第15.5話「彼を見ていた日々」
第15.5話です。
これは、彼の物語ではなく――彼を見ていた私の記憶。
最初に彼を見たときのことを、私ははっきり覚えている。
雪がまだ深く残る頃だった。
配給所の前は、いつも通り長い列ができていて、誰もが俯いて順番を待っていた。
寒さと空腹で、会話をする気力すらない。
そんな中で、彼だけが少し違っていた。
アレクセイ。
そのときは名前も知らなかった。
ただ、目に入った。
周りと同じように立っているのに、どこか浮いているような感覚。
焦ってもいないし、苛立ってもいない。
ただ、静かにそこにいた。
「……次の方」
声に押されて、私は前に進む。
配給を受け取りながら、ふと彼の方を見る。
目が合った。
一瞬だった。
でも、なぜか逸らせなかった。
あの目は――
まだ“戦場”を知らない目だった。
それが、妙に印象に残った。
それから何度か見かけるようになった。
同じ時間、同じ場所。
偶然なのか、それとも。
ある日、私はパンを少し多めに受け取った。
理由はない。
ただ、そうなっただけ。
帰ろうとしたとき、彼が少し離れた場所に座っているのが見えた。
何も食べていない。
ただ、じっと地面を見ている。
気づけば、足がそっちに向いていた。
「……これ」
声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。
驚いたような、でもどこか冷静な表情。
「余ってるから」
嘘だった。
でも、そう言うしかなかった。
彼は少しだけ迷って、それから受け取った。
「……ありがとう」
その一言は、思ったよりも素直で。
少しだけ安心した。
それが、私たちの最初だった。
会話は多くなかった。
でも、少しずつ言葉を交わすようになった。
名前を知ったのは、そのあとだ。
アレクセイ。
どこにでもある名前。
でも、なぜか忘れられなかった。
彼はよく分からない人だった。
優しいのか、冷たいのか。
何を考えているのか、掴めない。
でも――
嘘はつかない人だった。
それだけは、分かった。
だから、私は時々料理を渡した。
大したものじゃない。
スープとか、簡単なもの。
彼はいつも同じように受け取って、同じように礼を言った。
その繰り返し。
それだけだったのに、不思議と嫌じゃなかった。
ある日、彼が言った。
「出ることになった」
それだけで、意味は分かった。
前線。
戦場。
帰ってこないかもしれない場所。
私は何も言えなかった。
止めることなんて、できない。
そんな権利はない。
それでも、何か言わなければいけない気がして。
「……気をつけて」
それしか出てこなかった。
彼は少しだけ笑った。
初めて見たかもしれない。
「まあな」
軽く返す。
その軽さが、少し怖かった。
本当に分かっているのか、それとも。
出発の日、私は遠くから見ていた。
声はかけなかった。
かけられなかった。
ただ、見送るだけ。
それが精一杯だった。
彼は振り返らなかった。
それでよかったと思う。
もし振り返られたら、きっと私は――
そのあと、手紙が届いた。
不思議と、ちゃんとした字で書かれていた。
短い内容。
近況と、少しの報告。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
生きている。
それが分かるだけで。
私は何度も読み返した。
同じ言葉を、何度も。
次の手紙が来るまで。
その間に、街は少しずつ変わっていった。
配給は減り、人は減り、笑顔も減った。
それでも、生きるしかない。
待つしかない。
彼が帰ってくるかどうかも分からないまま。
そして――
扉が開いた日。
「……誰?」
そう言った自分の声が、今でも信じられない。
振り向いたとき。
そこにいた。
アレクセイ。
最初は分からなかった。
同じ顔のはずなのに、違って見えた。
痩せている。
汚れている。
でも、それ以上に――
目が違った。
深くて、冷たくて。
何かが抜け落ちたような。
「……アレクセイ?」
名前を呼ぶ。
確かめるように。
彼はうなずいた。
それだけで、十分だった。
私は近づいた。
怖かった。
違う人になっている気がして。
それでも、触れた。
頬に手を当てる。
温かい。
生きている。
「……生きてた」
その言葉を口にしたとき、ようやく実感が湧いた。
涙が出た。
止めようとしても、止まらなかった。
でも、彼は泣かなかった。
表情も、ほとんど変わらない。
それが、少しだけ引っかかった。
「……どうしたの?」
思わず聞く。
「何でもない」
すぐに返ってきた。
自然な声。
でも、その“自然さ”が逆に不自然だった。
何かを隠しているような。
いや、隠しているというより――
もう、感じていないような。
それ以上、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
彼の中にある何かに、触れてしまいそうで。
それでも、私は笑った。
「……無理しないで」
そう言うしかなかった。
それが正しいのかも分からないまま。
彼はポケットから何かを触っていた。
小さな金属。
「それ、何?」
聞くと、少しだけ間があった。
「……仲間のだ」
短い答え。
それ以上はなかった。
でも、それで分かった。
何かを失ってきたこと。
それを言葉にできないこと。
私は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、そこにいることしかできなかった。
彼は「また来る」と言った。
私は「待ってる」と答えた。
その約束が、どれくらいの重さなのかも分からないまま。
彼が出ていったあと、部屋は静かになった。
でも、前とは違う静けさだった。
安心と、不安が混ざったような。
戻ってきたのに、戻ってきていないような。
そんな感覚。
そして、その夜。
サイレンが鳴った。
何度も聞いてきたはずの音。
でも、その日は違った。
心臓が強く打つ。
息が浅くなる。
頭に浮かぶのは、彼の顔だった。
さっきまでここにいた。
あの目。
あの声。
「……アレクセイ」
思わず名前がこぼれる。
外では爆音が響く。
地面が揺れる。
悲鳴。
炎。
全部、いつもと同じはずなのに。
違って感じる。
彼がこの中にいる。
そう思った瞬間、世界の見え方が変わった。
怖い。
ただの恐怖じゃない。
失うかもしれないという恐怖。
さっき、戻ってきたばかりなのに。
また、いなくなるかもしれない。
「やめて……」
誰に向けた言葉かも分からない。
戦争にか。
空にか。
それとも。
爆音が続く。
私はその場に座り込んだ。
何もできない。
ただ、祈ることしか。
彼が、生きていることを。
次に会えることを。
それだけを。
外では、誰かが戦っている。
守るために。
壊すために。
どちらも同時に存在している。
私はそのどちらでもない。
ただ、ここで待つしかない。
でも――
それでも、願ってしまう。
彼が帰ってくることを。
どんな姿でもいい。
たとえ変わってしまっていても。
それでもいいから。
「……帰ってきて」
小さく呟く。
その声は、爆音にかき消された。
読んでいただきありがとうございます。
彼の戦いの裏で、ただ待つことしかできない人がいる。
その視点が、物語にどんな意味を与えるのか。
よければ感想などいただけると嬉しいです。




