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熱くて寒い奇跡  作者:
16/29

第15話「境界の中で」

第15話です。

戦場には敵と味方しかいない――そう思っていた。

レニングラードに戻ってから、数日が経った。


前線とは違う空気が、そこにはあった。


銃声は遠い。


砲撃も、時折響くだけ。


街は壊れている。


だが、それでも“生活”は続いていた。


人が歩いている。


荷物を運ぶ者。


配給に並ぶ者。


子どもを抱く母親。


アレクセイは、その光景をぼんやりと見ていた。


違和感があった。


戦場にはいなかった人たち。


銃を持たない人間。


敵でも、味方でもない人間。


ただ、生きている人間。


「……」


言葉が出なかった。


ただ、目で追う。


小さな子どもが、雪解けの水たまりを避けながら歩いている。


笑っている。


何が面白いのか分からない。


だが、その表情は確かに“生きている顔”だった。


「邪魔だ、どけ!」


兵士の怒鳴り声が飛ぶ。


人々が慌てて道を開ける。


アレクセイはその中にいた。


だが、怒鳴ることはなかった。


ただ、立ち止まっていた。


「……行かねぇのか?」


後ろから声がかかる。


振り向くと、同じ部隊の兵士。


「行くさ」


そう言って、歩き出す。


だが、足はどこか重かった。


視線が、どうしても人々に向いてしまう。


彼らは戦っていない。


それでも、ここにいる。


生きるために。


「……何見てんだよ」


兵士が少し笑う。


「珍しいか?」


アレクセイは少し考えた。


「……ああ」


短く答える。


それが本音だった。


戦場では見なかった光景。


そこには、敵も味方もなかった。


ただの人間がいた。


その事実が、どこか引っかかる。


「お前、変わったな」


兵士が言う。


軽い口調だった。


だが、どこか探るようでもある。


アレクセイは何も答えなかった。


自分でも分からないからだ。


変わったのか。


壊れたのか。


それすらも。


部隊は防衛準備に入っていた。


土嚢を積む。


バリケードを築く。


銃の整備。


弾薬の確認。


やることは山ほどある。


「対独戦だ。ここで止める」


教官の声が響く。


短く、力強い。


誰もが理解している。


ここを突破されれば終わりだ。


レニングラードは最後の壁。


守るしかない。


アレクセイも作業に加わる。


手はよく動いた。


迷いはない。


命令通りに、正確に。


だが――


ふと、手が止まる。


視線の先。


バリケードの向こう側に、人影があった。


老人だった。


痩せている。


ボロボロのコート。


それでも、こちらをじっと見ている。


敵ではない。


武器も持っていない。


ただの市民。


目が合う。


一瞬、時間が止まったように感じた。


その目は――


何も言っていない。


責めてもいない。


ただ、そこにあるだけ。


「……」


アレクセイは目を逸らした。


理由は分からない。


ただ、見続けられなかった。


「おい、何してる!」


怒鳴り声。


我に返る。


「すまん」


すぐに作業に戻る。


何もなかったように。


だが、胸の奥に何かが残る。


重くはない。


だが、消えない。


その日の夜。


簡単な食事を終え、部隊は静かに休んでいた。


外は冷えている。


だが、前線ほどではない。


どこか緩んだ空気。


誰かが小さく笑う。


くだらない話。


ほんの少しの、日常。


アレクセイは壁にもたれかかっていた。


目を閉じる。


何も考えない。


何も感じない。


それでいいはずだった。


だが――


昼間の光景が、頭に浮かぶ。


子ども。


母親。


老人。


誰も銃を持っていない。


それでも、生きている。


「……関係ない」


小さく呟く。


自分に言い聞かせるように。


自分は兵士だ。


やるべきことは一つ。


守ること。


戦うこと。


それだけだ。


それだけでいいはずだ。


そのときだった。


―――――――――――――


サイレンが鳴り響いた。


鋭く、耳を裂くような音。


一瞬で空気が変わる。


「空襲だ!!」


誰かが叫ぶ。


全員が立ち上がる。


さっきまでの空気は消えた。


笑いも、会話も、一瞬で。


アレクセイの体が動く。


考えるより先に。


銃を掴む。


位置につく。


心拍が上がる。


だが――


恐怖はない。


代わりに、別の感覚が戻ってくる。


冷たい、あの感覚。


「来るぞ!」


空を見上げる。


暗闇の中に、影が動く。


次の瞬間――


爆音。


地面が揺れる。


衝撃波。


遠くで建物が崩れる。


悲鳴が上がる。


さっき見た人々の声。


子どもも、母親も、老人も。


関係なく降り注ぐ爆撃。


「くそ……!」


誰かが吐き捨てる。


アレクセイはスコープを覗く。


標的を探す。


敵機。


敵。


敵。


さっきまで見ていた“人間”は、もう頭にない。


ただ、敵だけがある。


指が引き金にかかる。


呼吸を整える。


狙う。


撃つ。


乾いた銃声が響く。


その瞬間。


アレクセイの中で、何かがはっきりした。


さっきまでの“揺らぎ”が消えていた。


戻ってきた。


戦場の自分が。


「……そうか」


小さく呟く。


守るために。


そのためには。


撃つしかない。


どれだけ人がいようと。


どれだけ生活があろうと。


戦争は、それを踏み潰す。


だから――


先に撃つ。


それだけだ。


爆撃は続く。


炎が上がる。


夜空が赤く染まる。


レニングラードは、再び戦場になった。


アレクセイは撃ち続ける。


迷いはない。


もう、ない。


読んでいただきありがとうございます。

一瞬だけ戻りかけた日常は、簡単に壊されました。

人としての感覚と、兵士としての役割。

その境界で、アレクセイは何を選ぶのか。

よければ感想などいただけると嬉しいです。


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