覚醒。
ようやく新展開です。
──その獣は、見知らぬ土地で目覚めた。
四肢が踏みしめる大地の感触。あたりに繁茂する樹木の様子。
なにより、全身の毛並みで感じる大気そのものが、いままで闊歩していた領域とはまったく異質な世界だった。
ゆえに無闇に動きまわることを避け、まずは慎重に周囲を探る。
深い闇につつまれた森の中。夜目に優れた視覚と、きわめて敏感な聴覚、臭覚を駆使する。
あたりに危険な存在がいないかどうかを入念に見極める。
いままで主として君臨していた縄張りとは違う、まったく未知の場所。
そこに不用意に踏み込もうとしないだけの知恵を、その獣は備えていた。
いっさいの生命が息を潜めているかのような夜闇。
そこに脅威となる存在の気配はしないようだ。
ただ、たちこめる堆肥や樹液の匂いの彼方に、水の香気が混じっていた。
まずは水場の確保を目的とし、獣はゆっくりと動きだす。
森林の木々が途絶えた先。ごつごつとした岩場を縫うような渓流を見つける。
同時に、目覚めてから初めて先住者の姿も発見した。
丸みを帯びた体躯は、岩のようにどっしりとした重量感を感じさせる。
黒く深い毛皮の下には厚い脂肪を蓄えつつも、強靭な筋肉もまとっているようだ。
太い前足の先に伸びた鉤爪は、その膂力によって強大な武器になるだろう。
──しかし、恐れるような相手ではない。
そう確信した獣は、ゆったりとした足取りのまま森を抜ける。
相手もこちらの気配に気づいたようで、すぐさま振り返り、後足で立ち上がった。
威嚇のためか、少しでも体躯を大きく見せようと、前足を腕のように広げる。
その一連の動きは、鈍重そうな外見とは裏腹に俊敏でさえあった。
しかし、音や臭いではなく、目でこちらを視認した途端、相手には明らかに怯えはじめる。
自分の体躯よりも、さらに一回り以上も大きな相手を見て不利を悟ったのか。
あるいは、本能的に生物としての格の差を直感したのか。
もうすでに、この場から逃れようと後退りをはじめている。
逃がしはしない──。
そう宣告するかのように、獣はとつぜん爆発するような速度で跳躍した。
一瞬で彼我の間合いを無効化し、いつのまにか前足に伸びていた爪を一閃させる。
相手の鉤爪がまるで玩具に思えるような、長く研ぎ澄まされた3本のブレード。
なにかオーラのような輝きをまとった軌道が、黒い鼻面の首元をすり抜け、胴体から頭部をあっさりと切断した。
もはや物理的な斬撃では説明のできない、なにか別のエネルギーが凝縮したかのような威力。
その証拠に、前足を振り抜いた直後には、さっきまでのブレードは消失していた。
鮮血を噴出しながら、ゆっくりと崩れ落ちる巨体。
足元に転がった死骸には、もはや興味はないという様子で、獣は周囲をあらためて観察する。
渓谷の周りには、いま倒した相手の糞や爪痕など、さまざまなマーキングが遺されていた。
どうやら、この周辺の主であったようだ。
森の暗闇を出て、あたりを仄かに照らす月光のもと。
しなやかで無駄のない、流線的ともいえるようなプロポーションが浮かび上がった。
体躯を濃密に覆う毛は琥珀色で、頭部から背中にかけては黄金色の立髪がゆれる。
悠然と四肢で岩場に屹立する姿は、明らかに異質な存在感を放つ。
立像のように静謐でありながら、発散する気配のなかには圧倒的な暴力がにじみ出る。
──この夜。
人里離れた深い山奥で、どこからともなく現れた一匹の獣が新たな縄張りを獲得した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「以上が、新たな大規模農業プロジェクトの進捗となります」
とある企業の本社ビル。その12Fにある会議場には、若手から重役クラスまで、男女およそ20人ばかりのビジネスマンが集まっていた。
「この機械化をおこなっても、収量や品質に差は生じないというデータは本当なのかね」
「はい。異世界転移者による耕作については、これまで彼らの故郷でおこなわれていた農法を尊重してきました。けれど、耕運や種まき、育苗、収穫などの作業を機械化しても、これまでどおりの収穫が維持できるようです」
「それなら、大規模化による生産量の拡大も期待できるわね」
「しかし、奇妙じゃないか?ならば、これまでの明らかに優位性のあった収穫量や品質は、いったいなにが原因だったというのだね」
「それについては、継続して調査中です。けれど少なくとも、耕運と種まきの段階で異世界転移者がトラクターなどを操縦した畑であれば機械化の影響は認められないようです」
「他の作業には転移者以外の者が協働しても、問題ないということか」
「そうなると、さらなる大規模化が見込めますな」
「作業従事者が転移者だけに限られるのでは、今後の事業継続性が疑問ですしね」
「はい。ちなみに、新たなプロジェクトでは、完全屋内プラントでの効果も検証予定です」
「いわゆる食料生産工場か。そこでも有意な違いが認められるのならば、ますます事業規模は拡大できるな」
