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熱くて寒い奇跡  作者:
28/29

第25.5話「温もりの残り火」

第25.5話です。

戦場で戦う者がいるなら、

その帰りを待つ者もまた、戦っている。


スープの湯気が、ゆっくりと立ち上っていた。


薄い。


具も少ない。


それでも、温かい。


「……」


アーニャはその鍋を見つめていた。


木のスプーンで、ゆっくりとかき混ぜる。


それだけの動作。


それでも、手は止めない。


止めてしまえば――


何かが終わってしまう気がした。


「……今日も、これだけか」


小さく呟く。


誰もいない部屋に、声が落ちる。


外では風が吹いていた。


遠くで、鈍い音が響く。


砲撃。


もう、日常の一部になっていた。


「……」


窓の外を見る。


灰色の空。


煙が流れている。


どこかで火が上がっているのだろう。


「……」


アーニャは目を閉じる。


思い出す。


あの森。


静かな朝。


アレクセイが笑っていた顔。


「……」


ゆっくりと息を吐く。


そして、目を開ける。


「……生きてるよね」


答えはない。


それでも、問い続ける。


それが唯一の支えだった。



配給所には、長い列ができていた。


人々は静かに並んでいる。


誰も話さない。


話す余裕がない。


「……」


アーニャもその中にいた。


手には小さな袋。


中には、ほんのわずかな食料。


それを手に入れるために、ここにいる。


「次」


係の声がする。


一人ずつ、前に進む。


機械のような流れ。


「……」


前に立っていた女性が、突然崩れた。


音もなく。


ただ、倒れた。


「……っ」


誰も叫ばない。


誰も駆け寄らない。


ただ、列が少しずれるだけ。


「……」


係の男が無言でその身体を横に動かす。


そして、また声を出す。


「次」


それだけ。


「……」


アーニャは目を逸らさなかった。


逸らせなかった。


これが現実だから。


ここで目を逸らせば、何も見えなくなる。


「……」


自分の番が来る。


差し出されるのは、ほんの少しのパン。


それでも、大切な命。


「……ありがとうございます」


小さく言う。


返事はない。


それでもいい。



夜。


部屋は暗い。


灯りは小さい。


節約しなければならない。


「……」


アーニャは机に向かっていた。


紙を広げる。


ペンを持つ。


だが、すぐには書けない。


「……」


何を書けばいいのか。


分からない。


「……」


それでも、書く。


ペンを動かす。


ゆっくりと。



“アレクセイへ”


それだけ書いて、止まる。


手が震える。


「……」


伝えたいことはたくさんある。


でも、書けない。


「……」


考える。


もし、この手紙が届いたら。


もし、彼が読んだら。


何を思うのか。


「……」


ペンを動かす。



“こっちは元気です”


嘘だった。


元気ではない。


だが、それを書いてはいけない。


「……」


“寒いけど、なんとかやってる”


それも半分嘘。


でも、必要な嘘。


「……」


“あなたも、無理しないで”


それを書いて、少しだけ笑う。


戦場で無理しないなど、できるはずがない。


それでも、書く。


「……」


ペンが止まる。


最後の一文。


何を書くべきか。


「……」


ゆっくりと、書く。



“帰ってきて”



それだけ。


それ以上は書けなかった。


「……」


紙を見つめる。


涙は出ない。


もう、出なくなっていた。


「……」


そっと折りたたむ。


胸に当てる。


それだけで、少しだけ温かかった。



ある日。


街の空気が変わった。


ざわめき。


人々の動き。


何かが違う。


「……?」


アーニャは外に出る。


人が集まっている。


広場の方。


「何かあったの?」


近くの人に聞く。


「……押し返したらしい」


「え?」


「ドイツ軍を」


その言葉に、心臓が跳ねる。


「……本当に?」


「さあな。でも、そう聞いた」


確かな情報ではない。


それでも――


「……」


アーニャの胸に、小さな火が灯る。


消えかけていた火。


それが、少しだけ強くなる。


「……」


そのとき。


空に音が響いた。


サイレン。


空襲警報。


「……っ!」


人々が動き出す。


走る。


逃げる。


叫び声。


「……」


アーニャも走る。


地下へ。


避難場所へ。


足がもつれる。


それでも止まらない。


「……っ」


息が苦しい。


怖い。


それでも――


「……」


頭に浮かぶのは、あの顔。


アレクセイ。


「……帰ってくる」


小さく呟く。


誰に聞かせるでもなく。


ただ、自分に言い聞かせる。



地下。


暗い空間。


人々が身を寄せ合っている。


静かだ。


だが、その静けさは重い。


「……」


アーニャは壁にもたれる。


目を閉じる。


上では爆発が続いている。


地面が揺れる。


「……」


怖い。


当たり前だ。


だが、それだけではない。


「……」


もし、このまま――


そんな考えが浮かぶ。


すぐに振り払う。


「……」


違う。


まだ終わっていない。


「……」


手を握る。


自分の手。


少し冷たい。


「……」


思い出す。


あのスープ。


あの温もり。


あの時間。


「……」


守りたい。


その思いが、心の奥で静かに燃えている。



やがて。


爆発音が遠のく。


サイレンが止む。


人々がゆっくりと動き出す。


「……」


アーニャも立ち上がる。


足が震える。


それでも、歩く。


地上へ。


「……」


外に出る。


街はまた、壊れていた。


煙が上がる。


火が残る。


だが――


「……」


空を見る。


灰色の向こう。


ほんのわずかに、光が差していた。


「……」


アーニャはその光を見つめる。


何も言わずに。


ただ、静かに。



その頃。


アレクセイもまた、空を見ていたことを。


アーニャは知らない。



だが。


同じ空の下で。


二人は確かに、同じ方向を見ていた。



戦争は終わっていない。


何も終わっていない。


それでも――


生きている。


それだけで、意味があると。


信じるしかなかった。


読んでいただきありがとうございます。

戦場と日常。

二つの場所で、それぞれの戦いは続いています。

よければ感想などいただけると嬉しいです。

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