第17話「照準の向こう側」
第17話です。
引き金を引く理由は、誰にでもある。
その先にいるのもまた、同じ理由を持つ誰かだった。
レニングラード郊外。
雪解けの泥が地面を覆い、足を取られる。
冷たい風が吹く。
だが、それは前線の空気だった。
静かすぎる。
その静けさが、逆に異様だった。
「……来るぞ」
誰かが低く言う。
アレクセイは伏せたまま、スコープを構える。
呼吸を整える。
視界を絞る。
遠く、崩れた建物の影。
そこに、わずかな違和感。
動き。
敵。
「……見えた」
小さく呟く。
引き金に指をかける。
だが――
止めた。
違和感。
ただの兵士じゃない。
同じように伏せ、同じようにこちらを見ている。
スコープ越しに、目が合った気がした。
ほんの一瞬。
距離はある。
顔もはっきり見えない。
それでも分かる。
“同じ種類”の人間だと。
「……狙撃手か」
隣の兵士が呟く。
空気が張り詰める。
一発で仕留められる距離。
同時に、仕留められる距離。
先に撃った方が勝つ。
それだけ。
だが、その一瞬が長い。
アレクセイの中で、時間が伸びる。
視界の中の相手。
動かない。
こちらを見ている。
待っている。
同じように。
――なぜ撃たない。
頭のどこかで声がする。
撃てばいい。
それだけで終わる。
だが、指が動かない。
その理由は、分かっていた。
“相手も同じだからだ。”
守るものがある。
ここに来るまでに、何かを失っている。
撃つ理由を持っている。
それが、分かってしまう。
「……」
風が吹く。
雪解け水がわずかに揺れる。
遠くで砲声が響く。
だが、この空間だけが切り取られたように静かだった。
アレクセイは息を吐く。
ゆっくりと。
視界の中の男。
少しだけ姿勢が変わる。
照準を合わせてくる。
完全に。
次の瞬間には撃たれる。
「……来るな」
小さく呟く。
それは願いではなかった。
確認だった。
ここで撃たなければ、自分が死ぬ。
そして――
守れない。
レニングラードも。
あの人たちも。
アーニャも。
ミハイルの記憶も。
全部。
一瞬で消える。
「……」
指に力を込める。
そのときだった。
視界の中の男が、ほんのわずかに動いた。
撃つ体勢。
完全に。
迷いがない。
その目は、こちらと同じだった。
――ああ、そうか。
アレクセイは理解した。
相手も同じだ。
守るために撃つ。
それだけだ。
違うのは、立っている場所だけ。
「……なら」
迷いは消えた。
どちらが正しいかじゃない。
どちらも正しい。
だからこそ――
勝たなければならない。
守るために。
引き金を引く。
同時だった。
乾いた銃声が二つ、重なる。
世界が一瞬だけ止まる。
反動。
視界が揺れる。
スコープを戻す。
確認。
敵の位置。
そこには――
人影が崩れていた。
ゆっくりと、倒れていく。
雪解けの泥に沈む。
動かない。
「……」
当たった。
確実に。
だが。
胸の奥に、何かが残る。
違和感ではない。
後悔でもない。
ただ、理解。
「……同じだったな」
誰にも聞こえない声で呟く。
そのとき、頬に何かが触れた。
熱い。
遅れて、痛みが来る。
「っ……!」
かすった。
弾が。
ほんの数ミリ。
ズレていれば、終わっていた。
あのときと同じ。
ミハイルのときと。
「……」
息を整える。
まだ、生きている。
だが、それは紙一重だった。
相手もまた、同じように撃ってきた。
同じ精度で。
同じ覚悟で。
「アレクセイ!無事か!」
後ろから声が飛ぶ。
「……ああ」
短く返す。
立ち上がる。
足元が少し揺れる。
だが、問題ない。
歩ける。
戦える。
アレクセイはゆっくりと前に進む。
倒れた敵の位置へ。
近づく。
一歩ずつ。
そして――
その顔を見る。
若い。
自分と、そう変わらない。
目は閉じられている。
表情は穏やかだった。
苦しんだ様子はない。
ただ、終わっただけ。
ポケットから、小さな紙が覗いている。
無意識に手が伸びる。
取り出す。
折りたたまれた手紙。
少しだけ開く。
読めない言語。
だが、分かる。
誰かに宛てたものだ。
家族か。
恋人か。
待っている誰か。
「……」
アレクセイはそれを見つめる。
数秒。
それ以上は見なかった。
そっと戻す。
ポケットに。
「……返してやれよ」
誰かが後ろで言う。
アレクセイは何も答えなかった。
ただ、立ち上がる。
振り返る。
来た道。
守るべき場所。
レニングラード。
「……行くぞ」
短く言う。
足を前に出す。
止まらない。
止まれない。
さっきの男も、同じように歩いていたはずだ。
守るために。
撃つために。
その先に、誰かがいると信じて。
「……」
アレクセイは空を見上げる。
雲が流れている。
変わらない空。
だが、その下で。
同じ正義がぶつかり合っている。
どちらも間違っていない。
それでも。
どちらかが倒れる。
それが戦争だ。
「……分かってる」
小さく呟く。
それでも、自分は撃つ。
守るために。
自分の正義のために。
そして、歩き続ける。
その先に何があるのか、分からなくても。
読んでいただきありがとうございます。
彼が撃った相手もまた、同じ理由で引き金を引いていました。
正義は一つではない。
だからこそ、この戦いは終わらないのかもしれません。
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