蝶
あぁ、どうも。大した部屋ではないんですけどね。どうぞ上がって。靴は玄関の右側にそろえて、スリッパはそこのラックの一番下からとってくださいね。ラグマットからは左足から出て、一度そこで足をそろえてください。
別にそれぞれに理由があるわけではないんですよ。でも父からの教えでね「大事な物事についての会話というのは神聖なものであって、通例に基づいた儀式を経て行われなくてはならない」と昔から言い聞かせられていたもので、僕が父と将来の話をさせられる時には父の癖に基づいていつも決まった手順で椅子に座ることを強要されたものでした。それがどんな理由があってそういうものであると教えられてきたのか、僕にはいまだにわからないのですけれどね。
今さっきあなたにしていただいたそれらもすべて、ただの僕の癖にすぎませんから、お気になさらず。
ここからはどうぞ楽にして、そちらの椅子に好きなように腰かけてください。飲み物は紅茶でもいいですか? 安物ですが、きっとアルコールだとかコーヒーだとかよりはずっと落ち着くでしょう。
そうだ、そこのカーテンを開けてもらえますか? 庭に並んでる鉢植え、カスミソウが見えるでしょう。この季節の昼頃、日が高くて多少暖かい時間になると蝶が寄ってくるんですよ。それを眺めながら、お話をしましょう。
お話の前にひとつふたつ尋ねたいこと、断っておきたいことがあるのですが、聞いていただけますか?
あなたは自分の生きている理由について考えたことがあるでしょうか? 将来の夢だとか、人生のゴールだとか、そういった矮小な個人ミクロ的な話ではなくて、もっと壮大で、巨大で、莫大で、甚大な、生物のメカニズムであったり、生態系のピラミッドであったり、生命の生死のシステムであったり、そういったマクロ的な話において、自分が自分であることの意味についてです。ないでしょうか? そのようなことを考えていると、頭がおかしくなりそう? 抽象的過ぎて理解に苦しむ? あまりにも退屈な話、でしょうか? もしもあなたが僕の質問にすべて「はい」と答えたのであれば、これから僕が語らんとする話は退屈で、まるでごみのように思えるかもしれない。でもどうか、僕自身のために、このくだらない話を聞いてほしい。先の見えない道を歩む時、たったひとりぼっちでいては、それはそれはさびしく、哀れでたまらないものですから。
一つ目のお話は僕が中学三年生のころの話です。ですから、今から大体七年ほど前のことです。いうほど前の話ではないのか? そうかもしれませんね。
それはいいとして、一体何がきっかけだったかと聞かれると、確かなことは言えないのですが、おそらく「とある新興宗教の駅前の演説を聞いてほんの少し興味を持ったから」程度の理由だったと思います。彼女らの「人類はみな死を恐れすぎている」と主張する様子があまりにも真に迫っていたので。それに「道」に迷ったときは、なんでも目の前にあるものに頼れと言われて私は育ったものですから、年頃ゆえに私はその信徒から話を聞くことにしたのです。さして駅から離れてはいない、関東全域チェーンのありふれた喫茶店で、恰幅の良い婦人と、そのちょうど反対と言える体形をした男性のご老人と卓を囲みました。その時も飲んでいたのは紅茶だったように思います。それが何かお話に関係があるかと言われれば、答えは「いいえ」以外にないのですが。
それで、彼女らがはじめに口にしたのは、死生観についてでした。どうやら彼女らの宗教、名を「慈愛のつどい」と呼ぶそうなのですが、その宗教の教えでは、死後の人類に待っているのは天国や地獄、涅槃浄土や輪廻、悟りなどではなく、「吸収」だ、とのことです。
「人類はみな死んだあとにはね、魂になって地球の中心へと吸収されていくの。そうして、地球の内核から外核、マントルの中に魂たちが満ちていって球の形を成していくの。私たちはそれを〝ソウルボール〟と呼んでいてね、それはそれは神聖なものなのよ」
彼女は鼻息荒く、そんな風に僕に語り掛けました。ですが、その瞬間の僕にはいまいち、〝それ〟と人類が死を恐れすぎている事とのつながりが見えず、そのことについて質問したのです。
「今ね、人類というのはね、十二万五、六千世代目と言われていてね、いままでに生まれ、死んでいった人類の総数というのはね、一千億人にものぼるといわれているの。それで、それでね、死者の集まりであるソウルボールというものがね、狭く苦しい地中から解き放たれてね、地表を覆うまで、あといくらかの死者で、あといくらかの年の事なのよ」
