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第8話 胸騒ぎのわけ

 魔王ガングリュックが勇者ヘルツのもとを去り、十日が過ぎた。


「四日後に恋愛の神髄を教えに来る」


 あのとき、彼は確かにそう息まいていた。

 だが、その“四日”はとうに過ぎ、最初の期限である“一週間”さえも過ぎていた。


「そろそろ勇者でもやりますかね」


 沈みゆく太陽を見つめながら、ヘルツは静かに呟いた。

 その横顔は、かつて魔王軍の侵攻を幾度も退けた“最強の勇者”のそれだった。


 最初は無視して準備を始めるつもりだった。

 だが、立ち直るきっかけを与えてくれたガングリュックが、あれだけ息まいていたのだ。

 待ってやらないのは、何となく悪い気がして――ヘルツは一週間、律儀に待った。


 そして、その期限すら過ぎた。

 そもそも生活資金が底をつきかけている以上、いつまでも宿屋に引き籠ってはいられない。


「かれこれ一か月ぐらい何もしていないからな……まずは肩慣らしに簡単な討伐クエストでもやって、魔王城討伐の準備でも始めるか……」


 ヘルツは軽く伸びをし、武器と防具を手に取り、丁寧に磨き始めた。


「明日は早いし、そろそろ寝るか」


 久々の戦いに備え、早めに眠ることにする。

 装備の手入れを終えた後、ヘルツはベッドに腰を下ろした。


「フッ……勇者になってから十年近く経つが、こんなに緊張するのは初めてだな」


 しかし、どうにも寝つけない。

 思えば、勇者になってからずっと働き詰めだった。

 この一か月の引き籠り生活は、ヘルツにとって初めての“休暇”だったのだ。


「こんなにブランクが空いたのは初めてだ……。それにしても、この胸のざわつき……魔王と戦う前の夜みたいだな」


 そう呟くと、自然と口元に微笑みが浮かぶ。


「……ヤツと戦う前の日は、いつもこうだった。緊張よりも、楽しみが勝ってた。きっと今回の出来事も、俺にとっては大きな意味があったんだろうな」


 勇者ヘルツ――彼は不安や恐怖さえも楽しみに変えてしまう、異常なほど強靭な精神力の持ち主だった。

 胸騒ぎを楽しみながら、いつの間にか眠りについていた。


 そして翌朝。

 勇者としての再出発の朝が訪れた。


 まぶしい朝日が、ヘルツの顔を照らす。


「んんん~、良く寝た!!」


 寝付きの悪さが嘘のように、すっきりと目が覚めた。

 ベッドを降りて大きく伸びをし、窓の外に目を向ける。

 朝焼けがエンデの街をゆっくりと染めていく――。


「さあ、着替えて出発だ!」


 そう言って装備へ向き直った、その瞬間――


「わああああ!!」


 ヘルツは大声を上げ、尻もちをついた。


「ど、どうして、ここに……?」


 震える指で指した先――防具の横には、

 ボロボロの姿で体育座りしている魔王ガングリュックがいた。


「おはよう。良く寝てたね」


 傷だらけの顔で、妙に穏やかに挨拶してくる。


「おはようじゃねえ!! なんでここにいるんだよ!!」


「なんで、って……言ったじゃん。『また来る』って。だから来ちゃった」


「言ったけどさぁ! 思いっきり遅れてるし……ていうか深夜に忍び込むなよ!!」


「ごめんごめん、悪気はないんだよ。本当は朝にしようと思ったんだけど、夜風が寒すぎて、つい……」


(胸騒ぎの原因はこれか……! しかもこいつの侵入に気付かないなんて、俺、鈍りすぎだろ……)


「もうそのことはいいよ。それより、なんでそんなにボロボロなんだ?」


「ああ、これ? 実はさぁ……俺、魔王クビになっちゃったんだよ。ハハハ」


「はあああ!!?? く、クビってどういうことよ!?」


「じ、実はね……あのあと妻たちに恋愛について聞いてみたのよ」


「そう言ってたもんな」


「うん。そしたら浮気と勘違いされて、全員ブチ切れちゃって……」


「ええ……」


「最初は妻同士の喧嘩だったんだけど、気付いたら全部俺に矛先が向いちゃってさぁ。うちの国ってもともと国家基盤が脆いから、政略結婚で繋ぎ止めてたんだよ。それが全部崩壊した」


「メソッドは役に立たなかったんだね……」


「俺も頑張ったんだよ! 最初は“ここで俺の正しさを証明する!”って気合い入れて、メソッド通り強気でいったの!」


「で、どうなった?」


「致命的だったね。『火に油を注ぐ』って言葉の意味、身をもって知ったよ。多分、メソッド使わなきゃ、今も魔王やってたと思う」


「そ、それは……お気の毒に」


「でも人類にとっては良かったんじゃね?」


「なんで?」


「今、魔界は俺が倒されたことになってて、史上最大規模の内乱が起きてる。たぶん五百年は地上に来ないと思う」


「そ、そうなの……か?」


「今なんて、フィールド行っても魔獣一匹いないよ。いやぁ~、まさか魔王だったこの俺が、人類に平和をもたらすとは思わなかったなぁ」

 そう言って笑うが、目はうっすら涙で滲んでいた。


「で、俺は裏をかいたのよ。『地上に潜伏すれば安全だ!』ってね。まあ、ここまで来る間に五十回くらい殺されかけたけどね」


「それでそんなにボロボロに……」


「そうそう」


「ところで、お前、部下とかいないのか? ほら、何か言ってたじゃん。やれ、四天王だとか、黒騎士だとかって……」 


「ああ……アイツらはみんな……俺のせいで!! ううっ……」

 思い出したのか、涙を抑えられないガングリュック。


「ま、まさか、お前を庇って死んだのか!?」


「いや、勇者と戦う前に『恋愛の神髄を研究する!』とか言い出したせいで、みんなに見限られた。ついでにメソッドでパワハラ気味に接してたら、全員ブチ切れちゃって……今は俺の懸賞金狙いで血眼だよ。ははは……」

 笑っているが、涙は止まらない。


「あー、そうなんだぁ……なんかごめん」

 ポリポリと気まずそうに頭を掻くヘルツ。

 空気が重たかったので、何げなく部下の話をふってみただけだったのだが、深刻に気まずい雰囲気になってしまった。


「いいの、いいの」

 そうは言うものの、今まで抑えていたものが溢れ出してきたのか、目の焦点は合っておらず、身体も小刻みに震えている。


「大丈夫か?」


「だ、大丈夫……あれ? おかしいなぁ。どうして涙が止まらないんだろう? ははは……」


「お、おい……?」


「ははははっ! ヤバいよ勇者! 笑いと涙が止まらないよぉ!!」

 目が完全にトンでしまっており、鼻水とヨダレが滝のように流れている。


「お、落ち着け! なっ!? とにかく落ち着け!!」


「落ち着けるわけないだろぉぉ!! わあ~ん!!」


 突如として大号泣。


「……」


 あまりのカオスに、ヘルツは完全に言葉を失っていた。

 結局ガングリュックは一時間ほど泣き続け――


「疲れたから寝るわ……」


 勝手にヘルツのベッドに潜り込み、豪快なイビキをかき始めた。

 漆黒のオーラとともに。


 こうして魔王ガングリュックの“失恋と失脚”によって、人類にかつてないほどの長い平和が訪れた。


 ――しかし。


「参ったなぁ……」


 目の前で高イビキをかく元魔王を見下ろしながら、勇者ヘルツは、静かに頭を抱えるしかなかった。


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