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熱くて寒い奇跡  作者:
17/29

第15.5話「彼を見ていた日々」

第15.5話です。

これは、彼の物語ではなく――彼を見ていた私の記憶。

最初に彼を見たときのことを、私ははっきり覚えている。


雪がまだ深く残る頃だった。


配給所の前は、いつも通り長い列ができていて、誰もが俯いて順番を待っていた。


寒さと空腹で、会話をする気力すらない。


そんな中で、彼だけが少し違っていた。


アレクセイ。


そのときは名前も知らなかった。


ただ、目に入った。


周りと同じように立っているのに、どこか浮いているような感覚。


焦ってもいないし、苛立ってもいない。


ただ、静かにそこにいた。


「……次の方」


声に押されて、私は前に進む。


配給を受け取りながら、ふと彼の方を見る。


目が合った。


一瞬だった。


でも、なぜか逸らせなかった。


あの目は――


まだ“戦場”を知らない目だった。


それが、妙に印象に残った。


それから何度か見かけるようになった。


同じ時間、同じ場所。


偶然なのか、それとも。


ある日、私はパンを少し多めに受け取った。


理由はない。


ただ、そうなっただけ。


帰ろうとしたとき、彼が少し離れた場所に座っているのが見えた。


何も食べていない。


ただ、じっと地面を見ている。


気づけば、足がそっちに向いていた。


「……これ」


声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。


驚いたような、でもどこか冷静な表情。


「余ってるから」


嘘だった。


でも、そう言うしかなかった。


彼は少しだけ迷って、それから受け取った。


「……ありがとう」


その一言は、思ったよりも素直で。


少しだけ安心した。


それが、私たちの最初だった。


会話は多くなかった。


でも、少しずつ言葉を交わすようになった。


名前を知ったのは、そのあとだ。


アレクセイ。


どこにでもある名前。


でも、なぜか忘れられなかった。


彼はよく分からない人だった。


優しいのか、冷たいのか。


何を考えているのか、掴めない。


でも――


嘘はつかない人だった。


それだけは、分かった。


だから、私は時々料理を渡した。


大したものじゃない。


スープとか、簡単なもの。


彼はいつも同じように受け取って、同じように礼を言った。


その繰り返し。


それだけだったのに、不思議と嫌じゃなかった。


ある日、彼が言った。


「出ることになった」


それだけで、意味は分かった。


前線。


戦場。


帰ってこないかもしれない場所。


私は何も言えなかった。


止めることなんて、できない。


そんな権利はない。


それでも、何か言わなければいけない気がして。


「……気をつけて」


それしか出てこなかった。


彼は少しだけ笑った。


初めて見たかもしれない。


「まあな」


軽く返す。


その軽さが、少し怖かった。


本当に分かっているのか、それとも。


出発の日、私は遠くから見ていた。


声はかけなかった。


かけられなかった。


ただ、見送るだけ。


それが精一杯だった。


彼は振り返らなかった。


それでよかったと思う。


もし振り返られたら、きっと私は――


そのあと、手紙が届いた。


不思議と、ちゃんとした字で書かれていた。


短い内容。


近況と、少しの報告。


それだけ。


でも、それだけで十分だった。


生きている。


それが分かるだけで。


私は何度も読み返した。


同じ言葉を、何度も。


次の手紙が来るまで。


その間に、街は少しずつ変わっていった。


配給は減り、人は減り、笑顔も減った。


それでも、生きるしかない。


待つしかない。


彼が帰ってくるかどうかも分からないまま。


そして――


扉が開いた日。


「……誰?」


そう言った自分の声が、今でも信じられない。


振り向いたとき。


そこにいた。


アレクセイ。


最初は分からなかった。


同じ顔のはずなのに、違って見えた。


痩せている。


汚れている。


でも、それ以上に――


目が違った。


深くて、冷たくて。


何かが抜け落ちたような。


「……アレクセイ?」


名前を呼ぶ。


確かめるように。


彼はうなずいた。


それだけで、十分だった。


私は近づいた。


怖かった。


違う人になっている気がして。


それでも、触れた。


頬に手を当てる。


温かい。


生きている。


「……生きてた」


その言葉を口にしたとき、ようやく実感が湧いた。


涙が出た。


止めようとしても、止まらなかった。


でも、彼は泣かなかった。


表情も、ほとんど変わらない。


それが、少しだけ引っかかった。


「……どうしたの?」


思わず聞く。


「何でもない」


すぐに返ってきた。


自然な声。


でも、その“自然さ”が逆に不自然だった。


何かを隠しているような。


いや、隠しているというより――


もう、感じていないような。


それ以上、聞けなかった。


聞いてはいけない気がした。


彼の中にある何かに、触れてしまいそうで。


それでも、私は笑った。


「……無理しないで」


そう言うしかなかった。


それが正しいのかも分からないまま。


彼はポケットから何かを触っていた。


小さな金属。


「それ、何?」


聞くと、少しだけ間があった。


「……仲間のだ」


短い答え。


それ以上はなかった。


でも、それで分かった。


何かを失ってきたこと。


それを言葉にできないこと。


私は何も言わなかった。


言えなかった。


ただ、そこにいることしかできなかった。


彼は「また来る」と言った。


私は「待ってる」と答えた。


その約束が、どれくらいの重さなのかも分からないまま。


彼が出ていったあと、部屋は静かになった。


でも、前とは違う静けさだった。


安心と、不安が混ざったような。


戻ってきたのに、戻ってきていないような。


そんな感覚。


そして、その夜。


サイレンが鳴った。


何度も聞いてきたはずの音。


でも、その日は違った。


心臓が強く打つ。


息が浅くなる。


頭に浮かぶのは、彼の顔だった。


さっきまでここにいた。


あの目。


あの声。


「……アレクセイ」


思わず名前がこぼれる。


外では爆音が響く。


地面が揺れる。


悲鳴。


炎。


全部、いつもと同じはずなのに。


違って感じる。


彼がこの中にいる。


そう思った瞬間、世界の見え方が変わった。


怖い。


ただの恐怖じゃない。


失うかもしれないという恐怖。


さっき、戻ってきたばかりなのに。


また、いなくなるかもしれない。


「やめて……」


誰に向けた言葉かも分からない。


戦争にか。


空にか。


それとも。


爆音が続く。


私はその場に座り込んだ。


何もできない。


ただ、祈ることしか。


彼が、生きていることを。


次に会えることを。


それだけを。


外では、誰かが戦っている。


守るために。


壊すために。


どちらも同時に存在している。


私はそのどちらでもない。


ただ、ここで待つしかない。


でも――


それでも、願ってしまう。


彼が帰ってくることを。


どんな姿でもいい。


たとえ変わってしまっていても。


それでもいいから。


「……帰ってきて」


小さく呟く。


その声は、爆音にかき消された。

読んでいただきありがとうございます。

彼の戦いの裏で、ただ待つことしかできない人がいる。

その視点が、物語にどんな意味を与えるのか。

よければ感想などいただけると嬉しいです。


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