


だが――


この場所には、確かな日常が戻り始めていた。


それは小さくて、壊れやすい。


それでも。


二人にとっては、十分だった。


読んでいただきありがとうございます。

戦いの先にあるもの――

それは、帰る場所と、待ってくれている人でした。

よければ感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