第14話「帰る場所の形」
第14話です。
前に進むことと、戻ること。そのどちらも戦いの一部でした。
後退の命令は、あまりにもあっさりと出た。
「ここは持たない。下がるぞ」
誰かが言った。
それだけだった。
理由も、説明もない。
ただ、事実だけがそこにある。
アレクセイは何も言わなかった。
命令に従い、装備をまとめる。
手の動きは正確だった。
無駄がない。
まるで最初からそうだったかのように。
「……随分、慣れたな」
別の兵士が呟く。
感心したような声。
アレクセイは小さくうなずいた。
「まあな」
それだけ。
短い返事。
それ以上、会話は続かなかった。
周囲の兵士たちは、どこか疲れていた。
誰もが無言で動く。
負けている。
その事実は、言葉にしなくても分かる。
じわじわと押されている。
一歩ずつ、確実に。
だが――
アレクセイの中には、焦りがなかった。
不思議なほどに。
ただ、やるべきことをやる。
それだけだ。
恐怖も、怒りも、どこか遠い。
「……おい、大丈夫か」
ふいに声をかけられる。
振り向くと、若い兵士が立っていた。
不安そうな顔。
「何がだ?」
アレクセイは聞き返す。
「いや、その……」
兵士は言葉を濁す。
「さっきから、ずっと……」
そこで止まる。
何を言いたいのか分からない。
アレクセイは首をかしげた。
「普通だろ」
そう言うと、兵士は何も言えなくなった。
「……そうだな」
小さくうなずく。
だがその目には、わずかな違和感があった。
気づかないのは――本人だけだった。
部隊はゆっくりと後退していく。
瓦礫の街を抜け、さらに奥へ。
やがて見えてきたのは――
見慣れた景色だった。
壊れてはいる。
だが、どこか覚えがある。
「……戻ってきたな」
誰かが言う。
レニングラード。
出発した場所。
守るべき街。
アレクセイはその光景を見つめた。
何も感じない。
懐かしさも、安心も。
ただ、“戻ってきた”という事実だけ。
だが、周囲は違った。
安堵する者。
疲れきった顔で座り込む者。
ここが拠り所なのだ。
まだ戦いは終わっていない。
だが、ここで立て直す。
そういう場所だった。
「しばらく休めるらしいぞ」
誰かが言う。
補給、再編成、防衛準備。
次の戦いのための時間。
アレクセイは歩き出す。
足は自然と、ある方向へ向かっていた。
理由は分からない。
ただ、体が覚えている。
通りを抜ける。
壊れた建物の間を進む。
そして――
一つの家の前で止まった。
扉は半分壊れている。
壁にも傷がある。
それでも、形は残っている。
ここだった。
手を伸ばす。
扉を押す。
軋む音を立てて開く。
中は暗い。
静かだ。
誰もいないかもしれない。
そう思った、そのとき。
「……誰?」
声がした。
聞き覚えのある声。
アレクセイの動きが止まる。
ゆっくりと中に入る。
そして――
そこにいた。
アーニャ。
以前よりも少し痩せている。
顔色も良くない。
だが、確かにそこにいた。
「……アレクセイ?」
信じられないという顔。
目が見開かれる。
数秒の沈黙。
そして――
「本当に……?」
アレクセイはうなずいた。
「……ああ」
それだけだった。
それ以上の言葉が出てこない。
アーニャはゆっくりと近づいてくる。
一歩ずつ。
確かめるように。
目の前まで来て、立ち止まる。
そして、手を伸ばす。
アレクセイの頬に触れる。
温かい。
「……生きてた」
小さく、震える声。
アレクセイは何も言わなかった。
ただ、そこに立っている。
アーニャの目に涙が浮かぶ。
「よかった……」
その言葉を聞いても。
胸は動かなかった。
嬉しいはずなのに。
帰ってきたはずなのに。
何も感じない。
それが分かってしまった。
「……どうしたの?」
アーニャが不安そうに聞く。
「何でもない」
すぐに答える。
自然な声だった。
自分でも驚くほどに。
「少し疲れてるだけだ」
嘘ではない。
だが、本当でもない。
アーニャは少しだけ黙った。
そして、うなずく。
「……無理しないで」
その言葉に、アレクセイは小さくうなずいた。
部屋の中は静かだった。
外では遠くで砲撃の音がする。
戦いは終わっていない。
ここも、いずれ戦場になる。
それでも――
今この瞬間だけは、違った。
アレクセイはポケットに手を入れる。
何かが触れる。
ミハイルのドッグタグ。
指でなぞる。
冷たい。
「……?」
アーニャが首をかしげる。
「それ、何?」
アレクセイは一瞬だけ考えた。
答えようとして――
言葉が出てこなかった。
ミハイルのこと。
何があったのか。
どう説明すればいいのか。
分からない。
「……仲間のだ」
それだけ言った。
短く。
それ以上は言えなかった。
アーニャは何も聞かなかった。
ただ、静かにうなずいた。
分かっているのかもしれない。
聞かなくても。
失われたものがあることを。
沈黙が続く。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
何も感じないはずなのに。
ここにいることだけは、否定できなかった。
アレクセイは窓の外を見る。
空が広がっている。
あの日と同じ空。
変わらない。
変わったのは、自分だけだ。
「……また、来る」
アレクセイが言う。
アーニャは少し驚いた顔をした。
「うん」
それでも、笑った。
「待ってる」
その言葉を聞いても。
やはり、大きな感情は動かなかった。
それでも――
その言葉は、どこかに残った。
アレクセイは振り返り、外へ出る。
戦場へ戻るために。
守るために。
何を守っているのか、分からなくなりながら。
それでも、歩き続ける。
それが“生きる”ということだと、信じるように。
読んでいただきありがとうございます。
再会は喜びであるはずでした。
ですが、アレクセイの中では、何かが確実に変わっています。
それがこの先、どんな形で現れるのか――。
よければ感想などいただけると嬉しいです。




