第15話「境界の中で」
第15話です。
戦場には敵と味方しかいない――そう思っていた。
レニングラードに戻ってから、数日が経った。
前線とは違う空気が、そこにはあった。
銃声は遠い。
砲撃も、時折響くだけ。
街は壊れている。
だが、それでも“生活”は続いていた。
人が歩いている。
荷物を運ぶ者。
配給に並ぶ者。
子どもを抱く母親。
アレクセイは、その光景をぼんやりと見ていた。
違和感があった。
戦場にはいなかった人たち。
銃を持たない人間。
敵でも、味方でもない人間。
ただ、生きている人間。
「……」
言葉が出なかった。
ただ、目で追う。
小さな子どもが、雪解けの水たまりを避けながら歩いている。
笑っている。
何が面白いのか分からない。
だが、その表情は確かに“生きている顔”だった。
「邪魔だ、どけ!」
兵士の怒鳴り声が飛ぶ。
人々が慌てて道を開ける。
アレクセイはその中にいた。
だが、怒鳴ることはなかった。
ただ、立ち止まっていた。
「……行かねぇのか?」
後ろから声がかかる。
振り向くと、同じ部隊の兵士。
「行くさ」
そう言って、歩き出す。
だが、足はどこか重かった。
視線が、どうしても人々に向いてしまう。
彼らは戦っていない。
それでも、ここにいる。
生きるために。
「……何見てんだよ」
兵士が少し笑う。
「珍しいか?」
アレクセイは少し考えた。
「……ああ」
短く答える。
それが本音だった。
戦場では見なかった光景。
そこには、敵も味方もなかった。
ただの人間がいた。
その事実が、どこか引っかかる。
「お前、変わったな」
兵士が言う。
軽い口調だった。
だが、どこか探るようでもある。
アレクセイは何も答えなかった。
自分でも分からないからだ。
変わったのか。
壊れたのか。
それすらも。
部隊は防衛準備に入っていた。
土嚢を積む。
バリケードを築く。
銃の整備。
弾薬の確認。
やることは山ほどある。
「対独戦だ。ここで止める」
教官の声が響く。
短く、力強い。
誰もが理解している。
ここを突破されれば終わりだ。
レニングラードは最後の壁。
守るしかない。
アレクセイも作業に加わる。
手はよく動いた。
迷いはない。
命令通りに、正確に。
だが――
ふと、手が止まる。
視線の先。
バリケードの向こう側に、人影があった。
老人だった。
痩せている。
ボロボロのコート。
それでも、こちらをじっと見ている。
敵ではない。
武器も持っていない。
ただの市民。
目が合う。
一瞬、時間が止まったように感じた。
その目は――
何も言っていない。
責めてもいない。
ただ、そこにあるだけ。
「……」
アレクセイは目を逸らした。
理由は分からない。
ただ、見続けられなかった。
「おい、何してる!」
怒鳴り声。
我に返る。
「すまん」
すぐに作業に戻る。
何もなかったように。
だが、胸の奥に何かが残る。
重くはない。
だが、消えない。
その日の夜。
簡単な食事を終え、部隊は静かに休んでいた。
外は冷えている。
だが、前線ほどではない。
どこか緩んだ空気。
誰かが小さく笑う。
くだらない話。
ほんの少しの、日常。
アレクセイは壁にもたれかかっていた。
目を閉じる。
何も考えない。
何も感じない。
それでいいはずだった。
だが――
昼間の光景が、頭に浮かぶ。
子ども。
母親。
老人。
誰も銃を持っていない。
それでも、生きている。
「……関係ない」
小さく呟く。
自分に言い聞かせるように。
自分は兵士だ。
やるべきことは一つ。
守ること。
戦うこと。
それだけだ。
それだけでいいはずだ。
そのときだった。
―――――――――――――
サイレンが鳴り響いた。
鋭く、耳を裂くような音。
一瞬で空気が変わる。
「空襲だ!!」
誰かが叫ぶ。
全員が立ち上がる。
さっきまでの空気は消えた。
笑いも、会話も、一瞬で。
アレクセイの体が動く。
考えるより先に。
銃を掴む。
位置につく。
心拍が上がる。
だが――
恐怖はない。
代わりに、別の感覚が戻ってくる。
冷たい、あの感覚。
「来るぞ!」
空を見上げる。
暗闇の中に、影が動く。
次の瞬間――
爆音。
地面が揺れる。
衝撃波。
遠くで建物が崩れる。
悲鳴が上がる。
さっき見た人々の声。
子どもも、母親も、老人も。
関係なく降り注ぐ爆撃。
「くそ……!」
誰かが吐き捨てる。
アレクセイはスコープを覗く。
標的を探す。
敵機。
敵。
敵。
さっきまで見ていた“人間”は、もう頭にない。
ただ、敵だけがある。
指が引き金にかかる。
呼吸を整える。
狙う。
撃つ。
乾いた銃声が響く。
その瞬間。
アレクセイの中で、何かがはっきりした。
さっきまでの“揺らぎ”が消えていた。
戻ってきた。
戦場の自分が。
「……そうか」
小さく呟く。
守るために。
そのためには。
撃つしかない。
どれだけ人がいようと。
どれだけ生活があろうと。
戦争は、それを踏み潰す。
だから――
先に撃つ。
それだけだ。
爆撃は続く。
炎が上がる。
夜空が赤く染まる。
レニングラードは、再び戦場になった。
アレクセイは撃ち続ける。
迷いはない。
もう、ない。
読んでいただきありがとうございます。
一瞬だけ戻りかけた日常は、簡単に壊されました。
人としての感覚と、兵士としての役割。
その境界で、アレクセイは何を選ぶのか。
よければ感想などいただけると嬉しいです。