僕はそれに対して「はぁ」と答えて、喫茶店の天井を見つめました。面白い装飾などは一切ない、ありふれた喫茶店のありふれた板材です。
「そうやってね、ソウルボールによって包まれた地表は、いうなれば、死者の魂に満ち満ちた世界に変わるの」
僕にはそれが到底、鼻息を荒くしながら語るような素晴らしいことというふうには思えませんでした。むしろ、死者の魂に満ち満ちた地表というのは、B級のホラー映画のような、学園祭のお化け屋敷のような、ちゃちでチープな恐怖心を与えるようなものなのではないか? そう思いました。
「死者の魂に包まれた人類はね、今まで生まれ、死んでいった人々の知恵や知識が流れ込んでいってね、そうすることによって、今の旧態依然的で、戦争を繰り返したり、街にちいさないざこざが満ち溢れたり、そういったくだらない世界から抜け出してね、与えられた知恵によって新たな世界が作り上げられるのよ」
彼女はそこまで言って、小さな冊子を僕に渡しました。文庫本よりも一回り小さく、自治体の広報誌程度の厚さの冊子です。実物はもうすでに僕の手元にはないのですがね。
表紙には「慈愛のつどい ソウルボールと教義のすべて」と書かれていました。パラパラとめくると、図表とともにソウルボールについての説明が事細かに書き込まれているページが目に留まりました。
「ヨルダン・イスラエルにまたがる死海や、その周辺の都市であるエリコというところはね、世界で一番の低地に存在しているといわれていてね、そういった地表の中でもより低いところではね、すでにソウルボールの効果が表れているといわれているの。慈愛に満ちた世界になっているのよ。今に日本にもその力が訪れるわ」
彼女は目を輝かせてそう言いました。
ヨルダン・イスラエルが慈愛に満ちた世界だなんて悪い冗談だと僕は思いましたが、たかが十五歳の小童に過ぎない僕には、ヨルダン・イスラエルに渡航し、その現状を確かめることなどできず、その目で確かめていない以上、真に「リアル」と呼べるものを知らない僕は、ひとまず彼女らの言う事にまだ耳を傾けてやらねばならぬと思いました。
「死してなお、今生きる人のためにその知恵を提供して、世界をよりよくすることができるの。それって、とっても素敵なことじゃないかしら? だから、死を恐れる必要なんてないのよ。死にゆく人にとっても、今を生きる人にとっても、慈愛に満ちた世界が間違いなくこの先に訪れるの。だから私たちは〝慈愛のつどい〟と名乗っているの」
彼女は一連の話をそのような言葉で締めくくりました。
そうしてほんのすこしの沈黙を、それぞれの立場でかみしめ、それなりの余韻をお互いに感じとったころ、婦人の隣にいる老人がゆるり口を開きました。しゃがれた声、苦しそうな息が漏れる喉、声とともに上下する喉ぼとけをめいっぱいに駆使して「死とは、恐れるべき敵ではなく、受け入れるべき、友であるとも、考えられないかね」と、僕に告げました。例えるなれば末期がん患者に、死神が死を宣告するような「死の受容」の強制・脅迫を彼の声と言葉には感じました。
それに加えて、彼の発する言葉は啓蒙や布教といったようなものだけではなく、自らの人生への諦観やそれをごまかすための小さな希望を含んだ言葉のようにも僕には感ぜられました。
それから、彼女らを駅前で見かけることはなくなりました。僕一人に冊子を一つ渡して、この地での布教に満足したのか? 「慈愛に満ちた世界」をより早く迎え入れるためにその身を海にでも投じたのか? 僕にはわかりませんが、とにかく彼女らを見ることはなくなったのです。
「果たして、死とは恐れるべき敵ではなく、受け入れるべき友であるのか?」脳みそも体も小さな僕に一つの問を残して、消えてしまいました。
そろそろ日が昇ってくる頃ですね。まぶしくはないですか? あなたの方には随分と日光が降り注いでいる。僕の方はかなり陰っているのですがね。部屋の構造のせいでしょうか、中途半端な時間帯では、部屋の中にあまり平等に日が入り込まないのですよ。まぶしければ、席を変わりましょうか? 結構ですか? そうですか。
そんなことは置いておいて、今になって考えてみると、僕の父のもっていた「会話に対する神聖さと儀式のこだわり」というのは、随分と宗教じみたもののように感じますね。
もしかしたら、僕自身が知らないだけで、僕も彼女らのように何かしらの宗教の信徒なのかもしれない。あなたもそれは同じかもしれませんよ? そんなことはない? そうですか。まぁ、そうですよね。