数年前から高級食材として一部のレストランや料亭などで人気を集め、今年に入って店頭への卸しも開始された「異世界農家」ブランドの生鮮品。
会議のテーマは、さらなる市場拡大のための生産力増強に関するものだった。
これまで旧来型の農法における生産だったものを、機械化によって大規模化しようとする計画のようだ。
「それでも、新たな転移者の人材確保が前提となるな。その辺は大丈夫かね。ハイヤードの箱崎さん?」
いきなり質問されたのは、箱崎郁子。株式会社ハイヤードのスタッフだ。
ハイヤードは、公認登録会社として異世界転移者を専門にあつかう人材派遣部門をもつ。
そのため、この会議にもパートナー企業として参加が要請されていた。
「はい。現在のところ登録データベースから農民系のジョブを有する方々に順次打診をおこなっています。あくまで感触ですが、10人程度の新規派遣は可能かと思います」
「10人か。その人数で可能なのかね?」
「ええ。現在プロジェクトが想定している規模であれば問題ないかと思います」
プロジェクトリーダーとおぼしき40歳前後の男性スタッフが力強くうなずく。
「そうか。ならば、プロジェクト実施の予定地だが……。ここは、どんな場所なのかね」
「すでに廃村となっていますが、最盛期には150人規模の住民が暮らしていました。そこに従業員用の社宅をはじめ、資材管理や物流用の倉庫、福利厚生用の簡易商業施設などを設営予定です」
「地図を見る限り、かなり辺鄙な立地だな。輸送の面などで問題はないのかね」
「異世界農家ブランドは注目を集めており、ある程度は部外者の出入りを管理、把握しやすいようにと選択しています。それでも集落の近くまでは舗装路が用意されていますし、20kmほどクルマを走らせれば高速道路のインターがあります」
プロジェクターで投影された、地図サイトの航空写真。山裾をたどるような狭隘な平地を除き、一面が森林の緑でおおわれている。
地図では「宝蔵山」と記されたあたりをポインターで指しながら、プロジェクトリーダーが説明する。
「ちなみに廃村になった理由は?地盤とか災害面での安全性は大丈夫なのかな」
「廃村になったのは5年前ですが、これは単純に若年層の流出による高齢化が原因のようです。災害に関しても、土砂崩れや土石流などについて過去の記録はありません」
「なるほど、ならば安全性も問題ないか」
「付け加えるならば、熊の生息エリアではあったようですが、これも近年の報告例はありません。これについては付近の山脈一帯において同条件です」
その後も、市場の将来性や今後のスケジュール、予算などについて質疑がおこなわれていく。ようやく会議が一段落したころ、上座に座っていた人物があらためて発言した。
「こんなところか。みなは異論ないかね」
「順調に市場が伸びている異世界農家ブランドは、需要に見合う生産量の拡大が課題でしたからね。今回のプロジェクトで解決の目処が立つなら歓迎でしょう」
「バイヤーからの問い合わせが殺到していて、営業部もほんと大変ですしね」
「予算規模も想定の範囲内ですし、財務としても異論はありません」
「廃村や休耕地の再利用ということになるが、その辺は法務とも相談して、自治体や省庁との調整も忘れないように」
意思決定を担っている幹部たちからは、次々と内容に対する肯定意見がだされる。
「ふむ。内容に関しては問題なさそうだな。では、このままプロジェクトを推進してくれ」
おそらくは、この場で役職が最も高いと思われる人物から裁可により、プロジェクト会議は終了した。
そして続々と退出していく役員たちを見送り、会議室の人数がほぼ半分になる。
「そうだ箱崎さん」
「なんでしょう、北畠さん?」
そろそろ席を立とうとしていた箱崎郁子は、今回のプレゼンテーションを仕切っていた男性に呼び止められる。
「来週ぐらいに現地視察に行こうと思うのですが、一緒にいかがですか。ローディアさんも来ますし」
ローディアとは、ハイヤードから派遣されている転移者で、異世界農家プロジェクトの立ち上げから参加している男性だ。
転移される前も農業に従事していたため、異世界での農法にも詳しい。箱崎個人としても、同年代で物腰の穏やかな彼には信頼を置き、プロジェクトの話が持ち上がったときにはまっさきに派遣候補者リストに挙げていた。
実際に派遣されてからも実直な仕事ぶりが評価され、いまや係長クラスの待遇を受けている。
「そうですか。久しぶりにお会いしたいですね。それではスケジュールを調整しますので、日程が決まったらご連絡ください」
「了解しました。ではまた」
箱崎は、軽く会釈をしてから会議室を後にした。
「宝蔵山かぁ、日帰りだと難しいかな。あの地図を見る限り、クルマも4WDじゃないとやばそうよね。あと熊か……、だれか用心棒でも連れて行こうかしら」
そんなことを考えながら、ビルの地下駐車場に停めてある社用車へと向かっていった。
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