二つ目のお話は、僕が高校二年生の頃の話です。ですので、今から四、五年ほど前の話ですね。えぇ、つい最近のことですよ。
新宿だったか、渋谷だったか。とにかく人が多く、汚い街を歩いている時でした。路上に寝転ぶ浮浪者に声をかけられたのです。いや、声をかけられたのでしょうか? もしかしたらはじめは、彼は独り言を言っただけかもしれない。しかしともかく、僕はその浮浪者の言葉に強く興味を惹かれたのです。
「夜の暗く、深い森の中。生き物はおろか、樹木ですら眠る時間にだ。誰も周りにおらず、一人ぼっちで森の中で転んだら、それは転んだといえるのだろうか?」
は? と僕は答えました。
「どう思う。君がそうなった場合、君は本当に転んだといえるのだろうか? 全人類の誰もその音を聞かず、その様子を見ず、その体に触れず、そのにおいを嗅がず、その味を知らず、その時、君は転んだといえるのだろうか?」
人が転んだという行為について、味やにおいは関係ないのではないかと僕は考えましたが、彼の問の本質には関係のないことのような気がして、僕はそれらを気にすることをやめ、その場合、僕は本当に転んだといえるのか? それだけを考えることにしました。
考えたのですが、いまいちその問の正体のようなものをつかむことができず、僕にできるのは、その場で頭を抱えて立ち尽くすことだけでした。
「君は今頭を抱えている。私がそれを目で見て感じている。そうしてやっと君は頭を抱えていることが確かな事実として存在するのではないか? それと同じだ。この話はもう終わりでいい。違う話にしよう。」
彼はそういって横になった体勢から体を起こし、僕に向き直りました。
「もし君が、何かしらの理由をもってして精神を病み苦しむことがあったとして、その口からこぼれでた〝誰か助けてくれ〟という言葉を誰も聞いてはくれなかった時、君はどう思う」
僕はほんのすこしだけ考えて「寂しい」とだけ答えました。
浮浪者は僕の答えを鼻で笑い「年相応の幼稚な答えだが、そうだな。そうだろう。」と言い、その目線を地面に移しました。目線の先は黒く、冷たいアスファルトでした。
「その存在を感じられなければ、その人間はこの世に生きていないのと同じだ。この世界は随分とその〝寂しい〟人間が溢れすぎている。君は、感じてあげろよ。感じてあげて、感じてもらうんだ。それが、生きるということなんだ」
彼はそう言ってその目を閉じ、また横になりました。僕はその場を離れ、彼の言葉を少しかみしめてみることにしました。どうも、のうのうとこれまでの生命を消費してきた僕には飲み込み切れない言葉のように感じましたが、その一方でほんのすこしだけ、そのエッセンスだけでも、飲み込めたような気もしました。
彼がどのような人生を送り、その身を路上に置くようになったのか? 僕に知る由はありませんが、きっと彼には何か大切なものがあったのだろうと、その程度のことは僕にもわかりました。
僕が聞いていただきたかったお話はこれですべてです。聞いてくれてありがとう。僕の事を感じてくれてありがとう。あなたのおかげで僕は生きられているのでしょう。そしてたぶん死んだあとも、なにかしらの形で僕らは関わりあうのでしょう。いや、もしかしたら関わりあったりはしないのかもしれない。そんなこと、誰にもわかりっこないでしょう。死の先について推測してしまっては、いつか訪れる死に対して、それはそれは失礼なことなのかもしれない。
ただ少なくとも、僕はお話を聞いてくれたあなたのおかげで一人ぼっちではなく、僕が存在するがために、あなたもまた、一人ぼっちではないということを、忘れないでほしい。それがきっと「生きる」ということなのだから。
あぁ、ほら、見てください。一頭の蝶が庭を飛んでいますよ。もしかしたら、あなたの方からは、照る日がまぶしくて見えないかもしれませんが、小さく、白い蝶が、ふわりふわりと、カスミソウのあたりを飛んでいるのですよ。
彼、いや、彼女でしょうか? ともかく、あの子も僕たちのように何かを感じ、何かに感じられて生きているのでしょうね。そして、僕たちと同じように、いつか死にゆくのでしょう。
あの子もまた、人間と同じように眠り、同じように夢を見るのでしょうか? 急に何を言うのか? そう思いますか? そうですか。
僕は少し眠くなってきたので眠らせていただきますが、あなたは? 結構ですか、そうですか。それでは、また、後で。




